第2章 気圧の味

スーパーの自動ドアが開き、生ぬるい外気が肌を撫でた。寛は当たり前のように歩き出し、羽依里は少し遅れてその背中を追う。並んで歩くには、まだ心の準備ができていなかった。彼の歩幅は広く、迷いがない。まるで、行き先がずっと前から決まっていたかのように。


「あの、どこまで行くんですか?」

「すぐそこ。電車で二駅」

「電車……」

「切符代くらい、おごるって」

寛は振り返って、悪戯っぽく笑った。その笑顔は、夕暮れの赤い光を浴びて、やけに鮮やかに見えた。彼の言葉には、からかうような響きがあったが、その質感は不思議と心地よかった。羽依里を安心させるための、計算された軽やかさ。


駅のホームは、帰宅を急ぐ人々でごった返していた。逆方向へ向かう電車は空いていて、二人は向かい合わせの席に座った。窓の外を、見慣れた景色が猛スピードで流れていく。看板、アパートのベランダ、電線で羽を休める鳥。すべてが、いつもと同じはずなのに、今日は映画のワンシーンみたいに非現実的に見えた。


「あんた、時々、すごく遠くを見てるよな」

寛が、唐突に言った。

「え?」

「今みたいに。目の前にあるものじゃなくて、その向こう側にある何かを、目で追ってる感じがする」

図星だった。羽依里は、言葉の質感を感じるのと同じように、時々、風景の裏側に染みついた感情の澱のようなものを見てしまうことがあった。疲れた人々が吐き出したため息が、駅のホームに灰色の靄として溜まっているのが見えたりする。もちろん、そんなことは誰にも言ったことがない。


「気のせい、ですよ」

「そうかな」

寛はそれ以上追及せず、窓の外に視線を戻した。彼の横顔を、羽依里は盗み見る。彼は一体、何者なのだろう。人の内側を、いとも簡単に見透かしてくるような、鋭い視線。なのに、その言葉は決して人を傷つけない。絶妙な距離感を保ったまま、相手の心の一番柔らかい場所に、そっと触れてくる。


電車を降りると、そこは羽依里の知らない町だった。駅前は閑散としていて、シャッターが下りたままの商店が並んでいる。寛は躊躇なくその寂れたアーケード街を抜け、細い路地へと入っていった。古びた雑居ビルが、空に向かって窮屈そうにひしめき合っている。その中の一棟、壁のタイルが何枚も剥がれ落ちたビルの前で、彼は足を止めた。


「ここ?」

「ここ」


錆び付いた鉄の階段を、軋む音を気にしながら上っていく。三階と四階の間の、踊り場のような場所に、目立たない灰色のドアがあった。表札も何もない。寛はポケットから鍵を取り出すと、慣れた手つきで錠を開けた。


「おじゃまします」

「……おじゃまします」


羽依里も、小声でそれに続いた。ドアの向こうは、想像していたどんな部屋とも違っていた。


部屋、というよりは、何かの実験室のようだった。壁一面に、アナログなメーターやモニターが並び、天井からは用途不明のアンテナのようなものが何本もぶら下がっている。しかし、SF映画に出てくるような無機質な空間ではない。窓辺にはたくさんの観葉植物が置かれ、使い込まれた木のテーブルの上には、飲みかけのマグカップが二つ、湯気を立てていた。部屋の真ん中には、年代物の革のソファが鎮座している。


「おかえり、ヒロシ。遅かったじゃない」


部屋の奥から、声がした。モニターの光に照らされて、一人の女性が姿を現す。ショートカットの髪に、大きな丸眼鏡。白衣のような、だぼっとしたシャツを着ていた。和田恵子だった。彼女は寛の高校時代の同級生で、大学には行かず、実家のこのビルの一室で、一人で何かを研究していると、以前、璃子が噂話で言っていた。


「客を連れてくるなんて、珍しい。その子が、噂の?」

恵子の視線が、値踏みするように羽依里に向けられる。その目は、ガラス玉のように冷ややかに見えたが、奥には強い好奇心が渦巻いていた。

「まあな」と寛が答える。「こいつ、和田恵子。気象予報士の真似事をやってる」

「真似事じゃない。私は、もっと高尚なものを観測してるの」

恵子はそう言うと、羽依里を手招きした。「あなた、羽依里さん、だっけ。ちょっと、こっち来て」


羽依里は、促されるままにモニターの前に立った。画面には、複雑なグラフや天気図のようなものが映し出されている。

「これは、昨日のこの町の『倦怠感』の推移よ」と恵子は、グラフの一点を指さした。「夕方五時半を境に、数値が急激に跳ね上がってる。ちょうど、サラリーマンたちが会社を出て、絶望的な気分で電車に揺られ始める時間帯。気圧の低下と、人々の集団的な気分の落ち込みには、明確な相関関係があるの」


恵子の言葉は、淡々としていて、感情が乗っていない。なのに、その質感は驚くほど純粋だった。一点の曇りもない、硬質な水晶のような手触り。彼女は、自分の見ている世界を、心の底から信じているのだ。


「面白いだろ?」

寛が、ソファに深く体を沈めながら言った。「恵子は、天気の味見ができるんだ」

「味見?」

「そう。今日の空気は、ちょっと鉄っぽい味がする、とか。雨が降る前は、土の匂いが濃くなるとか言うだろ? あれのもっとすごいやつ。こいつは、人の感情が混じった気圧の味までわかるんだよ」


恵子は少し照れたように眼鏡の位置を直すと、テーブルの上のポットから、マグカップに琥珀色の液体を注いだ。

「ハーブティー、飲む? カモミールとレモングラス。それから、昨日の夜に採取した『静寂』を少しだけ乾燥させて混ぜてある」

「……いただきます」


差し出されたマグカップを、羽依里は両手で受け取った。温かい湯気と共に、嗅いだことのない、不思議な香りが立ち上る。静寂の味。そんなものが、本当にあるのだろうか。


羽依里は、ソファに座る寛と、モニターを見つめる恵子を交互に見た。ここは、一体なんなのだろう。この人たちは、一体なんなのだろう。自分の知っている世界の法則が、ここでは通用しないような気がした。


窓の外では、空が深い藍色に変わり始めていた。町の灯りが、ぽつり、ぽつりと点っていく。羽依里は、ハーブティーを一口飲んだ。舌の上に、柔らかくて、少しだけ寂しい味が広がった。それは、紛れもなく、静寂の味だった。


「……美味しい、です」


そう言うと、寛と恵子が、同時にふっと笑った。その瞬間、三人の間に流れる空気の質感が、ほんの少しだけ、優しいものに変わったような気がした。

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