第3話人生初の刑務所

人生初の刑務所暮らしとなった。


判決の後に、拘置所に送られまずお風呂に入れられる。医務にも診てもらい、眠剤や安定剤を処方してもらった。

初めての経験で本当に人が住むところではない。

布団も臭い。毛布も臭い。

でも、麦飯は思ったよりも臭くはなかった。

だけど、食欲を失った。

ちょうどクリスマスだった。

24才のクリスマスで、本当なら娘とママと3人で過ごしてるはずなのに⋯とも思ったけれど、そんな気持ちには負けたくなかった。

強くなろうと思ったし、しっかり自分自身を見つめた。

自分の中で他の人を作ってしまったのは、自分だと思った。現実から目をそらすのやめよと思った。逃げる心があるから、そういうものが生まれてしまうのではないかと、たくさん考えた。


でも、症状は収まり、拘置所に送られて2週間後に「あかおち」と呼ぶが、身柄が受刑者となるのだった。

その時に、死んだ時に奪衣婆という人がいて、権力や名誉、財産など全て剥ぎ取られ、心だけが残るということを思い出したのだ。


そうだ、心だ!と思った。

勇気と知恵と誠実に進もうと決めた。


拘置所で作業が始まり、やはり、ご飯が食べれなかった。娘のことが心配で心配でたまらなかったけど⋯なにもできないのだった。


そして、笠松刑務所に移送され、監察工場というところに下ろされる。

2週間、受刑者を監察し、大工場への練習や工場を決めるためのものだ。

少しでもよそ見をすると

「作業に集中!!」と刑務官が。

そして、監察工場の入り口から、他の刑務官が来てドアを開けると反射的に見てしまうのだが、

「なに見とるんやぁ!!💢💢💢」と叫ばれる。

あのお仕事は、女捨てなきゃできないお仕事だと思うし、これだけ普段はこんな感じでお仕事してるけど、男性にはべたべたに甘えていると思った。



刑務所のイベントで運動会もあった。

運動という時間が、30分ある。

その時に、受刑者を走らせて足の早い受刑者を選抜するのだ。


刑務官には厳しい派閥がある。

大卒の刑務官はどんどん刑務官としての位が上がっていくのだ。新卒のなんの苦労もせずに刑務官の帽子に金の線が入ることがほとんどだ。

すると、受刑者の前で派閥を見せるのだ。

「先生〜、それは違うんじゃないのぉ〜?つもりじゃ困るんですよぉ〜」って。なんの苦労もなく帽子に金の線の入った刑務官に言うのだ。



そして、受刑者達は刑務官にあだ名を付けて楽しむこともしていた。

小雪さんに似てるから、小雪と呼んだり、平原 綾香さんに似てるからジュピターとかってあだ名を付けて呼んでいた。


受刑者の知恵はすごくて、便秘の人に石鹸で座薬を作ってしまうのだ。

そして、歯磨き粉で眉毛を抜いて、眉を整えるのだ。

もちろん、見つかれば懲罰になる。

不正配色をする人も少なくなかった。


その運動会は受刑者のものではなく、各工場の担当の部長さんのプライドをかけてのものだった。

そして、私は、リレーに出ることになったのだ。

私は、生まれ付き足が速く、小学生の時に小さい頃からサッカーを習って来た子と並ぶほどだった。

そして、私は自分の人生の師匠のために走る!!とこう強く決めたのだった。

4番手で走ることになり、4位だったところを私が追い上げて、2位と言う結果だっ。

走ってる時、歓声すら消えたのだ。

運動会が終わっても、最後の3工場の4番手の追い込みに感動した。と刑務官が全受刑者の前でマイクで言ってた。

それから、周りの態度が急変した。

すれ違うと、私にお辞儀をしてくるようになったが、私はそれが苦手で⋯。

普通に接してほしかった。

でも、周りがそうなら、今まで以上に誠実に振る舞うようにして行こうと思った。


すると、毎朝、毎晩と割烹着に着替え、真っ直ぐな廊下で台車を押しながら、ご飯やパンを各部屋にわける配食という役割を与えられたのだ。

仮釈をもらえるのに十分なものだった⋯。


受刑者の生活する部屋があり、10畳に8人が生活するのだった。

私はイジメがキライで⋯元々空気を読めないタイプだったから、部屋で無視をされ、いじめられてる人と簡単にお話ししちゃしで、いじめてる人も、私が、全然悪気もなく接していくことを責めるわけでもないし、逆にいじめてる自分が恥ずかしいと思ったのか、いじめはなくなった。


受刑者の部屋は、8人部屋で部屋長が1番手。

7番8番手は、ドベと呼ぶ。

ドベ。ドベツーと呼ぶ。

ドベ仕事という、部屋の雑用を担当するのだった。私も24才だったから発言権があまりなかったのを覚えてる。

あと、番手が変わったり、位置が変わったりすると、部屋の中での人間関係も変わるのだった。


男子刑務所では、ガッチャン部屋と言って、トイレも部屋の中に付いているそうだが、女子刑務所はトイレ棒と言うのがあり、部屋を出る時に「トイレ出まーす!」とトイレ棒を持ってトイレまで行くことが出来るのだ。

だから、トイレに行くときは残された部屋の人間が、悪口を言うという感じだった。

しかし、女子刑務所は男子と違い、刑の長さがはるかに違っても同じ部屋なのだ。

男子刑務所は、長期と短期にわけられるけど、女子刑務所は、強盗殺人、放火殺人の受刑者と同じ部屋なのだ。

殺人の人は、もう目が違う。

空気を読まない私は、強盗殺人の人に「あと、どれくらいで出れるんですか?」と聞いてしまい、部屋の中が氷付いたのは感じた。


当たり障りない部屋も経験させてもらったが、その日によっていじめるターゲットを決めるのだ。だから、私は自分がターゲットの時は、なにも喋らずにガマンした。

ベトナムの外人さんは、自分がターゲットになると「わたし、言葉をわからない!だけど空気ででわかるね!!」と興奮した。


平凡に生活する中で、性同一性障害の子が雑居に入ってきたのた。

心は本当に男で、声も男。

体と名前だけが女だった。

その子と仲良くなって、本名はあるけれど、「おれのことはヒロって呼んでくれ!」と。

否定する気持ちなどなかったし、自分もそうだし、1つの個性だと思ったから私は、ヒロの言うように、ヒロって呼んだ。

ヒロは可愛い顔してた。

私の目がキレイだと言ってくれた。

ヒロは本当に、私のことが好きになってしまったようだった。

ものすごく困った。

そして、いじめのターゲットにされた原因だった⋯。


ある人が「あんた、なに考えてんの?相手は女だぞ。ヒロの気を引くようなマネして。」って言ってきた。

は?一体どっちが頭おかしいのよ。と思った。


私もそんなに弱い人間ではなかった。

いじめてくる相手に真っ向からは向かった。

私はなにも悪くないからだ。

「おい!お前、早く飛べよ!」と言われた。

飛べよとは、仮釈が減ってしまう受刑者にとっては大きなことだった。懲罰を受けろということだ。

だから私は、「飛ぶんだったら、この部屋全員引っ張ってやるよ!!!」と強気だった。

まだ若かったし。


私の持っているものがどんどんなくなっていった。

ないと言うと、部屋の人は「ない、ないって言わないでよー!」と言うのであった。刑務所の中で借りているものは、館物と呼び、その館物がなくなり、それを刑務官にいうと、「藤堂!!!あんたの自己管理が悪いんや!!!」とめちゃくちゃ怒られた。本当に自分がおかしいのかな?とまで思った。


最後に館物のコップがなくなった。

その時、配食のパートナーは他の工場の人だけどJちゃんと呼んでいた。Jちゃんに、ことを話すと「可哀想に⋯すぐに先生にいいな!!!」って言ってくれ、配食を済ませ、部屋に戻り、刑務官に用のある時は、申し出札というのを出すのだ。


申し出札を出して待ってると、刑務官が来て「藤堂、大丈夫だよ。コップ見つかったよ!」と。

その時、部屋の中でトカゲのしっぽ切りが始まったのだ。

「私は、潔白だから!」とか、「コップの指紋を取ってもらえばいい!」とか「コップの指紋なんて雨で濡れちゃってるが!」と⋯。


雨で濡れちゃってる???と思った。

そして、本当に部屋の中の人間、全員を引っ張っる結果となったのだった。

もちろん配食は降ろされた。

担当の言葉を今では許せるけど、絶対に忘れない。「いじめられてる藤堂にも原因があるんや!!!」この担当は私のことがキライだったのだ。

この人、本当に刑務官である前に、1人の人として分かり合えない人だと思った。

そのいじめて来た人は、ヒロが刑務所の中でうまく生きて行くために、付き合うと言ったようだったが⋯人の心って怖いし、私がお慕いしていたセレブの共同経営に失敗された方で、旦那さんと相談をし、一緒に刑務所に行こう!と手を上げて刑務所に来た人だった。だからお慕いしていた。こんな人もいらっしゃるのかと、勇気をもらったからだ。でも、私は、自分の事情を話すことはなかった。病気のことは少し伝えたら人もいたけど、世間の目は冷たく、無理解だったと思うし、トイレに行ってる間に私のことを言ってたに違いない。

そして、ヒロがその人を使い、私に手紙を書いて渡して来たのだ。初めて明かすけど、その手紙には部屋で私がいじめられてるのは、全部、自分のせいだから、力の限り尽くすと書いてあり、読んだら破ってチリ紙に包んでトイレに流してほしい。と書いてあった。(チリ紙トイレの時に使うペーパーとなるものと言えば分かりやすいかも⋯)その時、処遇と言う、受刑者を裁く部署が決める日曜日に見れるドラマがブザービートだった⋯。処遇は煽っているとしか思えなかった。


受刑者の中には歪んた恋愛関係を好む人が多かったかもしれない。ブザービートを見ながら自分の恋愛論を話し合ったりしたのだ。

もう一体なにをどうガマンすればいいのかわからなかった。

部屋ごと調査を終えて、工場に戻ったけれど、またヒロのことでいじめられた。周りは冷たかった。仕掛けた人間がいたとは思うが、部屋でのなくなりものが増えて、それを私が転房してからだと言うのだ。それを言った人もヒロと付き合っていた。頭おかしいだろ、ガチで。

でも、本当に苦しかったのを覚えてる。


次の新しい部屋では、どんなこともひたすらガマンした。胸が苦しくなりすぎて、最後は流したことのない涙を流したもん。


しかし、時間が経つと受刑者達から信頼を受けた。7年もいるKママと同じ部屋になったら「あゆがいてよかった!あゆ、今までよくガマンしたね!」って言ってくれた。


そんな時に、職業訓練の申し込みがあり、応募したら見事に選ばれ、ビルクリーニングの職業訓練を受けさせていただけることになった。


そして、ビルクリーニングの職業訓練中に解離性障害の症状が出てしまったのだ。

記憶のない中、人格がいたずらをし⋯

教室で、私は1番後ろの席で突然、みんなで私を振り返って見るのだった。私は「え⋯なに?」って感じだった。

もうそこから記憶がないのだ。

気が付いたら静音室というところにいたり、保護室に入れられ、母が、心配で面会に来てくれ。手紙が届かないからと⋯。

母は面会の時に私の症状を診て、多重人格障害と診断して下さったE先生と連絡を取ることをし、本当はだめですが、とても困ってる様子なのでとのことで、笠松刑務所に診断書を送って下さったのだった。


刑務所の刑務官は一切、信じてはくれなかったが、記憶のない中、暴れても懲罰を軽くはしてくれた。

ビルクリーニングを終えれば、出所だったのに。

しばらくは、健康でいれたから帰ったらバリバリ働いて今度こそ幸せになるんだ!!って前向きだったが、その希望も潰された。ものすごく悔しかった。


そして、裁判の判決で刑務所に送られた場合は、三権分立という法律で、どんな理由があっても刑務所からは出れないのだった。

専門の医師に診てもらうことなんて不可能だったが、カウンセリングが付いた。

そして、昼夜独居というところで1日中1人で布織りをしていた。キレイに仕上げると青帽という、リーダーがすごく喜んでくれて担当の先生も酒井は布織り上手だと言ってくれたし、どんどん作業もステージが上がって行った。


そして、満期出所だった。


その間、娘はまた違う浜松の施設にいたのだ。

私以外の家族とは会える決まりとなってたし、今、思えば私が育てなくてよかったと思える。国のしっかりとした教育の中で育てていただいたのだ。離れていても、母親の生き方というのは、子供に通じると確信できたのは娘も、施設のボスにいじめられてるところを助けてあげることができたのだ。

私は出所後、児童相談所の娘に対する情報を書面で全て手に入れたのだった。

マーカーでほとんど真っ黒だったが、その中に心理学をしたことが書いてあった。

娘は心理学で「慕いながら、その世界を支配する強い傾向がある」とのことだった。

5年間も施設にいたのだ。

心も疲れるだろう。


もうやめてと思うかもしれないが、3回目もあるのだった。

3回目は、国選弁護人がG先生だった。

その人は、「歩ちゃんの顔を思い浮かべると涙が出てきちゃう。」と全身拘束の私のところまで面会に来て下さった市会議員のKさんの顧問弁護士だったのだ。

G先生が、「精神鑑定をやりましょ!!!」と言って下さった。そして、裁判でも、初めは無罪を主張して下さったのだ。裁判中にも人格の交代があった。精神鑑定は1年2か月かかった。

G先生は、週末になると夕方ギリギリまで弁護士面会と言っては、世間話をして下さったり、Kさんが自分がガンで苦しくて、余命を宣告されてるなど自分の苦しみは伏せて、とにかく私を励ますお手紙を書いてくれ、家族も励ましてくれたのだった。

でも、精神鑑定は並のものじゃなかった。

このまま勤めて来たほうが賢明かとも思った。

でも、みんなの支えで精神鑑定を乗り越えることができて⋯

Kさんは、なんて大きな人だろうと思った。

自分がガンで苦しいのに、なんて人なんだと今でも思う。なんで、素晴らしい人は早く亡くなってしまうんだろ⋯。


人格達は、裁判の最中にも出て来た。

リュウは「おれはクスリなんか大キライだ!」と叫んだり、モモという子は自分のことを、ももちゃんと呼び「小鳥はとっても歌が好きー」とよく歌っていたのさたのこと。

ジュリアはG先生に甘いものを食べに行きたいと言ってたんだって。

G先生は、毎回お菓子の差し入れもして下さったりしたのだった。拘置所の先生が、私選の弁護士???と聞くくらいだった。


精神鑑定は1年2ヶ月もかかった。

その間はずっと独居にいた。

精神鑑定をすることにより、病気も目には見えないけどなにかしらの、変化が起きたと思う。

浜松医大の先生だった。

鑑定結果は、

「解離性同一性障害」

しかし、被告人である私とかなは、決してかけ離れた存在ではない。との鑑定結果で、1年10月の判決を受けた。

鑑定結果があからさまになってから、病気が回復へと向かったのではないかと思う。

今度は栃木刑務所だった。

夜間独居と言って、昼間は大工場で作業して夜は、1人で生活するのだった。

笠松の時と比べたら、勤めたうちに入らない。


執行猶予の時に一緒だった、I姉と一緒だった。

I姉は、姉さん肌で病気にすんごく理解のある人だった。I姉は雑役という特別な役割をしていた。私が、少しでもおかしいと感じると「大丈夫?」とつまようじを持って私の席まで様子を見に来たりしてたのだった。


そして、作業中に頭の中で色んな声が聞こえて来て、よく覚えてないがものすごく感動する言葉がたくさん頭の中を駆け巡って、涙が止まらず、担当の先生に顔を洗うように指示され、顔を洗いに行くところで、自分の記憶がなくて気付いたら保護室だった。

虎狼の血の上林がいたところよりも閉鎖的なところだった。時計さえなく、時間もわからない。

何日も眠らなかった。

ずっと保護室の中を誰かとずっと話しながら、ぐるぐる歩き回ってた。

ピンクのワンピースにブラもパンツも履かずに、歯磨き、洗顔さえ、お風呂も入れなかった。

ご飯も、紙スプーン。

ご飯がすくえないから、手で食べた。

食べることもできなくて、メイバランスを飲んだこともあった。


夜が来て、夜明けが来て、また夜が来て、また夜明けが来てって一体どれくらい日数、眠れなかったかわからないんだ。で、すんごく疲れたから、保護室で寝転んだ。

それも、一体どれくらいの時間寝転んでいたのかわからないし、眠ったのか眠らなかったのかもそれすら、定かじゃなかった。


すると、ガチャっと保護室の扉が開く音がしたから、「先生ー!」って起き上がると、刑務官が「キャー!まだ生きてる!」って叫んでた。

本当に保護室では死んでもおかしくないところ。


約1ヶ月、保護室にいてやっと出してもらった。


すぐに、歯磨き洗顔の許可を刑務官からもらい、歯磨き洗顔した。

知覚過敏になってた。

虫歯もできてた。


その後、大工場へも復帰して⋯

作業をガチでがんばった。

250本の糸のような棒にボンドを付けて丸くするのに何分で出来るだろう?とか、作業をめっちゃ楽しく、前向きにやってた。

笠松の時もそうだった。

ミシンもやった。

かなりの数を上げた。


槇原さんも刑務所へ行って、前向きになって願箋

だして運動の時に歌をみんなに歌ってあげれいいと思う。それだけで、周りの希望になると思うし。中でもいくらでも曲は書けるのになぁと思うけどな⋯。

まぁ、私の勝手な意見ですが。


でも、たとえ地獄でもその地獄を楽しめたらそれはそれで、いいと思う。

誰もが公平な尊厳さがあるからだ。

悪いことをしてても逮捕されない人は山程いる。

あと、無実の罪で刑務所にいる人もいるのではないかと思う。

そんな人に届け!!と思う。

栃木刑務所でT姉という人がいた。

その人はチャカを一晩預かってほしいと言われ、預かったら次の日に警察がガサに入って、5年刑務所へ務めることになったのだった。

2年間くらい精神が、おかしかったとのこと。

本当に悪い人は捕まらないかもしれない。

でも、悪い人とは付き合うべきじゃない。

自分にとってプラスの人とお付き合いした方がいい。それは、個人の自由だし。


私もそうだけど、いつも希望を持つようにしてる。今は、みんなにもそうだけど、私は、1人の人と対話するようにこれを書いてる。


皆さんは、アフリカのネルソン マンデラ氏をご存知だろうか?

平和のために27年半、獄中にいたのだ。

その間に、息子さんまで亡くされた。

どれだけ素晴らしい人なのか。

1人の人を大切にできれば、なにも変わっていないように見えるけど、本当に地道だけど、平和な幸せな世界は実現しないと思う。

私も今、たくさんの人に応援していただいて、支えていただいてる。

日々、感謝感謝感謝だ。


保護室から出て⋯

すぐに母に手紙を書いて送った。

それからは、落ち着いて作業ができて普通に生活することができた。

作業も楽しかったし、1日があっという間だった。少しでも下を向いたりすると、工場の担当の刑務官に、「120番藤堂さん!担当台!」と呼ばれ、「ムリしないの、あと少ししたらお風呂だからお風呂入ったら、休養へ入りなさい。」と。


あと、保護室にいる時に私は、刑務官の首を絞めてしまったのだ。

それも、精神鑑定していたから許されたと思う。あの時の先生が今これを読んで下さってるなら、本当に申し訳ありませんでした!!!


前向きに考えれば、たくさんの人に迷惑かけたけど、本当に貴重な体験をさせてもらってると思えた。


Kさんが亡くなったのは、母の手紙で知った。

その時に、初めてガンだと知り、大泣きした。

Kさんにお会いしたい⋯。


仮釈も3ヶ月もらった。

法務省も、面倒見切れないと思ったのだろうと思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る