第2話 失恋

その日、咲は久しぶりに定時で会社を出られた。クライアントとの大型案件が無事完了し、今夜は啓と、予約しておいた高級フレンチレストランでディナーの約束があった。啓とは3週間ぶりのデートだった。疲労困憊の体に鞭打ち、それでも自然と口元が緩む。

「今夜は、ちゃんと労ってもらおう」

少しだけ奮発して買った新しいワンピースに身を包み、足早にレストランへ向かった。店の前で、啓が白いシャツ姿で立っているのが見えた。普段はカジュアルな格好が多い彼が、今日のためにとっておきの服装を選んでくれたのだと、咲は嬉しくなった。だが、その隣に、もう一人、女性の影が見えた瞬間、咲の足は凍りついた。

啓の隣に立つのは、見覚えのある女性。咲の部署の、一つ下の後輩、森下 恵(もりした めぐみ)だった。

恵は、華奢で可愛らしい容姿とは裏腹に、要領が良く、計算高いところがある、と咲は密かに評価していた。しかし、まさか、こんな形で彼女を目撃するとは、夢にも思わなかった。

啓と恵は、楽しそうに笑い合っている。啓が恵の肩に手を回し、恵がそれを自然に受け入れている。その光景は、誰が見ても、親密な恋人同士にしか見えなかった。

咲の脳裏に、これまで啓が咲に送っていた優しい言葉が、次々にフラッシュバックする。 「咲は頑張ってるからね。俺はいつでも待ってるよ」 「咲が倒れたらどうしていいか分からなくなるからな」 「うん、楽しみにしてる」

その全てが、今、悪意に満ちた嘲笑となって、咲の心を切り裂いていく。

心臓が、鉛のように重くなる。呼吸が浅くなる。目の前が歪み、世界が色彩を失っていくようだった。

咲は、反射的に身を隠した。自分がここにいることを、彼らに知られたくなかった。この惨めな姿を、誰にも見られたくなかった。

そして、彼女は見た。啓が恵の頬にキスをし、二人が手を取り合ってレストランの中へ消えていくのを。

その瞬間、咲の体から、全ての力が抜け落ちた。

「嘘……でしょ……?」

掠れた声が、喉から漏れ出た。全身から血の気が引き、指先が冷たく痺れる。信じていた全てが、足元から崩れていく感覚。

咲は、その場に崩れ落ちそうになるのを必死で耐え、店から離れた薄暗い路地裏に身を隠した。冷たい壁に背を預け、ずるずるとしゃがみ込む。

吐き気がした。

今まで積み上げてきたキャリア、夜を徹して働いた日々、周囲からの評価。それら全てが、この一瞬で、何の意味も持たないものへと変わってしまったように感じた。

「あいつが……啓が……」

自分の最も脆弱な部分を、最も信頼していた人間に、無残にも踏みにじられた。それが、咲にとって何よりも耐え難い屈辱だった。彼女のプライドは、粉々に砕け散り、砂となって風に舞い散るようだった。

スマホを取り出し、啓の番号に電話をかけた。呼び出し音が虚しく響く。しばらくして、彼から着信があった。

「ごめん咲、今日急な仕事が入っちゃってさ。連絡遅れて本当に悪い!埋め合わせは必ずするから!」

嘘。全てが嘘だった。彼の声は、いつもと変わらない、優しさに満ちた声だった。だが、今の咲には、その声が、悪魔の囁きにしか聞こえなかった。

「……そう。分かったわ」 咲は、かろうじてそれだけを絞り出し、電話を切った。喉の奥がカラカラに乾き、目頭が熱くなる。 しかし、涙は一滴も流れなかった。

流れるのは、氷のような冷たい感情だけだった。

「急な仕事……?笑わせないでよ。私の知ってる“仕事”は、あなたとあの女が中でやってる『仕事』でしょうが」

拳を固く握りしめる。爪が手のひらに食い込み、痛みが走る。それでも、その痛みは、心の痛みには遠く及ばなかった。

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