第3章 美しい欠陥

「ヒロシから聞いたわ」

静寂を破ったのは、恵子の声だった。彼女はモニターの光を背にして、逆光の中で輪郭だけの存在になっている。

「あなた、『言葉の重さ』がわかるんでしょ?」


その言葉は、何の脈絡もなく、部屋の真ん中に放り込まれた。羽依里は息を呑み、反射的に寛に視線を送る。彼はソファの上で悪びれる様子もなく、ただ面白そうにこちらを見ているだけだった。

「面白いアンテナ持ってるやつがいるって、教えただけだよ。別に、個人情報を漏洩させたわけじゃない」

「同じことよ」と恵子は言いながら、羽依里の隣に腰を下ろした。「安心して。私たちは、そういうのを『異常』だなんて思わないから。むしろ、歓迎するわ。この世界は、普通のものだけでできてると考えるほうが、ずっと不自然だもの」


恵子の言葉には、嘘のざらつきがなかった。彼女は本気でそう思っている。その事実が、羽依里の警戒心を少しずつ溶かしていく。自分の秘密が、ここでは欠点ではなく、個性として受け入れられている。その居心地の良さに、羽依里は戸惑いを覚えた。


寛が、ごそごそと自分のバックパックから何かを取り出した。古びた木でできた、手のひらサイズの箱だった。精巧な幾何学模様が彫り込まれている。

「恵子、これ見てくれよ。蚤の市で掘り出したんだけど、どうにも開かなくてさ」

「寄木細工のパズルボックスね。箱根のやつかしら」

「それが、どうも違うっぽいんだよな。もっと、個人的な呪いがこもってる感じがする」

寛はそう言って、箱をテーブルの上に置いた。コツン、と乾いた音が響く。


「前にアルマに見せたらさ、『構造的に美しい欠陥だ』とか言って、三秒で開けやがった。本当につまんない男だよ、あいつは」


アルマ。長谷聖真のことだ。彼もまた、寛の古い友人だと聞いている。一度だけ、駅で寛と話しているのを見かけたことがあった。彫刻のように整った顔立ちで、周囲の雑踏から切り離されたような、静謐な空気をまとっていた。彼なら、この箱の仕組みを、数式を解くように簡単に見抜いてしまうのだろう。


「欠陥、ね」恵子は興味深そうに箱を手に取ると、光にかざしたり、軽く振って中の音を聞いたりしている。「確かに、普通のパズルボックスとは違う歪さを感じる。意図的に、解かせないように作られてるみたい」

彼女はしばらく箱をいじっていたが、やがて諦めたようにテーブルに戻した。

「私には無理。もっと、物理的じゃないアプローチが必要ね」


二人の視線が、自然と羽依里に集まった。

「え……私?」

「あんたの出番だろ」と寛がニヤニヤしながら言う。「その箱が、なんて言ってるか聞いてみてくれよ」


冗談みたいな提案だった。でも、二人は本気だった。羽依里は恐る恐る、箱に手を伸ばした。ひんやりとした木の表面に、指先が触れる。


目を閉じると、様々な感触が流れ込んできた。箱を作った職人の、執念深い集中力。蚤の市の埃っぽい匂い。何人もの、好奇心に満ちた手。そして、長谷聖真という男の、すべてを見透かすような冷たい指先の感触。様々な記憶が、層になってこの小さな箱に堆積している。


でも、その一番奥にある核の部分は、驚くほど頑なだった。

それは、まるで固く閉ざされた貝のようだった。誰にも内側を覗かせないという、強い拒絶の意志。


「……この箱」羽依里は、ゆっくりと目を開けた。「あまり、触られたくないみたいです」

「ほう」

「開けられたくない、って……思ってる。誰にも」


羽依里の言葉に、寛と恵子は顔を見合わせた。

「参ったな」寛は頭をかきながら、本気で困ったような顔をした。「じゃあ、どうやっても開かないってことか」

「そうとは限らないわ」と恵子が言う。「拒絶しているなら、その理由があるはずよ。理由がわかれば、心を開かせる方法も見つかるかもしれない。人間と同じね」


その日は、結局それ以上何も進展しなかった。恵子の観測所を出ると、夜の空気がひんやりと肌に心地よかった。寛と二人、黙って駅までの道を歩く。


「悪かったな、いきなり変な場所に連れてきて」

「いえ……」

羽依里は、何と答えるべきか迷った。「……面白かったです」

「だろ?」

寛は満足そうに笑った。「あの箱、また挑戦しに来いよ。あんたなら、そのうち開けられる気がするんだ」


彼の言葉は、ただの社交辞令には聞こえなかった。その質感は、澄んだ水のようにまっすぐで、羽依里の心に何の抵抗もなく染み込んでくる。それは、次回の約束を期待させる、確かな手触りを持っていた。


別れの挨拶もそこそこに、反対方向の電車に乗り込む。ドアが閉まり、ゆっくりとホームが遠ざかっていく。窓に映る自分の顔が、数時間前とは少しだけ違って見えた。


羽依里は、自分の日常に、奇妙で、それでいて抗いがたい「続き」が生まれてしまったことを自覚していた。それは、未知の領域に足を踏み入れてしまったような、微かな恐怖と、それ以上に大きな、胸の奥から湧き上がってくる高揚感を伴っていた。


自宅のアパートの最寄り駅に着き、夜空を見上げる。恵子の部屋から見たのと同じ、細い月が浮かんでいた。でも、その光は、もうただの月の光ではなかった。カモミールと、レモングラスと、そして、乾燥させた静寂の味が、ほんのりと混じっているような気がした。

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