第2話 「その道の先に、なにがあるのか」

中学二年の夏。

窓の外では、アスファルトが陽炎で揺れている。教室の天井には扇風機が回っているが、ほとんど風は感じられず、汗ばむ背中に制服が張りついている。机の上に置かれたプリントはじっとりと湿り、うだるような午後の空気が、誰の呼吸にもまとわりつくようだった。

そんな季節に、進路希望調査が配られた。まだ将来のことなんて考えたこともないと口にする生徒たちの中で、彼女はひとり、迷いなく「自動車整備」「運輸・物流」といった文字を記入した。鉛筆の芯が用紙の紙面をかすかに削りながら進む音が、彼女の中で確信を刻むように響いていた。

「まだ…夢、変わってないんだな」と、担任が少し首をかしげながら声をかけた。その声には驚きと、どこか感心するような響きがあった。

彼女はうなずいた。「もっと近くで知りたいんです、運ぶってこと」

担任は一瞬、何かを言いかけたが、口を閉じた。そして「そうか」とだけ言った。

そのやりとりを隣で聞いていた男子が「女でトラックかよ、渋いな」と笑った。声には悪意はなかった。でも、それが彼女の心に残った。渋い。古い。似合わない。そう言われた気がした。

だから彼女は、次の日からノートの余白に描くのをやめた。絵を描くたびに思い出す言葉が、心の奥でじわじわと広がっていった。笑われるなら、見返したい。その思いが、静かに彼女を変えていった。自分の中にだけあった秘密の夢が、誰かに覗かれたような気恥ずかしさと、それ以上の決意を呼び起こしていた。

代わりに、調べるようになった。

図書室で、物流や産業輸送に関する本を探した。製鉄所から港湾までの流れを示した図解に見入った。インターネットで、実際に働く人たちのインタビュー記事を読んだ。体を壊してまで働き続ける運転手の声、家族とすれ違いながらも使命感でハンドルを握る人たち。どれも胸に響いた。

YouTubeで見つけた整備士のドキュメンタリーに何度も再生ボタンを押した。グリースで汚れた手でボルトを締める整備士の横顔や、深夜のガレージでエンジン音に耳を澄ませるシーン。そのひとつひとつが、まるで神聖な儀式のように映った。モニター越しに感じる油の匂い、鉄の擦れる音、汗と静けさが混ざった現場の温度まで、想像できるようになっていた。

調べれば調べるほど、その世界の広さと奥深さに驚かされた。

たとえば、災害が起きたとき、真っ先に動くのは輸送だった。食料、水、毛布、薬。必要なものが届かなければ、どんな制度も機能しない。道路が閉ざされれば、命のリズムすら止まる。物流はただの経済活動じゃない、人間の命綱だった。

ある動画では、被災地に支援物資を届ける大型トラックの運転手が語っていた。「どんなときも、道をつなげるのが自分たちの仕事だ」と。

その言葉が、彼女の中で鳴り響いた。

「運ぶって、道をつくることなんだ」

ただの移動じゃない。

誰かの明日を届かせる。誰かの必要を叶える。その重みを感じながら、アクセルを踏む。

誰かの希望と、誰かの暮らしを結びつける。

それは、地図にない道を描くことかもしれない。社会という巨大な機構を、目に見えぬ縫い目でつなぐ作業。誰にも知られず、でもなくてはならない。

その道の先に、なにがあるのか。まだ見えない。だけど、それを知りたい。見届けたい。そのために、運びたい。

それが、この夏、彼女が胸に刻んだ“確かな理由”だった。誰の目にも止まらなくても、自分の中に生まれた道を、信じて踏み出す。その第一歩が、すでに始まっていることに、彼女はまだ気づいていなかった。

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