6日目 重ねる【現代ドラマ/離婚した夫の話/1739字】

 私には霊感などないと思っていた。

 けれど今朝は、目が覚めた瞬間はっきりと、あ、あの男が死んだな、と直感した。


 女には過去に肌を重ねた男の死期を感じる能力でもあるのだろうか。まして私は奥手で、人生であの男以外の人間と肌を重ねたことがなかったので、男性と言えばあの男のことしかわからない。


 あの男とは私が高卒で入社した会社で知り合った。少し年上のやせぎすの彼は、声が優しくて穏やかな人だった。地味な私と地味な彼。その頃は就職氷河期で職場に同世代の人間がいなかったこともあって、私たちはあっと言う間に親しくなり、そして、会社に寿退社を強要された。そういう時代だったのだ。


 会社を辞めて自宅で一人孤独だった私は、彼にせがんで今風に言うところの妊活を始めたのだけれど、なかなか授からなかった。自然な形での妊娠はできないのではないかと思い、二人で産婦人科に行ったけれど、不妊の原因はわからなかった。私は勝手にあの男が煙草をやめてくれないせいで精子が悪いのだと決めつけた。そして、なんとなくコミュニケーション不全が続いて、離婚するに至ったのだ。


 それ以来、私は派遣として細々と食いつないできた。幸いにも十年ほど前労働法の改正があって正規雇用に格上げされたため、たいした趣味もない女一人のつつましい生活はそんなに苦しいものではない。ただ漫然と時間が過ぎていく。


 あれ、私、何のために生きているんだっけ?

 たまにそんなふうに立ち止まることもあるけれど、すべてはおおむね順調だった。


 今朝までは。


 私はあの男の携帯電話に電話をかけた。彼の最後の情けで、何かあったら連絡してきてもいい、と言って、番号を変えないことを約束してくれたのだ。彼は優しい人だった。まるでハリネズミのようになっていた私のほうが悪かったかのようだ。


 しばらく呼び出し音が鳴った後、電話はつながり、通話モードになった。なんだ、私の気のせいだったのか。そう思い、二十年近くぶりに何を話そうか、と苦笑していたところ、声が聞こえてきた。


『はい』


 若い女の子の声だった。


「あら、私、電話、かけ間違えたかしら。この番号、柳沢やなぎさわさんのものだと思ってたんだけど」


 驚きを抑えてそう問い掛けると、電話の向こう側の女の子がこう答えた。


『父のお知り合いなんですね』


 私は目を真ん丸にした。


『父は死にました。今朝四時頃』


 そして、慟哭。


 私の直感は当たっていたのだ。


 一瞬頭が真っ白になったが、ふと、わかっていたことではないか、という思いがよぎる。自分はあの男の死を確認するために電話したのではないか。


 それより、彼女はあの男を父と呼んだ。


 彼女が正確に何歳なのかはわからないが、まだ十代半ばから後半のように聞こえる。高校生くらいだろうか。となると、彼は私と離婚してから一、二年で再婚して、すぐに子供をもうけたことになる。


 私は恥ずかしくなった。子供ができないのは彼のせいだと思い込んでいたが、私の体に不具合があったのだ。申し訳ないことをしてしまった。急に彼がいとおしくなってきて、私の胸の奥がぎゅっと痛んだ。本当に、ただただ優しいだけの人だった。


「もしよかったら、私をお葬式に呼んでくれないかしら? 私、市川いちかわという者なんだけど、昔の職場の同僚だったの」


 そう言ってから、はっとする。


「ごめんなさい、亡くなられたばかりなのに、こんなこと、失礼よね。まあ、頭の片隅に入れておいて、お母さんにそれとなく伝えてちょうだい。お手伝いできることがあればします」


 すると、彼女はこう言った。


『いないんです』

「何が?」

『お母さん』


 彼女はよりいっそう激しく泣いた。


『わたし、ひとりぼっちになっちゃった』


 いてもたってもいられなくなって、私は腰を浮かした。


「あなた、お名前は?」

麻衣まい

「まいちゃんね」


 急いでコートをひっつかむ。


「おばちゃん、今からまいちゃんのおうちに行ってあげる。できる限りお手伝いしてあげるから、泣かなくていいからね」

『でも、あの、知らない人に――いえ、ごめんなさい、その、初対面の人に迷惑をかけるわけには……』

「まいちゃん年はいくつ?」

『十六歳』

「じゃ、大人のフォローがあってしかるべきだわ。大丈夫。大丈夫だからね」


 靴に足を突っ込む。


「住所を教えてちょうだい。もう大丈夫。おばちゃんがついてるわ」





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