苦しみの中に輝いた真実がある。

藤堂 歩

第1話 まずは、感謝から。

言葉にするって本当に簡単なことではないし、今これを読んで下さる方にまずは、感謝を申し上げたいと思います。

本当に、なにをどう伝えたらいいのかもわからないまま、ただ言葉を並べているだけで、つまらなかったり、共感を持てそうにないのなら、途中で読むのをやめてしまっても構いません。


でも、これを書くには、最大の勇気、決意、覚悟があります。恥をさらすことにもなるからです。


私、藤堂 歩は、1984年6月26日に静岡県静岡市清水区に生を受けさせていただいた。


まず、人間として産まれて来れるのは、本当に、稀なことであり、まずは生存競争に打ち勝ったということをここではそれを強調したいと思う。


でも、生存競争に打ち勝っても、人生はまたまた勝負だ。

産まれた環境も違えば、産まれも育ちも違う。

つまり、宿命が違う。

そして、意味さえ違う。誰もが。


私は、あまり人のことを言うのはキライな方だ。

人を羨むことほど愚かなことはない。

どんなに、恵まれていると思う環境にいる人も、その人にしか分からない苦しみがあるからだ。

自分の人生を、切り開くのも自分。

もしも、例えば、相手が100%悪くても、最後にどう生きるか決めるのは自分自身だと思うからだ。

まぁこれくらいのことは、一般論だけど中々分かってる人も多くはない。

真っ当な苦労をする人もいれば、心に大きな傷を負うような苦労をしてる人もいる。

色んな苦労がある。

まだまだ、こんな私が、知らない苦労をされてる方もおられると思う。


私は、浜崎 あゆみさんのことが14才の時から大好きだった。



私が、小学校1年生の時に両親が離婚した。

私は、3人兄弟の真ん中で、小さい頃から考えすぎてしまうというか、色んなものの意味を知りたがり、母に聞くとよく「この子は本当に聞くと難しい質問をしてくる、困ってしまう⋯」と言われた。

姉と弟は小さい頃から、奔放だった。

私は、病的な神経質だった。

幼稚園の時に、イベントで芋掘りがあり、みんなはすんごく喜んだけど、私だけ、その芋掘りがどんなものかわからず、不安で泣いたのだった。

今では笑い話だけど⋯ある意味大人を困らせた。


週末、学校が終われば、金曜日の夜には月曜日の支度をしないと気が済まないという性格だった。


小学校の時に、母が私達3人兄弟を育てるために、昼も夜も働いてる姿を見て、私が芸能界に入って家族を守ろうと思い、サンミュージックのオーディションを受けた。

一次審査、二次審査を通過し、最後に4人くらい並んだ時に、相沢社長から色々な質問や感想をきかれたのを覚えてる。

その時の審査を通過するも、自分に自信がなく、怖くなり、やめてしまった。その次の年にも、オファーが来たけど、それでも行くことが出来なかった。


でも、オシャレが好きで1人で遊ぶことをすんごく好んだ。

小学校6年生には、少し不登校気味だった。

中学へ上がった時は、本当は派手にしたかった。

でも、そんな気持ちを隠しながら、控えめだった。

転校する時に、腰まである長い長い髪を金髪にしてポニーテールをして学校へ行った。

金髪で転校したら、みんなが集まってきた。

金髪の転校生の私をみんなが教室まで見に来たのだった。

派手にしたいけど、注目の的になるのはイヤだった。そして、普通に接してほしかった。

その頃から、人生に疑問を抱いていた。


勉強をがんばって、いい高校に進学をし、いい大学を目指し、いい会社へ就職して、いい人と巡り合って、結婚をし、子供を産み、暖かい家庭を作って行くことに、一体なんの意味があるんだろう⋯と。

自分にもとことん自信がなかったし、臆病で恥ずかしがり屋で変わっていた。

自分を出すことができなかった。

中学の時に、男の子に告白されて、お付き合いしたけど、自分の抱えてる問題の解決には至らなく、裏切るような態度しか取れず、当時のあの状態の私には恋愛で楽しむような余裕など全くなかったのだった。


生まれ付きな性分と、家庭環境がかなり影響していた。

友達も減り、友達と上部だけでしか付き合えなかった。

本当に未来に希望なんか持つことが出来なかった。

そんな時、大好きな浜崎 あゆみさんのA song for✖✖を聴いた。


どうして 泣いてるの?

どうして 迷ってるの?

どうして 立ち止まるの?

ねぇ教えて

いつから 大人になる?

いつまで 子供でいいの?

どこから走って来て

ねぇどこまで走るの?

居場所がなかった

見つからなかった

未来には期待できるのかわからずに⋯


笑うことさえ苦痛になってた⋯と。

まさに自分自身を歌った曲だった。


爆音で何度も何度も聴いて、母に「もうやめな!!」と言われたのを覚えてる。


その数日後、水泳が苦手な私に、水泳のテストがある前日、母が水泳が得意で、母に教えてもらってる時に、左の頭がッキーーーーんと痛くなり、左側だけ顔が半分変わってしまい、訳のわからぬことを口にしたようだった。


おそらく、それが解離性障害の始まりだった。

その時、母が付きっきりで私の面倒を見てくれ、お腹が空いては起き、なにかを食べて、また眠るという状態の日々が続いたのだった。


今だから気が付かせてもらったけど、あの時に精神科に、かかってたら娘を誕生させることが出来なかった。

だから、本当に母に感謝しかない。もしも、当時、精神科にかかっていたら、きっと大量のお薬を飲むことになったからである。

出産には、精神薬は本当に危険なのだ。

精神科では、飲み合わせを調整すれば大丈夫と言うが、産婦人科の先生はものすごく反対される。

私は、令和7年6月26日で41才となる。

娘は、令和7年10月2日で24才になる。

つまり、娘を産んだのは、17才の時だった。

未婚で出産した。

出産をする時に、姉と一応、相手方が付き添った。3265㌘の元気な女の子だった。

出産した後は、だいたいみんな泣くけど、私は「やったーーーー❤❤❤」と叫んで喜んだ。

本当に嬉しかった。

1つの生命を無事に誕生させてもらったことが、誇りに思えた。

認知はしっかりとしてもらったし、調停で争い、婚約不履行に対する慰謝料及び、養育費をいただくことになった。

毎月、振り込まれると、相手から返信が来なくても「今月もありがとうございます。大切に使わせていただきます。」とメッセージを送らせていただいていた。


そこまでの経緯は、妊娠したことで入籍をすると決めて、相手の実家で生活することになったのだった。

相手方は、当時20才。

私は16才。

相手方の母親は、39才だった。

父親は、60才前半だった。

1番上に、異母兄弟の長男、相手方は次男、そして三男の弟と、1番下にまだ保育園に通う妹がいた。

その時、相手方の母親は脳梗塞で倒れた。

16才の妊娠中に、その相手方の家事や一切のことをしなければならなくなった。

もう、本当に必死だった。


相手方は、そんな状態でも他の女性と浮気をしていた。でも、その当時の私には、その方が楽だった。ご飯もお風呂も済ませて来てくれるからだった。

そんなある日の夜、ものすごく疲れてくたくたの時に相手方が家に帰って来た時、「おい!風呂と飯!」って。

私はプツリとキレてしまい、「女と遊んで来るなら、ご飯とお風呂くらい済ませて来てよ!」と言ってしまい、大ゲンカになった。でも、それが私の本音だった。

そして、相手方が「だったら、その婚姻届を破ってみろ!」と。

私は、なんのためらいもなく破った。

荷物をまとめ、「1人で産むからいい!」と自分の家に帰った。


相手方の母親とも根本的に会わなかった。

最後の最後まで、娘が、成人して相手方と縁が切れる時まで、本当にこの人は変わらないな。と思った。

でも、分かり合えたこともあった。

純粋な一面も見ることができた。


どんなに歪んだ性格の持ち主でも、相手は人間。

必ず、通じてると信じている。

今、自分の目の前にある問題や課題を、自身の成長のためのものだと、捉え返して行くことができたら、人生180度変わると確信してる。


今まで、一応一通りのことを、経験させていただき、41才という新しい世紀を迎えたというか⋯。41才になっても、まだまだ勉強だなって思うし、もっともっとステージを上げて行くときだと感じている。

このエッセイを書くのもいいタイミングだと感じてる。


娘を一生懸命に育てながら、目標もあった。

水商売をとことんやって、キャバクラでトップを取ると。

ちょうど20才だった。

彼氏など作ってるヒマなどなかった。

毎月、指名が130本取ってた。

当時の雑誌の表紙も飾らせていただいた。


その時、愛憐のみちるママのところで働くようになった。みちるママは、36才の年で、清水区、草薙、静岡に3件もお店を経営するやり手なママだった。

水商売をやりながら、遂に行き詰まった。

この商売って一体なんだろって。

130本毎月、指名を取っても淋しさが消えることなどなかった。

考えて、考えて、悩んで、悩んで⋯。

みちるママに問いた。

「みちるさん、この商売って一体なんですか?」と。するとみちるママは、「騙しだよ。」と。

真実が明らかになった瞬間だった。

私は、その時からはもう、指名を取ることよりも、ただお金を稼ぐだけにこの道を進もうと思った。

今、現在、水商売をやられてることではなく、あくまでも、私の中のことなので、どうか気になさらないでいただきたいのが願いとしてあります。


その後、キャバクラをしている時に、解離性障害の症状が再発したのだった。

その時は、母と娘と私の3人で生活してた。

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