第11話 : 2007 January / Evil Line - Serial Tear / side A
【七理ハルミ】
師走の冷たい空気が、換気扇から唸りを上げて流れ込んでくる、埃っぽいリハーサルスタジオ。
僕が持ってきた新曲の、重く、引きずるような最後の一音がアンプから消えた瞬間、沈黙を破ったのは、やはり黒滝ユウキだった。
「……おい、七理」
彼は、放り出すようにドラムスティックをスネアの上に置いた。
「油断するとすぐ根暗な曲を持ってくるお前のその癖、いつになったら治るんだよ。この間も、あのハコの店長にくどくど言われたばっかだろ。『客付けたきゃ、自分たちだけが気持ち良くなる曲演るのやめろ』って」
黒滝の言葉は、事実だった。
そして、事実だからこそ、ナイフのように鋭く僕の胸に突き刺さる。
「お前は、好きでフリーターになって、バンドでやってくって決めたんだろ。俺ら学生より時間あるんだから、ふらふらしてないで、ちゃんとしろよ」
「黒滝。それ、言い過ぎ」
ベースを膝に置いた吉嗣マサトが、静かに、しかし有無を言わせぬ口調で言った。
「わがまま言ってんのは、親の金で大学行かせてもらってる俺らの方だろ。七理は、バンドの顔として、一人で踠いてる。それは、俺らが一番認めなきゃいけないことだ」
吉嗣は僕の方を向き、穏やかに続けた。
「メロはしっかり立ってる。あとは、七理が書いてくれた曲を、俺たちでしっかり形にしていこうぜ。突き詰めれば、絶対に何か見えてくるものがあるはずだから」
黒滝は、バツが悪そうに、ガシガシと頭をかいた。
「…………」
僕は、マイクスタンドにもたれ掛かり、俯いたまま、何も答えられなかった。
黒滝の言うことも、吉嗣の言うことも、どちらも正しい。
そのどちらにも、今の僕には応えられない。
「……悪い。ちょっと、頭冷やす」
それだけ言うと、僕はスタジオを飛び出し、裏口の喫煙スペースへと向かった。
冷たい外気が、火照った顔に気持ちいい。一本のタバコに火をつけ、紫色の煙を吐き出す。
僕は、僕の信じた音楽を貫き通したい。
この胸の内で渦巻く、名前のない感情を、轟音とノイズで表現したい。
しかし、音楽で生活できなければ、大人として自立しなければ、楠木ナミと並んで歩くことすら叶わない。
彼女は、もう何年も前から、大人の世界に混じり、様々な想いを抱えながら、たった一人で、その足で立っているというのに。
高校の頃、漠然と掲げた「音楽で食っていく」という目標。
その、あまりにも途方もない道のりの前で、僕はただ、焦燥感だけを募らせていた。
*
二〇〇七年、一月。
カレンダーの日付は、僕たちが社会的に「大人」の仲間入りを果たすとされる日を、無情にも指し示していた。
ハタチ。
その響きには、何の感慨も、期待も湧いてこなかった。
ただ、焦燥感だけが、胸の奥で燻り続けている。
去年の十二月に入ってから数週間、楠木ナミとは会っていなかった。互いにバイトが忙しかったり、僕のバンドの練習が立て込んでいたりしたせいだ。
だが、この成人式という節目を前に、無性に彼女に会いたくなった。いや、会わなければならない、という強迫観念に近いものだったかもしれない。
成人式の前夜。僕は、高円寺駅近くの、場末感漂う居酒屋で楠木と向かい合っていた。
赤ら顔の中年男性たちの喧騒と、焼き鳥の煙が充満する店内で、彼女はいつもと変わらない、少しだけ不機嫌そうな顔で酎ハイのグラスを傾けていた。
僕の髪は、あの頃の赤茶色から、今はほとんど黒に近い色に戻っていた。
彼女の金髪は、相変わらず鮮やかだったが。
「久しぶりだな、なんか」
僕がそう切り出すと、彼女はグラスから目を離さずに「ん」とだけ応えた。
「最近、どうだった? バンドの練習とか、結構入ってたみたいだけど」
「ああ……うん。新しい曲、作っててさ。なかなか、メンバーとイメージが合わなくて、ちょっと手間取ってる。ライブも、小さいハコばっかりだし、客も全然だし……まあ、バイトしながらじゃ、こんなもんなのかなって思う時もあるけど」
僕は、少し自嘲気味に、最近のバンド活動の様子を話した。
苦労話のようにならないように、言葉を選んだつもりだったが、結局は愚痴っぽくなってしまったかもしれない。
「でも、やっぱり音楽やってる時が一番、生きてるって感じするんだよな。いつか、もっとデカいハコで、自分たちの音、鳴らしてみたい。……なんて。夢みたいなことかもしれないけどさ」
そう言って、僕は照れ隠しに酎ハイを呷った。
楠木は、黙って僕の話を聞いていたが、やがてぽつりと言った。
「……私もなんか、無心になれるもの、欲しいな」
その声は、いつになく弱々しく、僕の胸に小さく響いた。
彼女も、何かを抱えているのだろうか。僕には、その深いところまでは踏み込めない。
少しの沈黙の後、僕は話題を変えるように尋ねた。
「そう言えば、明日の成人式は? 行かないの?」
僕がそう尋ねると、彼女は面倒くさそうに眉を寄せた。
「んー、行かない。面倒だし」
「そっか……」
「あんたは? 行くんでしょ、どうせ」
その言葉には、どこか揶揄するような響きが含まれているように感じた。
「まあ、一応……。でも、楠木が行かないなら、俺も別にいいかな、なんて」
半分は本心、半分は彼女の反応を試すような、ずるい言い方だった。
すると、彼女はグラスを置き、真っ直ぐに僕の目を見た。
「馬鹿じゃないの。お前は私と違うんだから、ちゃんとしなよ」
その言葉は、僕の胸に鋭く突き刺さった。
「お前は私と違う」。
その一言が、僕と彼女の間にある、見えないけれど確実に存在する、深い溝を改めて認識させた。
僕は、何も言い返せなかった。
居酒屋を出た後、僕は楠木のアパートの近くまで、彼女を送った。
道中、会話はほとんどなかった。
アパートの前で別れる時、彼女は「じゃあね」とだけ言って、あっさりと部屋の中に消えていった。
その背中を見送りながら、僕は言いようのない孤独感に包まれた。
環七通りを、一人、当てもなく歩く。車のヘッドライトが、僕の影をアスファルトの上に長く引き伸ばしていく。
楠木の言葉が、冷たい夜風と共に、僕の心を容赦なく抉っていく。お前は私と違う、というその言葉の真意を、僕は掴みかねていた。
彼女と別れた後も、僕は何となく、まっすぐ家に帰る気にはなれなかった。
「お前は私と違う」。
楠木の、あの突き放すような言葉が、アルコールが回り始めた頭の中で何度も反響する。
酔いを醒ましたかった。
あるいは、このままどこか、自分の知らない場所へ行ってしまいたかったのかもしれない。
気がつけば僕は踵を返し、自宅とは逆の方向へ、環七通りをただ当てもなく歩いていた。
やがて、野方駅の駅舎が見えてくる。
僕は、駅前の金網にもたれかかるようにして立ち尽くした。
目の前で、環七通りがまるで巨大な口を開けるようにして、地下へと潜っていく。
アンダーパスの中を、時折、車が、ゴウ、と音を立てて走り抜けていく。
ヘッドライトの光が、一瞬、赤橙色に照らされたトンネルの壁を白く切り裂き、そして、また闇に吸い込まれていく。
現れては、消える、光の残像。
僕は、その光景を、ただぼんやりと眺めていた。
僕も、こうして、誰かの人生を、ただ通り過ぎるだけなのだろうか。
あの車みたいに。
何の痕跡も残さず、あっという間に、過去という名の闇に忘れ去られていく。
楠木からも。
ハタチ。大人。バンドマン。フリーター。
そのどれもが、今の僕にとっては借り物の、薄っぺらいラベルにしか思えなかった。
僕は、一体、誰なんだろう。
アンダーパスに灯る赤橙の光だけが、僕の空っぽな心を静かに照らしていた。
*
翌日、僕は言われた通り、慣れないスーツに身を包み成人式の会場へと足を運んだ。
体育館の中は、華やかな振袖や真新しいスーツに身を包んだ同世代の若者たちの、浮ついた熱気で満ちていた。
慣れないスーツの襟が、首に食い込んで息苦しい。
革靴は足に馴染まず、一歩ごとに痛みを主張する。
まるで、借り物の身体で、借り物の時間を生きているようだ。
旧友との再会を喜び合う声、未来への希望を語り合う声。
それらが、僕にとってはただのノイズにしか聞こえなかった。
壇上では、区長か誰かが退屈な祝辞を述べている。
僕は、その光景をどこか遠い世界の出来事のように眺めながら、強烈な疎外感と虚無感に襲われていた。
大人になるって、こういうことなのか?
何の実感も、感慨も湧いてこない。
僕のアイデンティティは、未だに曖昧な輪郭のまま、この喧騒の中で溶けてしまいそうだった。
楠木の言葉が、再び頭の中で反芻される。
「お前は私と違う」。
彼女は、一体何を言いたかったのだろう。
僕たちの間に存在する「違い」とは、具体的に何を指すのだろうか。経済的なことか? それとも、もっと根本的な、生き方や価値観の違いなのか?
必死にその意味を理解しようとすればするほど、僕たちの関係の不確かさが、重くのしかかってくるようだった。
中学のあの時、彼女は僕を拒絶した。
そして今、また「違う」という言葉で、僕たちの間に線を引く。
まるで、薄紙を一枚ずつ、何度も何度も引き裂くように、僕たちの関係は少しずつ、でも確実に引き離されていく。
その痛みに、終わりはあるのだろうか。
この曖昧な関係の先に、未来はあるのだろうか。
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