第18話 コーヒーゼリー
わたしはコーヒーゼリーが食べられない。
いや、昔は食べられた。
むしろ、大好きだった。
でも、ある時から食べられなくなったのだ。
十代のころ、わたしはコーヒーが嫌いだった。
あんな苦いもの、どこが美味しいんだろうと思っていた。
ところが、十代の終わりに付き合うようになった彼は、大のコーヒー好きだった。
家にはいろいろなコーヒー器具があって自分で豆を挽いて入れていたし、いずれは焙煎の道具を買って自宅で焙煎したいとか言っていて、大学卒業後の第一志望の就職先はコーヒー関連の企業だった。
そんな彼だったから、わたしにもなんとかしてコーヒーの美味しさを教えたがっていた。
彼のおかげでわたしも、コーヒーは豆や焙煎の仕方によっては、苦くないものもあるんだと知るようにはなっていた。けれど、子供のころについたイメージは、なかなか消えない。
そもそもわたしがコーヒー嫌いになった原因は、小学生のころにイマイチ好きじゃなかった親戚のおばさんに喫茶店に連れて行かれて、無理にコーヒーを飲ませられたことにあった。
その時飲んだコーヒーの苦さと、「美味しいんだから全部残さず飲みなさい」と強要して来るおばさんの怖い顔とがセットになって、口にする以前に嫌悪感が湧いて来るのだ。
ただ、わたしは彼が大好きだったし、彼が楽しそうにコーヒーについて語ったりコーヒーを淹れたりするのは好きだったから、少しでもコーヒーを好きになりたいとは思っていた。
そんなわたしにある時彼が、「これ食べてみて」と出してくれたのが、コーヒーゼリーだった。
最初はコーヒーの香りに少し躊躇したものの、透き通って揺れるゼリーに惹かれて、スプーンですくって口に入れてみた。
「あ……美味しい」
思わず、そんな呟きが漏れる。
コーヒーゼリーは思っていたほど苦くなく、ほんのりと甘味があって、口の中でするりと溶けていった。あとに残るのは、芳ばしい香りと風味だ。
わたしの呟きに、彼はホッとしたように顔をほころばせる。
その日から、わたしはコーヒーゼリーが大好きになった。
彼に作り方を教えてもらって、自分でも作るようになった。
コーヒーゼリーを作るのは簡単で、粉ゼラチンとコーヒーがあればすぐにできる。
そして次第にわたしは、コーヒー自体も以前ほど嫌いではなくなった。
少なくとも、彼が淹れてくれるコーヒーならば、飲めるようになった。
彼はわたしのために、豆や焙煎方法や淹れ方をあれこれ選び、考えてくれる。それがうれしくて、わたしも「こんな味なら大丈夫」とか「これが好き」とか、ためらわずに感想を伝えるようになったからだ。
とはいえ、コーヒーゼリーが大好きなことは変わらなくて、わたしたちは外で食事すると、かならずコーヒーゼリーをデザートに注文するほどになっていた。
わたしたちはとても幸せで、わたしはこんな時間がずっと続くのだと信じていた。
二十代の半ばになると、わたしたちは一緒にくらし始め、結婚について話し合うようになっていた。
すでに互いの両親にも挨拶済みで、あとはわたしたちの決心次第だったからだ。
だが、突然それは終わりを告げた。
彼が交通事故に遭って、死んでしまったのだ。
雨の日の交差点で、彼は腕に抱えた荷物から落ちたコーヒーゼリーのカップを拾おうとして、足を止めた。それは、わたしのためのコーヒーゼリーだった。
そこへ信号無視の車が突進して来て、彼は避ける暇もなく弾き飛ばされ、地面に叩きつけられたのだ。
幸い、人通りは多い場所だったので、目撃者が大勢いて通報も早かったので、救急車もわりと早くに到着したらしい。けれど、その時にはすでに彼は絶命していた。
医師によれば、彼は地面に頭を叩きつけられたことで、即死だったのではないかという。
その日の朝、彼にコーヒーゼリーを買って来るように頼んだのは、わたしだ。
前日に、SNSでコンビニ限定のコーヒーゼリーが出たと知って、仕事帰りに買って来てとねだった。
「いいよ、買って来る」
そう言って彼は、出勤して行った。
夕方、雨が降り出した時も、わたしは何も思わなかった。
あの時、「ゼリーは今度でいいよ」とメッセージを送っていれば。
いいえ、そもそもわたしがコーヒーゼリーをねだらなければ。
彼は、今ごろ……。
それからわたしは、コーヒーゼリーが食べられなくなった。
そんなわたしは、時おり夢を見る。
夢の中で彼は、あの日のコーヒーゼリーを買って帰って来ていて、二人並んで食卓に座り、それを食べているのだ。
「美味しいね」
「うん」
互いに顔を見合わせ、笑い合いながら。
目覚めたわたしの口中には、ほろ苦い味が残っている。
それはきっと、あの日食べられなかったコーヒーゼリーの味。そして、かなわなかった夢の残り香なのだろう。
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