第1話 はじめて夢を描いた日

春の風が、制服のすそを軽く揺らす。新しい季節の匂いが胸をくすぐる。不安と希望がまだ言葉にならないまま、心の奥でそっと交差していた。校門の前には、緊張した顔つきの保護者たちと、よそ行きの笑顔を浮かべた教師たち。人生の節目のように、朝の空気がすこしだけ張り詰めていた。

中学校の入学式。花壇のパンジーがやけに眩しく見えた。校庭に敷かれた白線の上を、慣れないローファーで慎重に歩く。新しい校舎、新しいクラス、新しい名前で呼ばれる少女は、しかしまだ誰の記憶にも染まっていない、真っ白な存在だった。

教室に入ると、整然と並んだ机と椅子の空間が、どこか遠く感じられた。掲示板には「歓迎」の文字が色とりどりの紙で飾られている。配られたプリントに書かれていた「夢を書こう」という文字に、クラス中がざわつく。教師は笑顔で「どんなことでもいいよ。自由に書いてね」と言ったが、その自由が、意外なほど重く感じられる空気が流れた。

「トラックの運転手になりたい」

彼女は、迷わずそう書いた。

用紙の余白に、無意識に描きはじめたのは、あの日フェンス越しに見つめたトレーラーの輪郭だった。大きなキャビン、連なる荷台、タイヤの列、排気管、サイドミラーの角度まで、記憶だけで描けた。エンジン音、ブレーキの軋む音、それらの記憶も一緒に紙の上を走った。

隣の席の女子が覗き込んで、ほんの少し首をかしげた。「それって、運ぶ人?」と聞かれた瞬間、彼女の頭にはいつか見た父の背中と、荷台に積まれた“誰かの明日”がよぎった。「うん、未来を」と彼女はつぶやいた。

その返事は、誰にも聞こえなかった。

教室の窓から見える運動場に、サッカーボールが転がっていた。誰かが蹴ったボールの音が、静まり返った教室に軽く響く。その音に紛れるようにして、誰かがくすっと笑った。

「女の子なのに」

誰の声だったかは、もう覚えていない。

それは否定というより、ただの無意識な感想だったのかもしれない。でも、その一言が、彼女の胸の奥にある小さなエンジンに、再び火を入れた。

その日から彼女は、夢を人前で語らなくなった。

でも──描くようになった。

ノートの片隅、教科書のすき間、手帳の裏紙に、無数のトラックが生まれた。写実的に、時に図解のように、あるいは落書きのように自由に描かれたそれらは、彼女にとって“未来”そのものだった。走っている姿、停車している姿、荷物を積んでいる姿。

教科書の歴史人物の横に小さく描かれたトラック。数学の問題の裏に並ぶ整然とした車列。家庭科のプリントに貼られたレシピの端にも、ブレーキランプが光っていた。

それはまるで、自分がその運転席に座っているかのような感覚だった。ハンドルを握る指の感触。エンジンの震え。バックミラーに映る景色。信号の光、風の音、トンネルの暗がり。教室にいながらにして、彼女はいつも、どこか遠くへ向かっていた。

放課後、友達が部活の説明会に行く中、彼女はひとり図書室に足を向けた。棚の隙間から見つけたのは『物流のしくみ』という地味な本。誰も手に取らなさそうなその本のページをめくると、見慣れた車両や、見たこともない輸送ルートの図が現れた。

知りたかったのは運転技術じゃない。どうやって、人の暮らしが運ばれているのか。それを知るたびに、彼女の描く線はもっと確かになっていった。

教室では、彼女の名前はまだ目立たなかった。成績も平凡で、運動も目立たなかった。けれど、彼女の中でだけ、誰にも知られない未来が、静かに加速を始めていた。外の世界は、まだ止まったままだった──彼女の夢を知らず、気づかず、ただ日常を繰り返していた。

だがその静かな“走行音”は、確かに、彼女のなかに鳴り始めていたのだった。

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