半分の魂に捧ぐ子守唄

kareakarie

第1章 イエローベリー

黄色すぎる、と思った。浦田羽依里はカートを押しつけられるようにしながら、バナナの山の前で足を止める。完熟というにはあまりに均質で、まるでプラスチックのサンプルみたいに、ひとつも傷のない黄色だった。フィリピン産。エクアドル産。メキシコ産。札に書かれた国々はどれも遠く、このスーパーマーケットの空調の効いた空気とは無縁の、強い日差しと湿った土の匂いを連想させた。しかし、目の前のバナナからは、そんな物語の気配は微塵も感じられない。ただ、無機質な甘い匂いが、包装のビニール越しに漂ってくるだけだ。


「完璧すぎるのも、なんだかね」


独り言のつもりだった。だが、すぐ隣で同じようにバナナを品定めしていた男が、ふっと笑う気配がした。羽依里はぎょっとしてそちらを見る。城戸寛だった。彼がここにいる。週に二度、決まってこの曜日のこの時間に見かける男。特にハンサムというわけじゃない。でも、彼の周りだけ、空気が違う種類のフィルターを通しているみたいに見える。着古したTシャツも、少し色落ちしたジーンズも、彼が身につけると何か特別な意味を持つ小道具のように見えた。


寛は羽依里の視線に気づくと、片方の口角を上げてみせた。

「わかる。完璧なやつほど、中身は期待外れだったりするからな。人生と一緒だ」

彼はそう言うと、わざと少し青くて筋張ったバナナの房を手に取った。「俺は、こんくらい未熟なほうが好み。育てる楽しみがある」

「……育てる、んですか」

「追熟させるってこと。部屋に置いとくと、だんだん甘くなってくんだよ。匂いも変わってくるし。まあ、見てるだけだけど」


見てるだけ、という言葉が、羽依里の耳には奇妙な響きで届いた。彼の声は、滑らかな表面に微細なガラスの粒でも混ぜ込んだような、独特の質感を持っていた。羽依里は時々、人の言葉がそんなふうに、物理的な手触りを伴って感じられることがあった。嘘やごまかしの言葉は、水を含んでふやけた紙のようにぐずぐずとした感触になる。だから、人と話すのは少し疲れた。


でも、寛の言葉は違った。真実とか嘘とか、そういう次元じゃない。ただ、そこにあるオブジェみたいに、確かな存在感だけがあった。


「じゃあ」と寛は言って、羽依里のカートの中をちらりと見た。中には、特売のヨーグルトと、見切り品の食パンと、それから、さっき何となく手に取ったアボカドが一つ入っている。

「アボカド、選ぶのうまいな。それ、たぶん当たりだ」

「当たり……?」

「食べごろってこと。俺、外したことないから」


彼はそれだけ言うと、口笛でも吹き出しそうな軽い足取りで、レジのほうへ向かってしまった。残された羽依里は、自分のカゴの中のアボカドをまじまじと見つめる。当たり。彼の言葉が、緑色の皮の上で小さな光の粒になって弾けるような気がした。


図書館の閲覧室は、死んだように静かだった。ページをめくる乾いた音と、誰かの咳払いが、時折その沈黙を破るだけだ。出村璃子は、テーブルに頬杖をつきながら、うんざりした顔で羽依里を見ていた。


「で? そのアボカド王子とは、それっきりなわけ?」

「だから、王子様とかじゃないって。ただ、スーパーで会っただけ」

「だけ、じゃないでしょ。会話したんでしょ? それって、人類の歴史から見れば、もうセックスみたいなもんじゃない?」

「あんたの歴史観、どうなってんのよ」


向かいに座る上條江莉が、分厚い専門書から顔を上げずに言った。「璃子、声。あんたの欲望が、この静寂をレイプしてる」

「あら、ごめんあそばせ。でもさあ、羽依里がここまで誰かに執着するなんて、珍しいじゃない。なんか、見てるとじれったいんだもん」


璃子の言葉は、いつもカラフルなキャンディーみたいに、軽くて甘い。羽依里は、その無邪気な圧力を受け流すように、借りてきたばかりの本の表紙を指でなぞった。『失われた都市の測量術』。別に内容に興味があったわけじゃない。ただ、タイトルが気に入っただけだ。


「執着なんてしてないよ。ただ……ちょっと、気になるだけ」

「その『気になる』が曲者なのよ」と江莉が口を挟む。「好奇心は猫を殺すって言うでしょ。相手がどういう人間かもわからないのに、首突っ込むのはリスクが高い。あんた、人を見る目はあるんだから、もっと慎重になったら?」


江莉の言葉は、冷たくて硬い。まるで、磨き上げられたステンレスのようだ。それはいつだって正論で、羽依里の浮つきかけた心を的確に射抜いてくる。


「別に、どうこうなりたいわけじゃないし……」

「嘘だ」と、璃子と江莉の声が、珍しくきれいに重なった。

羽依里は観念して、大きくため息をついた。二人には敵わない。彼女たちの言葉は、それぞれ違う質感で、羽依里の防御をすり抜けてくる。璃子の言葉は、その軽さでバリアを飛び越え、江莉の言葉は、その硬さでシールドを貫通するのだ。


「あの人、フリーで仕事してるらしいよ」璃子が、どこで仕入れてきたのかわからない情報を囁いた。「時々、『カフェ・ドゥ・マゴ』のテラス席で、パソコン開いてるって噂。絵になる男は、やることが違うよねえ」


『カフェ・ドゥ・マゴ』。駅前の通りにある、気取ったオープンカフェだ。値段が高いだけで、コーヒーの味は普通だと評判の。


「罠かもしれないわよ」江莉が、本のページをめくりながら呟いた。「そういう男は、自分がどう見られてるか計算してる。テラス席なんて、自分を展示するためのショーケースみたいなものじゃない」

「考えすぎだって、江莉は。もっとシンプルにいこうよ、シンプルに」

「シンプルに考えて痛い目見るのは、いつだって羽依里なんだから、私が心配してるんでしょ」


二人の会話を聞きながら、羽依里は寛の顔を思い出していた。アボカドは当たりだと言ったときの、あの悪戯っぽい笑み。彼の言葉は、本当にただの思いつきだったのだろうか。それとも、江莉が言うように、計算された何かだったのか。


考えても、答えは出ない。彼の言葉の質感は、今もまだ羽依里の記憶の中で、奇妙な手触りを保ち続けていた。それはまるで、熟れすぎもせず、硬すぎもせず、完璧な食べごろを保ったままの、アボカドの果肉のようだった。


数日後、羽依里はまたスーパーにいた。別に寛に会うためじゃない。牛乳が切れたからだ。そう自分に言い聞かせながらも、無意識に野菜売り場に足が向いていることに気づいて、自嘲気味に口元を歪める。


彼の姿はなかった。当たり前だ。がっかりしている自分がおかしくて、羽依里はさっさと牛乳をカゴに入れると、レジに向かった。その時だった。


「よう」


すぐ真横から、声がした。寛だった。今日は黒いパーカーを着ていて、いつもより少しだけ、影が濃く見える。彼は羽依里のカゴを覗き込むと、ニヤリと笑った。


「今日は牛乳だけ? 腹減らない?」

「……別に」

「あのさ、この前のアボカド、どうだった?」

「え?」

「当たりだったろ?」


有無を言わせない口調だった。自信に満ちた、疑うことを知らない声。羽依里は、どう答えるべきか迷った。実は、あのアボカドは最高に美味しかったのだ。今まで食べたどんなアボカドよりも、クリーミーで、味が濃くて、本当に「当たり」だった。


でも、それを素直に認めるのは、なんだか癎に負けた気がした。


「……普通、でした」


羽依里がそう言った瞬間、寛の目が面白そうに細められた。

「へえ。普通か」


彼の声の質感が、するりと変わった。さっきまでの滑らかな手触りが消えて、まるで目の細かいサンドペーパーでこすったような、ざらついた感触が羽依...里の鼓膜を撫でた。

羽依里は、自分の言葉が嘘だと見抜かれたことを悟った。


「まあ、いいや」寛はすぐにいつもの調子に戻ると、ポケットからくしゃくしゃの紙切れを取り出した。「俺、今からちょっと面白いもん見に行くんだけど。暇なら、来る?」


紙切れには、走り書きのような文字で、住所らしきものが書かれていた。この近辺の地名ではない。


「面白いものって……何です?」

「行けばわかる。退屈はさせないって、保証するよ」


彼の言葉は、再びガラスの粒を混ぜ込んだような、きらきらとした質感を取り戻していた。誘われている。でも、その誘いはあまりに唐突で、現実味がない。江莉の「罠かもしれない」という言葉が、頭の中で警報のように鳴り響く。


羽依里は、くしゃくしゃの紙切れと、寛の顔を交互に見た。彼の目は、面白いおもちゃを見つけた子供のように、好奇心で輝いていた。その輝きは、あまりに純粋で、計算されたものには見えなかった。


「……行きます」


気づいたら、そう答えていた。自分の声が、少しだけ震えている。寛は満足そうに頷くと、「じゃあ、十分後に店の前で」と言って、また風のように去っていった。


レジのベルトコンベアの上を、牛乳パックが一つ、ゆっくりと流れていく。外はもう、夕暮れのオレンジ色に染まり始めている。羽依里は、これから何が起こるのか、まったく想像がつかなかった。ただ、心臓の音が、さっきよりもずっと大きく、そして速く脈打っているのを感じていた。退屈な日常が、音を立ててひび割れていく。そんな予感がした。

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