第4話 ふたりだけの整備ノート
インターンが終わってから数週間。彼女は以前よりも学校生活に少しだけ違うリズムを感じていた。授業中にふと窓の外を見つめる時間が増え、黒板の数式よりも、あの整備場の音や匂いを思い出すことが多くなった。クラスメイトの話題にうまく入り込めないときもあったけれど、それでも心のどこかが、確かに前に進んでいるような感覚があった。
日々のちょっとした風景も、以前とは違って見えた。通学路の交差点に停まっていた運搬車、校庭の隅で雑草を積んだ軽トラック、遠くに聞こえるブレーキの音──それらすべてが、自分の夢と地続きの世界として胸に刻まれていた。
授業の合間にふとメモ帳を開けば、無意識にパーツの断面図を描いていたり、放課後の空を見上げてトラックのルートを想像したり。心のどこかに“もうひとつの現場”が同時に存在している感覚。教室と道路、黒板と工具箱が、彼女の中でつながり始めていた。
ときおり、自分だけが別の世界を生きているような孤独を感じることもあった。けれど、それは不思議と寂しさではなく、静かな決意のように感じられた。誰にも見えなくても、自分だけの道を見つけたような充足感だった。
ある日、図書室の隅で調べ物をしていたとき、聞き覚えのある声がした。
「やっぱりいた。……久しぶり」
顔を上げると、あの整備インターンで出会った少年がいた。制服姿の彼は、少し照れたように笑いながら近づいてきた。
「バイクのメンテ、本格的に始めようと思ってさ。でも、独学だと限界あるから、メモまとめてんだ」
そう言って差し出されたノートには、ぎっしりと整備のメモが書き込まれていた。黒と赤のボールペンで書き分けられた走り書きの文字、インクがにじんだ図解、マーカーで囲まれた注意点。グリースの種類、トルクの数値、整備時のチェックリスト──どのページにも、手を動かしながら学ぼうとする熱がにじんでいた。
「……これ、すごい」
思わず声が漏れた。彼のノートから伝わってきたのは、文字や図を超えた“温度”だった。ひとつひとつの線に、集中と情熱が宿っているように感じた。
「一緒にやらない?」彼はぽつりと付け加えた。
それから、彼女たちは休み時間や放課後に「ふたりだけの整備ノート」を共有するようになった。図書室の机、空き教室、体育館裏のベンチ──場所は日によって変わったけれど、そこにはいつも真剣な話と、夢への静かな熱があった。
ある日はネジの規格について議論し、ある日は物流トラックの最短ルートを一緒に調べた。ときにはノートにトラブル対応マニュアルを模したページを作り、想定トラブルと対処法を書き込んでいった。まるでふたりだけの職業訓練所のようだった。
彼らはインターネットで整備士の現場動画を検索しながら、タイヤ交換の手順やオイルフィルターの位置、エンジンの構造図まで熱心に模写した。手元にはいつのまにか工具のミニカタログや、無料配布の専門誌まで集まっていった。
「この前、母親に言われたんだ。“そんな手に油つけるような仕事じゃなくて、ちゃんとした高校を考えなさい”って。でもさ、俺は好きなんだよ。オイルの匂いとか、手が汚れる感じとか」
彼女は黙ってうなずいた。「うん、私もわかる。誰も気にしないかもしれないけど、その小さなことが、すごく大事に思える」
「じゃあ、目指そうぜ。……“普通”じゃない道」
彼のその言葉に、彼女は小さく笑った。笑顔の奥には、たしかな共犯関係のような、静かな信頼があった。
ふたりのノートは、やがて一冊のファイルになった。メモだけじゃなく、走行ルートの地図、好きなトラックの写真、インタビュー記事の切り抜き。さらに、ふたりの好きな車種ランキングや、観て感動したドキュメンタリー番組の感想までが、ページをまたいで重なっていた。
ふたりで作った「整備士になったら使いたい用語集」、さらには「現場で言ってみたいセリフ集」まであった。ふたりだけのユーモアと憧れが、真剣さと一緒に混ざり合って、まるで未来を手の中で設計しているかのようだった。
時折、ひとつのページをめくるたびに、ふたりで未来の職場を想像して笑った。「こういう事務所だったらかっこよくない?」とスケッチを描き合った日もあった。制服のデザイン、社名ロゴ、看板まで──想像は止まらなかった。
ある日、彼女は思い切ってノートの余白にこう書いた。「もし、将来この夢が叶ったら、このノートを持ってあの整備工場に見せに行こう」
それを見た彼は、少しだけ目を細めて笑い、「絶対そうしよう」と言った。そのとき、彼女は初めて、「誰かと同じ夢を見る」ということのあたたかさを深く感じた。
そのノートの背表紙には、少女の手で書かれた言葉があった。
《未来整備中》──彼女はためらいなく、その言葉を書いた。まるで今の自分をそのまま刻みつけるように。
まだ道の途中。でも、その道はたしかに、ふたりの手で走り出していた。
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