第3話 名前のない地図

夏休みの終わり、彼女はひとつのチラシを見つけた。図書室の掲示板に、端がめくれかけたまま貼られていたカラーコピー。《地域企業インターン募集》と書かれたその紙には、小さく「自動車整備工場・運輸会社 見学可」とあった。

放課後、職員室の前でしばらく立ち尽くしたあと、意を決してノックした。「これ……参加したいです」と言ったとき、先生は少し驚いた顔をした。けれど、すぐに「いいと思うよ」と微笑んだ。

数日後、彼女は作業服姿のまま整備場の隅に立っていた。目の前には、現場の音が鳴っていた。打ち付けるハンマー、回る工具、油のしたたる匂い。そこにいた整備士たちは、誰も彼女のことを特別扱いしなかった。ただ、「これ、持っててくれる?」「あそこの箱からラチェット取って」とだけ、必要なことを淡々と伝えた。

──それが、嬉しかった。

誰かの夢でもなく、期待でもなく、「役に立つこと」としてここにいられる感覚。それは彼女にとって、初めて名前のある場所を与えられたような心地だった。

午後、運転手の一人が彼女に声をかけてきた。「ちょっとだけ乗ってみるか?」そう言って、彼女をトラックの助手席に乗せた。

エンジンがかかる。その震えが、シート越しにじわじわと背中へ伝わってくる。足元から響く低い振動。運転席のレバーがわずかに揺れ、窓から吹き込む風が頬をなでた。ミラーに映る後ろの景色が、ゆっくりと遠ざかっていく。

その瞬間、彼女の胸の奥で何かが確かに動いた。

──これは、あの日見た背中が感じていた重み。誰かの生活を、確かに運ぶという実感。

「これが……未来を運ぶ音だ」

彼女は心の中で、そっとつぶやいた。

帰り道、制服にかすかに残った油の匂いが、彼女の胸をふわりと満たしていた。

その夜、夕食の後、彼女は思い切って口を開いた。

「お父さん、私……将来、運転手になりたい」

テレビの音が静かに流れる居間で、その言葉は思ったよりも大きく響いた。

父は箸を止めた。数秒の沈黙ののち、静かに笑った。

「……知ってたよ」

「え?」

「お前が小さい頃、あの現場に連れてった日のこと、覚えてるか?」

彼女はうなずいた。あの朝の光、鉄の匂い、車輪の振動。

「目を輝かせて、ずっとトラックを見てた。あの時から、なんとなくわかってたさ」

父はソファにもたれながら、缶コーヒーを一口飲んだ。

「でも……大変な道だぞ。長時間、重い責任、時に孤独だ。交通のすべてに責任を持たなきゃならない。命を預かることもある。女の子ってことだけじゃない。覚悟がいる」

「覚悟、あるよ」

その言葉は、自分でも驚くほどはっきりしていた。震えなかった。

「この前、インターンで実際に見たの。運ぶって、ほんとに人の暮らしをつなぐことなんだって。まだ下手くそだけど……でも、続けていきたい。自分の言葉で、それをやりたいの」父は少し目を細めて、娘を見つめた。

「そうか。じゃあ、進め。名前なんかなくても、走る道は、自分でつくるもんだ」

その言葉に、彼女は小さくうなずいた。

胸の奥で、エンジンがまたひとつ、大きく鳴った気がした。

数日後の放課後、整備工場の控室で書類を運んでいたとき、ひとりの少年とすれ違った。

「……あ、もしかして中学生?」

彼は彼女より少し背が高く、作業服の袖をまくって、油で少し黒ずんだ手で軽く会釈した。「俺も見学できるって聞いて来たんだ。バイク整備の方に興味があってさ」

彼女は思わず聞き返した。「整備士、目指してるの?」

「うん、たぶん。でもバイクって、ただの移動手段じゃなくて“相棒”って感じがするんだよね。ちゃんとメンテしないとすぐ機嫌悪くなるし。……なんか、そういうの、いいなって」

彼の言葉に、彼女はふと笑った。「それ、なんかわかるかも。私もトラックの音、まるで会話みたいに感じるときがあるんだ」

「へぇ、トラックか。なんか、そういうのって本気の道具って感じがするよな。大事な荷物を背負って走るって、責任もあるし、でも……すごくかっこいいと思う」

彼の言葉に、久しぶりに心がふわりと軽くなった。

名前も知らない少年。でも、誰にも理解されないと思っていた“見えにくい夢”を、少しだけ分かち合えた気がした。

インターン最終日。

彼女は作業員のひとりに頼まれて、指定された棚から部品を取ってくるよう言われた。手にはメモ。「F-18 スプリングナット」。探し回ってようやく見つけた箱を持ち、誇らしげに戻ってきた。

だが、作業員は眉をひそめた。「あー……これ、F-19だ。似てるけど径が違うんだ」

彼女は言葉を失い、顔を赤らめた。

「わ、す、すみません……」

「いいんだ。誰だって最初は間違えるよ。でもな、こういう小さなミスが、大きな事故につながる。それだけは覚えておいて」

その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。ふだんは見えなかった「重さ」が、突然目の前に現れたようだった。

午後の作業の間、彼女はどこかぎこちなかった。工具の受け渡しでも一拍遅れ、作業場の隅に立つ時間が長くなった。

そんなとき、あの少年が声をかけてきた。「元気ないじゃん。失敗でもした?」

彼女は小さくうなずいた。

「……ナット間違えて、怒られた。ほんとに基本的なことなのに」

少年は少し笑ってから言った。

「俺なんか、グリースとオイル間違えてホイール外したままボルト締めようとしてさ。めっちゃ焦った。見習いってそんなもんだろ」

彼女はふっと笑った。

「……ありがとう」

その一言が、不思議と胸の重さを少しだけ軽くした。

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