第2話簡潔にお話しをするならば⋯
簡潔にお話しをするならば⋯。
実は私、前科3犯です。
しかも、それは覚せい剤取締法違反なのだ。
初犯は、執行猶予。
2回目は、岐阜県の笠松刑務所。
3回目は、精神鑑定をして栃木刑務所。
執行猶予の時と、笠松刑務所の時は娘は施設で生活をしていた。
私の症状が出始めた時に、児童相談所から目を付けられたのだった。
笠松刑務所を満期で出所してきて、すぐに娘と私の2人暮らしが始まった。
すると娘が、小学校4年生の時に突然、不登校になった。
5年間の施設の生活で心が疲れてしまったのだろう。私が、笠松刑務所にいる時に、児童相談所の担当は、娘が、善悪の区別が付かなくなるからと言って、私が、覚せい剤を使用し、悪いことをして刑務所に行くんだよと娘に伝えたのだった。
それも正解なことに転換していくのは、自分自身しかいないと決意した瞬間だった。
当時、小学校1年生の娘は、悪いことをすれば私に会えると思ってコンビニで万引きをしたのだった。
不登校の時に、泣きながら「私、万引きしちゃった⋯」と娘が言った。
だから、「もう二度としなければいいんだよ!」と娘に伝え、「あなたは、悪いことをすれば私に会えると思ったんでしょ?」って。
娘は大泣きした。
一瞬、救われたような表情をしたのが忘れられない。
娘は、私のことを呼び捨てで呼ぶ。
小さい頃に教えたけど⋯
未だに、呼び捨てにする。
猫を飼いたいと娘が言い、しっかり面倒を見るとの約束で⋯動物愛護館に2人で通い、ハチワレの猫をもらった。
猫はだいたい、私の弟に懐くけど、このハチワレのめいめいだけは、娘に服従だった。
そして、不登校でも娘のことを求めて、遊ぶのを大きな心で見て下さるお母さんもいらした。
土日になると、玉子とハムとチーズのサンドイッチを持たせて遊びに行くことがあった。
学校の教頭先生が、私に「お母さんと一緒に給食だけでも食べにおいで」と言ってくださり、前の日に、クラス全員分のチョコチップクッキーを2人で焼いて、学校へ行ったりした。
娘を不登校にすると決めた時、私が一切の責任を取ろう!!と決めたのだった。
その温かく見守って下さったお母さんは、自分の娘さんが「Mちゃんに学校来てほしい!」と言うと、「だったら、あなたがいつもより早く起きてMちゃんを迎えに行ってあげなさい!」というお母さんだった。
本当にありがたかった。
忘れちゃいけない。
娘と近所のゲオへ行って、DVDを借りたり、マンガをたくさん借りたり、パズルをしたり、ジョギングをしたり、寝る前には、子育てのやり直し!!と思い、絵本を読んであげた。一緒にお料理もした。
大人びた一面があったり、年相応な一面があったり、赤ちゃんのような一面も、全て受け止めた。
そんな中、娘のいた施設のボスのKちゃんと連絡を取ることができた。
Kちゃんも苦しんでた。
友達の鼻の骨を折ってしまったとのことだった。
すぐに、子育て支援課の矢野参事に連絡を取り、Kちゃんはどうしたらいいのか聞くと、行政の指示に従いなさい。との返事で、Kちゃんの最後の言葉で、「Mのお母さんの子供になりたい!!」と言っていた⋯。
その後は、消息不明だ。
そして私は、教育論を学んだ。
色んな本や新聞を貪るように読んだ。
その中で、ある世界の指導者が、
「子供が大人になった時に、自分の力で幸福を掴む力を付けさせる教育でなければ、真の教育者ではない。」と。私は、この人のこの言葉がぐさっと来た。
教育という、これほど偉大なものはないと思う。人間があって、初めて社会があり、世界が、あるんだから。
その人間をどう立派に育て上げるか⋯。
子供たちの未来を願うのは、私の心にもある。
全て、文面にしてまとめたものを、学校の教頭先生、児童相談所、教育委員会に提出したのだ。
不登校の大変さをご存知な大先輩から、「不登校をそこまで開いたの!?」と言っていただいた。
そんな中、精神鑑定をすると言って下さった、G先生が顧問弁護士として付いている、Kさんが会いに来て下さったのだった。
あなたの顔を思い浮かべると、自然となんだか涙が出てきてしまうんだよって言われてた。
娘は小学校4年生から、中学3年生まで不登校だった。
栃木刑務所の時は、ママが娘と2人で生活をしてくれていた。
だから、正直、安心できたのは確かだった。
私の病気は、日本では認められていません。
私のママも理解するまで1年かかったとのこと。
記憶のないうちに、自分ではない人物が、自分の中にいて私の体で動いていた。
ママに言われて、精神科にかかると
清水区の駿府病院では、「演技だ」と。
今度は、日本平病院では「オカルト話」だと。
もしも、私の中から別の人が出てきたら「お前はもう出てくるな!!」と言うように医師から指示を受け、そのようにしても、悪くなる一方だった。
その私の姿を、幼いながらに見てきた娘の気持ちを考えると、本当に申し訳ないとしか言えないのだ。
たくさん傷付けたし、病気のお母さんが病気なんてって幼いながらに感じたと思う。
私の胸も、もちろん痛む。
そんな中、17才の時にバイクの事故で亡くなった父親が市会議員をやられてた方の紹介で、静岡市葵区にあるKKIセンターに受診した。
浜松医大から来られていた、Eドクターに診ていただいたら、初めてそこで多重人格障害と診断書を書かれた。
そして、その医師は、ママに「この子から、24時間目を離さないでください。そして、出てくる人格たちを決して刺激しないで下さい。」との指示を受けたのだった。
しかし、ママも眠らなければいけない。
ママにも限界があった。
そして、遂に事件を起こしたのだった。
覚せい剤取締法違反。
覚せい剤を、かなという人格がなんらかの形で私の体に摂取して、わざと静岡中央警察署に出頭したのだった。
かなという人格の他に、ジュリア、モモ、リュウという人格もいた。
人格達は、自分のことを人格というと腹を立てたのだった。
リュウは、簡単に街に出て、服がボロボロになるほどケンカをするような人格だった。
ジュリアは、ぶりっ子って感じだったらしい。
モモはよく歌を歌っていたと。
かなには言い分があった。
「カナには、イヤなこと全部押しつけて、自分は可愛い娘と楽しく暮らしてる。許せない。こいつを(私)地獄に落としてやりたかった。」と。
解離性障害の原因となる幼い頃から、中学生の頃のトラウマのことを言いたいのだと思う。
初犯の時は、警察にも弁護士にも検事にも自分には身に覚えがないと伝えた。
すると、弁護士が初犯は執行猶予が付いて出れるから、今回は諦めましょうと話し合い、1年6月執行猶予3年と判決が降りた。
裁判の時に、解離性障害を持っていると弁護はして下さった。
でも、自分じゃないのにすんごく悔しかった。
私は、覚せい剤の効き目を全然知らないのだ。
どこで手に入れたのかさえ、未だにわからない。
この初犯の時に、私の病気のことで目を付けていた児童相談所の担当が面会に来て、「児童福祉法28条が決まりました!」とドヤ顔で来たのだ。
その児童福祉法28条とは、娘がどこでどんな生活をしているのかも教えてくれないし、会うことなんて到底ムリな話だった。
初めは、その担当に食ってかかったが⋯
ママと相談して、これからは、その通りです、その通りですと言っていこう!と決め、すると、娘に会わせてくれるようになったのだった。
お泊りも決まって、遂に、自宅へ帰って来ることができたのだ。
荷物を持って、嬉しそうに帰って来た時の景色は今も鮮明に残ってる。
カナは本当に悪い子だった。
娘が帰って来てすぐに、またまだ覚せい剤を私の体に摂取し、今度は警察に通報したのだ。
2回目は、ママまで道連れにしたのだ。
夜中に、強い眠剤を飲んで朦朧としてるママの体になんらかの方法で、ママの体内にも覚せい剤を摂取したのだった。
通報され、親子で逮捕されたのだ。、私の1番大切なものを私のてから奪い取ったのだ。
私は、検察官にママは一切関係ないことだと必死に訴え、自分の中にいるカナという女の仕業だと強く訴えたが
聞く耳さえ持ってはもらえなかった。
だから、その時の国選弁護士に精神鑑定を求めたが、刑務所に勤めて来たほうが早い。と、国の制度で無料で私選の弁護士になって下さった。
その私選弁護士のおかげで、私の供述がやっと調書になったのだった。
私は、執行猶予中に逮捕されたから、2年8カ月の判決だった。
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