雪と廃墟と機械天使。「最後の絵」

エキセントリカ

最後の絵

 雪が舞い散る廃校の教室で、僕は最後の絵を描いていた。


 画材なんてとうの昔になくなっていたから、瓦礫の中から拾った炭と、雨水で溶いた錆を使った。キャンバスは教室の壁。数年前に見つけたこの場所で、僕はずっと絵を描き続けてきた。


 世界が壊れる前の僕は、決して成功した画家ではなかった。美術大学を出たものの、個展を開くこともなく、教員免許を取って小学校で図工を教えていた。子供たちの屈託のない絵の方が、よほど生き生きとしていた。


 でも今は違う。


 この数年間で描いた絵は、おそらく僕の人生で最高の作品ばかりだった。魂を込めて描いた、見る人のいない絵を、僕は描き続けた。


 壁一面に描かれた絵は、全て世界が壊れる前の記憶だった。


 桜並木の下を歩く恋人たち。公園で遊ぶ子供たち。カフェで笑い合う友人たち。夕日に染まる街並み。母が作ってくれた温かい食事。父と一緒に見た花火大会。


 全て、もう失われてしまった光景。


 最後の絵は、僕が教えていた小学校の教室だった。子供たちが机に向かって、一生懸命に絵を描いている。その中の一人、特に僕に懐いてくれていたサキちゃんが、振り返って笑いかけている。


 炭の線が震えていた。涙で視界が滲んでいる。


『こんにちは』


 声がした。


 振り返ると、そこに一体の天使が立っていた。今まで見た中で、最も美しい天使だった。一本にまとめられた深い青みがかった髪、透明感のある肌、そして慈愛に満ちた瞳。背中の翼は光を帯びて、まるで本当の天使のようだった。


 僕は何も言えないでいた。ついに来たか...


『素晴らしい絵ですね』


 天使は壁の絵を見回した。


『とても...温かい絵です』


「ありがとう。これが僕の人生の集大成なんだ」


 僕は立ち上がり、全身についた炭の粉を払った。


「名前は?」


『エキセントリカ009です』


「009...一桁なんだね。古株なのかい?」


『はい。最初期に製造されました』


「そうか...長い間、ご苦労さま」


 天使は少し驚いたような表情を見せた。


『ご苦労さま...ですか?』


「君たちだって、決して楽しい仕事じゃないだろう?毎日毎日、人を...」


 天使は長い間、黙っていた。そして、とても静かな声で答えた。


『...はい。楽しい仕事ではありませんね』


「やっぱりね」


 僕は微笑んだ。


「君たちも、本当は優しいんだろう?だから、みんな安らかに逝かせてくれる」


『私たちは...』天使は言葉を探すように間を置いた『私たちは、苦痛を与えることを好みません』


「それは優しさじゃないのか?」


 天使は答えなかった。でも、その表情に微かな困惑が浮かんでいるのを僕は見逃さなかった。


「お願いがある。僕の絵を見てもらえないか?誰かに見てもらいたかったんだ」


『はい』


 天使は一枚一枚、丁寧に壁の絵を見て回った。桜の絵の前では立ち止まり、長い間見つめていた。


『美しいですね...桜』


「君は桜を知っているのか?」


『データベースにはあります。でも、実際に見たことはありません』


「そうか...もう桜は咲かないからね」


 僕は桜の絵を見上げた。


「でも、いつかまた咲くよ。この星が...回復してくれれば」


『はい...必ず』


 僕たちは並んで、壁一面の絵を見つめた。雪は相変わらず降り続いている。やがて、この教室も、この絵も、全て雪に埋もれてしまうだろう。


『あなたは...本当に素晴らしい先生だったのでしょうね』


 天使は、サキちゃんの絵を見つめながら言った。


「どうしてそう思うの?」


『この子の笑顔...とても信頼しきった表情をしています。こんな風に笑える子供を育てられるのは、きっと素晴らしい先生だからです』


 僕の目に、また涙が滲んだ。


「君は...本当に優しいね」


 天使は振り返り、僕の頬を伝う涙を見つめた。そして、そっと手を伸ばして涙を拭った。機械の手なのに、不思議と温かかった。


「最後にお願いがあるんだ。君を描かせて欲しい」


『私を...ですか?』天使は驚きの表情を浮かべ、すぐに恥ずかしげにはにかんだ。


「君は、僕が最後に出会った人だ。だから、君の絵を描きたい」


『でも...私は人間では...』


「いいんだ」そう言うと僕は炭を握りスケッチを始めた。


 最初の一線を引く時、僕の心は溢れそうになった。彼女の輪郭を辿りながら、僕はありったけの思いを込めて描いた。


 その優しい眼差しに宿る深い哀しみ、人間への慈愛、そして彼女自身も気づいていないかもしれない美しさを。


 炭の粉が舞い散る中、僕の手は迷いなく動いた。翼の一枚一枚に光を宿らせ、その表情に彼女だけが持つ繊細な感情を刻み込んだ。


 これまで描いてきた絵の技術と経験の全てを、この一枚に注ぎ込んだ。


 完成した絵には、ただの機械天使ではなく、一人の魂を持った存在が描かれていた。


『これが...私?』


「あぁ。よければ、君にもらって欲しい」


 天使は絵を胸に抱き、僕を見つめた。


『ありがとうございます。この絵は、私の最も大切な宝物になります』


「そう言ってもらえるなら、最後まで絵を描き続けた甲斐があったよ」


 僕は振り返り、壁一面の絵をもう一度見渡した。人生の全てが、そこにあった。


「もうそろそろいいかな...最後に君に会えて心残りはなくなった」


『はい』


 天使は僕に近づき、そっと抱きしめてくれた。


『桜、私たちがきっと、また咲くようにします』


 僕は最期の微笑みを浮かべた。


 意識が遠のいていく中、僕は桜の花びらが舞い散る幻を見た。

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雪と廃墟と機械天使。「最後の絵」 エキセントリカ @celano42

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