「分かった。まずは状況を整理しましょう」


 麗麗れいれいは蓮池の水面に映り込んだ自分の顔に語りかけた。


 浮葉が開いたばかりの蓮池の周辺にひとはない。麗麗の言葉を聞いているのは、水面に映り込んだ麗麗だけだ。十八歳の、まだどことなく幼さが抜けきっていない顔立ちの麗麗は、酷く真剣な表情で麗麗のことを見つめ返している。


 きっちりと後頭部でひとつに結わえ上げられた黒髪には、水晶の飾りがついた髪紐がキラキラと輝いていた。生成地に淡い青色が挿し色として使われているしゅう家の修行服は皆と揃いの物だが、麗麗の腰元には髪紐と揃いの水晶飾りが揺れている。どちらも翠熙すいきから十六歳の誕生日に祝いの品として贈られた物で、除災守護の術が刻まれた守り呪具である。


 ──うん。こっちの方が私らしいわよね、やっぱり。


『紅の邪仙女』としてきらびやかな装いに身を包んでいた己の姿を思い返しながら、麗麗は思わず『うんうん』と頷いた。


 はたから見ればイタいことこの上ない構図であることは分かっているのだが、こうでもしなければやっていられない。


「今は丙寅へいいんの年、四の月廿二にじゅうに日。これは周りへの聞き込みとか、日報書の日付からして確実」


 横道へれた思考を軌道修正しながら、麗麗は自分に言い聞かせるように、この数日間で分かったことを口にする。


 麗麗がりん王宮で翠熙すいきによって誅殺されたのは、しんの年、九の月のことだった。


 つまり今、麗麗はあの日から五年と半年近く前の世界にいるということになる。


「どうにもこれは夢じゃなくて、現実であるらしい」


 かつての自室で目を覚ましてから、今日で三日になる。その間、麗麗はひたすら『夢を見ているのではないだろうか』と目の前の光景を疑い続けていたのだが、一向に麗麗の目が覚める気配はない。


 覚めない夢などない。ならばこれが今の麗麗が置かれた現実であるのだと、受け入れるしかないのだろう。


「つまり今の私は『紅の邪仙女』ではなく、翠熙も『救国の仙君』ではない。次期掌門の座も、一番弟子の座も、私と翠熙で競り合っている最中。どちらとも定まっていない」


『大事を取って、数日休養します』というもっともらしい理由をつけて、麗麗はこの三日、修行からも任務からも離れていた。


 だが言葉通りに大人しく部屋に引きこもっていたわけではない。この数日、麗麗はひっそりと祝家の中を歩き回り、状況把握に努めていた。


「今の私達は、ただの祝家の弟子の状態」


『紅の邪仙女』と呼ばれることになる麗麗と、『救国の仙君』と呼ばれることになる翠熙は、元々二人ともはくほうざん祝家の弟子だった。それも同日入門者としてともに腕を競い、筆頭の座を争った仲だ。


 麗麗は、掌門の清漣せいれんによって素質を見出され、珀鳳山へ引き取られた元孤児。対して翠熙は琳王宮から命を狙われ、生き永らえるために珀鳳山へ落ち延びた第七皇子。


 生まれに天と地ほどの差があり、性別も違った。歳も翠熙の方が麗麗よりふたつ上だ。


 それでも優れた素質を持つ者同士、そして何より同じ日に祝家の門をくぐった者として、麗麗と翠熙は常にともにあった。座学も武芸もその他の芸妓もともに学んだし、祝家に持ち込まれる妖魔修祓依頼をともに片付けもした。


 好敵手であり、最高の相棒。麗麗としては片恋の相手でもあった。


 そんな麗麗と翠熙がたもとを分かち、最終的に麗麗が翠熙に誅伐されなければならない事態になったのは、琳王宮の動きに原因がある。


 ──このまま、私が知っている通りに事態が進むなら……


 そもそもなぜ皇帝の御子である翠熙が、珀鳳山に落ち延びることになったのか。


 端的に言えば、翠熙が邪魔だったからだ。


 ──生まれが遅い第七皇子。母親の身分は宮廷呪術師。……お母様の身分は貴族でさえなかったって、翠熙は言ってた。


 翠熙が生まれた時、すでに琳王宮は次代の皇帝の座を巡る争いが勃発していたという。


 末の生まれで母親の身分も低かった翠熙は、後ろ盾らしい後ろ盾もない。


 度重なる我が子の命の危機と、次第に激化していく帝位継承権争い。その渦の中からこれ以上我が子を守ってやることができないと覚った翠熙の母は、かつて同僚として懇意にしていた宮廷術師のを頼り、密かに翠熙を珀鳳山へ送り出した。


 元から帝位継承権が低かった、身分の低い妃が生んだ子供だ。姿を消した当初こそ騒ぎになったらしいが、すぐに翠熙の存在は王宮から忘れ去られた。それが翠熙が七歳の時のことであったという。


 母の才覚を引き継いでいた翠熙は、生まれながらに術師としての才に恵まれていた。翠熙自身の努力もあり、年が長じるにつれ、翠熙は祝家の仙師として頭角を露わにしていく。


 それでも、王宮が翠熙に再び目をつけることはなかった。『珀鳳山祝家に名の通った仙師がいるらしい』『もしかしたらそれが行方不明になっている第七皇子かもしれない』という憶測自体はあったようだが、『まぁ、珀鳳山に引っ込んでいてくれるならば、捨て置いておけばいい』というのが王宮のおおよその反応だった。王宮は王宮で、内で争う毒蛇達の抗争を捌くのに手一杯だったのだ。


 そんな状況が一変したのは、翠熙がとある事件を解決に導き、『救国の仙君』という名で民から信奉を集めるようになったからだった。


「確か、あれが起きたのは……」


 丙寅へいいんの年、五の月の頭。


 翠熙は祝家の弟子達を率いて、大きな修祓現場を片付けた。現場には麗麗も同行していたが、妖魔の根城に単身で乗り込み、事の元凶になっていた妖魔を討伐したのは翠熙だ。町へ侵攻してくる小物の妖魔を麗麗が引き付けている間に、翠熙が根本を撃破するという形になっていた。


 思えば、その割り振りがよくなかったのだ。


 ──翠熙を一人で行かせていなければ、翠熙だけが『救国の仙君』なんて呼ばれることもなかった。


 そのことに、麗麗は地面についた両手をグッと握りしめる。


 翠熙が乗り込んだ妖魔の根城には、町からさらわれてきた人間が多くいた。そんな彼らには、翠熙の姿が神のように映ったのだろう。


 助け出された人々は、誰もが翠熙を伏し拝んだ。思えば翠熙は他の現場と変わることなく、己がせることを為しただけであったはずなのに、『目撃者が多かった』というだけで、あの日は随分な持ち上げられ方をされていたような気がする。


 そんな扱いを受けていながら、翠熙自身は人々を助け出した後もいつもと変わらず、邪気の浄化やら、怪我人の救護やらと、珀鳳山の弟子として、人々の評価におごることなく謙虚に動き回った。


 その姿も、翠熙の名声を高める後押しになった。


 珀鳳山祝家の翠熙は、まさに仙君の名に相応しい存在だ。実際に町がひとつ救われた。


 助けを求めるならば、翠熙様に。何か困ったことがあれば、翠熙様に。


 現場になった町の人々から、評判は口々に方々へ広がっていった。この事件をきっかけに、長年麗麗と翠熙で争っていた次期掌門の座が翠熙に定まったことも、その評判の後押しになったのだろう。


 人々に祀り上げられても、己が次期掌門に正式に指名されても、翠熙の寡黙で律儀で謙虚な姿勢は変わらなかった。ひっきりなしに祝家へ持ち込まれるようになった依頼のひとつひとつに誠実に向き合い、祝家の力が及ぶ限りの対応をした。


 麗麗はそんな翠熙が誇らしくてたまらなかった。翠熙を褒め称える評を出先で耳にするたびに『そうでしょう? 翠熙はすごいやつなのよ!』とひっそり胸を張っていたくらいだ。


 次期掌門の座を翠熙に譲り渡すことになった。そのこと自体は悔しかったが、それ以上に翠熙が評価されることが嬉しかった。麗麗は喜んで翠熙の補佐を引き受けていたし、それは翠熙が正式に掌門の座についても変わらないと思っていた。


 ずっと二人で、祝家を支えていくのだと、思っていた。


 翠熙が次期掌門に指名された翌年。丁卯ていぼうの年、三の月の末。


 琳王宮が『李翠熙を宮廷術師として仕官させよ』と、珀鳳山に遣いを寄越してくるまでは。

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