醒
壱
ピチチチッ、という
ぼんやりとした視界は、穏やかな光に満たされている。真昼と夕刻の狭間、ちょうど八つ時頃の日の差し方だ。
──こんな風に穏やかな日差しで満たされた中にいるのは、一体いつぶりなんだろう……
いつになく動きが鈍い頭で、麗麗はそんなことを思う。
どうやら自分は、温かな日が差し込む小部屋の寝台の上に寝かされているらしい。ソヨソヨと心地良く吹き込む風に、解いて流された自身の髪や、身に
寝台は固いが、頭の下にはきちんと枕が敷かれ、体の上には掛布も掛けられているらしい。ぼんやりと視線を宙に遊ばせた後にコテリと首を横へ倒せば、自身が寝かされている部屋の全容が見えた。
飾り気のない簡素な部屋だ。大して広くもない。目に付く物と言えば、書や柳行李が並べられた棚と、小さな文机。それと寝台の傍らの棚の上に置かれた刀架に安置された剣くらいだろうか。
──剣……
金の装飾に深紅の挿し色も華やかな、細身の剣だ。
その剣に、見覚えがあるような気がした。
ぼんやりと部屋全体に向けられていた目が、枕元に置かれた剣に焦点を絞る。
「っ!?」
そのまま数秒考え込んだ麗麗は、その剣が誰の物であったかに思い至った瞬間、掛布を跳ね飛ばす勢いで寝台から飛び起きていた。
──この剣、
見覚えがあるはずだ。
仙剣、火欧。その持ち主は、かつての麗麗自身であったのだから。
──何で火欧がここに? だって私は、火欧を……っ!
『
「ここって……」
清々しく整えられてはいるが、古さを隠しきれていない建物。壁も床も天井も、落ち着いた色の木目がむき出しになっている。ただし日当たりと風通しは心地良く、この部屋にはいつだって良い気が流れていたことを麗麗は知っている。
「珀鳳山の、私の部屋……?」
麗麗の目の前に広がっていたのは、五年前まで……麗麗が『紅の邪仙女』として琳王宮に君臨する前までの時間を過ごした、珀鳳山
──嘘……。どういうこと?
麗麗は無意識のうちに、震える指先を己の喉にかけていた。
──私は、翠熙に首を
琳国屈指の霊山である珀鳳山には、術師……仙師を育てる仙家が数家居を構えている。祝家はその中でも筆頭格の名門だ。
珀鳳山を飛び出すまで、麗麗は祝家を治める掌門・祝
そんな在りし日の光景の中に、麗麗はいた。
──死んだら幸せな夢に浸れるとでも言うの?
一瞬、そんなことを考えた麗麗は、次の瞬間にはギリッと奥歯を噛み締めていた。己の喉にかかった指が、切り裂かれたはずの場所にグッと爪を立てる。
──そんな都合のいいこと、あるはずがない。
珀鳳山を飛び出した後の自分が何をしたのか、麗麗は全てを覚えている。たったひとつの目的のために他の全てを切り捨て、邪道を突き進んだ自分は、必ず地獄に落ちなければならない。こんな幸せな夢を見ることなど、許されるはずがない。
たとえその『たったひとつの目的』というのが『翠熙が何者にも
──落ち着いて。まずは状況の整理を……
ひとまず喉から指を退けながら、麗麗は己の体に視線を落とす。纏っている衣服も珀鳳山の修行服だと気付いた時には、聴覚の端にパタパタという足音が引っかかっていた。反射的に部屋の入口へ視線を投げれば、懐かしい顔がヒョコリと現れる。
その人物は寝台の上に身を起こした麗麗の姿に気付くと、丸く目を
「
麗麗と同じ修行服に身を包み、茶がかった明るい色の髪を頭の両側で団子に結い上げた少女は、転がるように麗麗の傍らまで駆け寄ると膝をつきながら麗麗の手を取った。両手で麗麗の右手を握りしめながら麗麗を見上げる少女の瞳には、
「目が覚めたのですね! 良かった! 三日も眠ったままだったのですよ!」
「
少女……秀鈴の言葉を理解するよりも早く、麗麗は呆然と少女の名前を呼んでいた。かつて誰よりも麗麗に懐いてくれていた妹弟子は、……麗麗が邪道を突き進む中で真っ先に斬り捨てることになった相手は、そんな不穏な影など微塵も感じさせない無邪気さで麗麗の呼びかけに小首を傾げる。
「はい、師姉。どうされました?」
「秀鈴、なの?」
「? はい。私は秀鈴ですが……?」
状況が飲み込めない麗麗は、思わず秀鈴の名前を確かめるように呼びかけた。
そんな麗麗の様子に、秀鈴はさらに首を傾げる。そのまましばらく
「え? どうなさいましたか、師姉。まさか、私が分からないとか……っ!?」
「えっ? いや、そんなことは……」
「任務先で
「お、落ち着きなさい、秀鈴。あなたの名前を呼んでいる時点で、あなたのことは分かっているということになるでしょう?」
一人で混乱していく秀鈴を落ち着かせようと、麗麗は空いている左手を秀鈴へ伸ばす。だがすでに『アワワワワッ』と目を回している秀鈴には、麗麗の言葉も肩に置かれた手の感触も伝わってはいないらしい。
──そうだった。秀鈴ってこういう子だった。
というか、この場面に妙に既視感がある。
そうだ。思い返せば五、六年ほど前に、こんな場面に行きあったのではないだろうか。
──『任務先で李師兄を庇って頭を打った』って言ってたわよね?
確かあれは、麗麗が珀鳳山を飛び出す一年ほど前のことだ。
妖魔退治の依頼が祝家に持ち込まれ、麗麗と翠熙で対処に当たることになった。それなりに手強い妖魔が相手ではあったが、次期掌門の座を争う筆頭弟子二人が組めば敵ではなかった。
難なく二人は妖魔を蹴散らしたが、最後の最後で不運に見舞われた。岩場で水鬼を相手に立ち回ったせいで足元が滑りやすくなっていたところに、地盤が緩んで発生した落石の嵐に見舞われてしまったのだ。
普段ならば翠熙も麗麗もその程度のことで不覚を取りはしない。だがあの時、翠熙は腕の中に妖魔から助け出した幼子を二人も抱えていた。身を守るための術を行使することも、体捌きで落石を避けきることもできない状態だった。
そんな翠熙を助けるべく、麗麗はとっさに翠熙の前に割り込んで結界術を行使した。結果、結界術の発動は間に合ったが、足元が
常ならばそういう時は翠熙が支えてくれるものなのだが、翠熙の両腕は幼子を一人ずつ抱えていたせいで塞がっていた。麗麗は一番不覚を見せたくない相手の前で盛大にすっ転び、後頭部を足元の岩場にぶつけて気を失ってしまったのである。
──『崖から転がり落ちなかっただけ御の字だった』って、後から翠熙に言われちゃったのよね……
麗麗は一瞬、懐かしく思い出を噛み締める。
だがそんなことをしている間にも、秀鈴と麗麗の声を聞きつけたのか、部屋の扉口にはワラワラと人が集まってきていた。『蘇師姉が目を覚ましたって!』『李師兄にお伝えしなくては』という声に視線を投げれば、懐かしい顔が次々と増えていく。
──待って。懐かしがってる場合じゃない。
確かにこの光景を、かつての麗麗は見ている。
走馬灯などという生やさしいものではない。麗麗は今、まさしく生身で、かつての記憶を追体験している。
──これが走馬灯じゃないっていうならば、私は……
『一体何が起きているのか』と視線を走らせた麗麗は、ふと棚に鏡が並べられていることに気付いた。師である清漣が、大きな依頼を片付けた時に褒美として与えてくれた置き鏡だ。
その鏡の中に、麗麗の姿が映り込んでいる。
だがそこに映っていたのは、見慣れた麗麗の顔ではなかった。
「は? え?」
ポカンと鏡に顔を向けていたのは、明らかに麗麗の認識よりも幼さを残した麗麗だった。
二十三歳の、『紅の邪仙女』を演じていた自分ではなく。まさしくこの部屋で『祝家の筆頭弟子』をしていた頃の、まだどこかあどけなさを残した顔の自分が、呆然と麗麗に視線を向け返している。
その事実に、麗麗の中にとある可能性がジワジワと湧き出てきた。
──いや、でも、……そんな、まさか。
『そんなことって、ある?』と自問自答した、その瞬間だった。
「麗麗っ!!」
駆けてくる足音は聞こえなかった。だがその声は部屋の戸口からパンッと空気を割るかのように響き渡る。
ハッと、場に
同時に目に飛び込んできた姿に、麗麗は息の仕方を忘れた。
「目を覚ましたと……っ!!」
後頭部でひとつに束ねられた黒髪が、光に透けて深翠の独特の艶を見せていた。皆と同じ質素な修行服に身を包んでいるはずなのに、なぜか彼からは王侯貴族を思わせる気品が感じられる。
最高級の翡翠、
誰よりも見慣れた腐れ縁が、見たことがないほど取り乱した様子でそこに立っている。
いや、正確に言えば麗麗は、こんな好敵手の姿を、過去に一度見たことがあった。
まさしくこの場で。まさしく今と同じように。
肩で息をした翠熙が、いつになく分かりやすく顔中に心配を広げて部屋に飛び込んでくる様を、麗麗は五年前に確かに見た。
「翠熙……」
同時に、麗麗は確信した。
──巻き戻っている。
翠熙に首を
麗麗は凍りついた意識の中で、ようやくそのことを確信したのだった。
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