第10話 : 2005 - 2006 / Taste - Good Morning / side B
【楠木ナミ】
実家を出て、環七沿いの古びたアパートで一人暮らしを始めてから、もう一年以上が経った。
朝から晩まで派遣の仕事とバイトを掛け持ちして、家賃と生活費を稼ぐ毎日。楽じゃない。
全然楽じゃないけど、誰にも干渉されず、自分の力だけで生きているという実感は、何物にも代えがたいものだった。
あの息の詰まる家から解放されただけでも、世界はこんなにも違う色に見えるんだ、と知った。
この高円寺という街に残ることを選んだのは、やっぱりここが好きだからだ。ごちゃごちゃしていて、変な奴が多くて、でも、どこか懐が深い。
そして、心のどこかで、また七理に会えるかもしれない、なんて淡い期待を抱いていたことも否定はできない。
まさか、あんな形で再会して、髪も染めてやって、七理が私の部屋に入り浸るようになるとは思ってもみなかったけど。
七理が部屋に来ることに、私はもう慣れっこになっていた。最初は、少しだけ戸惑いもあった。
こんな狭くて汚い部屋に、男を入れるなんて。
でも、七理は、そんなこと気にする素振りも見せず、ただ、そこにいるのが当たり前みたいな顔をしていた。
それが、なんだか心地よかった。
こいつは、私に何も求めてこない。
他の男たちみたいに、下心のある目で私を見たりしない。
ただ、そこにいるだけ。
その、求められない関係の楽さが、私には必要だったのかもしれない。
そして、時々、七理の真っ直ぐな目を見ていると、自分がとっくに捨ててしまった、青臭い何かを思い出させられて、胸がチクチクした。
*
七理が部屋にいる。
その事実だけで、この部屋は、いつもより少しだけ、違う空気を纏う。
私は、読みかけの音楽雑誌を置いて、本棚の隅に立てかけていた白いMDのケースを、何とはなしに手に取った。
中三の夏、七理がくれたMD。
あの最悪な家を出てくるとき、ほとんどのものは捨てるつもりで置いてきたけれど、これだけは、どうしても手放せなかった。
七理と再会してからは、一人で暇を持て余す夜に、何となく聴くようになった。
その度に、耳にしたくもない家族の寝息を遮って、七理が選んでくれた音で、逃げ場もない六畳二間の牢獄ごと満たされた、あの初めての感覚が蘇る。
いまだに、胸の奥がくすぐったくなる。
「そのMD……。まだ、持っていてくれたんだな」
部屋の隅で雑誌を読んでいた七理が、ふと顔を上げて言った。その声が、やけに大きく聞こえた。
「……別に。場所を取るもんでもないし、捨ててないってだけでしょ」
私は、ぶっきらぼうにそう言って、MDを棚に戻した。
心臓が、少しだけうるさい。
このままじゃ、駄目だ。
この感傷的な空気を、変えなくちゃ。
「そうだ」と私は、わざとらしく明るい声で七理の方に顔を向ける。
「ねえ、『ドラマ』行かない? あそこならまだ開いてるでしょ」
「あー、ドラマ。いいけど。こんな時間にわざわざ、何か欲しいものでもあるのか?」
「別に。暇つぶしに外に出たいだけ」
そう言えば、七理がここに入り浸るようになってから、まだ見せてないものがあったなと、不意に思い出した。
「ねえねえ、七理。ちょっと、面白いとこ、行かない?」
部屋を出て、錆びだらけの外階段を上がって、色褪せたこのアパートの屋上に向かう。
外に出るついでに、私のお気に入りの場所を共有したかったのだ。
「屋上って、こんなところ、上がっていいのか?」
七理が妙に落ち着かない様子で言う。夜の学校に忍び込んでいるんじゃあるまいし、大丈夫でしょ。
「さあ? 知らないけど。たまに、ここでタバコ吸ってるけど、なんも言われてないし、良いんじゃない?」
屋上に上がって、眼下に広がる、星屑のような光。
昼間とはまるで別の世界みたいで、現実味をなくしたこの光景を、七理にも見せてやりたかった。
「たいして高くないけどさ……。ほら、そこ。環七の、いつも見上げてる大和陸橋。あれ、ここからだと見下ろせるの。なんか、おもしろくない? 私、結構この眺め気に入ってるんだよね」
指を指した方をに目を向けて、七理が静かに頷いている。
いつもは、この街の一部として生活しているけれど、こうして俯瞰していると、なんだか私の手のひらに収まっているような気がしてくる。
こいつにも、この感覚、伝わってるかな?
私は、いつものように、マルボロメンソールライトを取り出して火をつけた。この夜空の下の、この時間が落ち着く。
しばらく、七理と、静かにその光景を眺めていた。
「……ん」
私は、吸いかけのタバコを、フィルターが七理の方に向くように持ち直して手渡した。
こいつが、自分のタバコを部屋に置いてきたせいで、手持ち無沙汰にしてるから、何か悪いなと思ったからだ。
でも、それだけじゃない。
私から渡った、このタバコが、紫煙となって七理を満たす。
この目の前の光景が、私に、全身が痺れるような、疚しさを伴う充足感を与えた。
七理の髪を私の色に染めた時のことが、頭を過る。
いつまでも無垢で、少年のようなこいつの全てを、私だけの色に染めてやる。
どこまでも無垢で、少年のようなこいつの全てを、私だけのものに、私にしてやる。
そんな、暗い支配欲みたいなものが、私の中で、どろりと、渦を巻く。
それは、危うい熱を帯びた紅蓮となって、あどけなかったあの頃の、青い感傷と交う。
ねえ、七理。
私、あんたのこと、本当に好きなのかな。
それとも、ただ、壊したいだけなのかな。
自分と同じ、汚くて、息苦しい場所まで、引きずり下ろして、安心したいだけなんじゃないか。
その、どうしようもない問いかけが、胸の奥に、鋭く、突き刺さる。
でも、今は、この、背徳的な快感に、身を委ねていたかった。
「これ、ありがと。あとで一本返すから」
七理が、最後に深く、私のやったタバコを吸い込むと、赤茶けた鉄柵で火を消した。
「適当にあんたのとこから抜いとくから、そんな律儀にしなくていいって」
いつも純朴な顔をして、私の隣に立っているこの男は、いつも何を考えているんだろう。
七理も、私みたいに、心の奥底では何かを抱えているんじゃないだろうか。
それとも、本当にあの時の、青く真っ直ぐな想いのまま、ここに立っているのだろうか。
答えなんて、分かるはずがないのに。
そんな問いが、頭の中で、歪んだギターのフィードバックノイズのように、鳴り続ける。
深夜の中古ショップは、私と七理の他に、一人の客と、レジにやる気なく立っている店員がいるだけで、散漫な空気が漂っていた。
ここに来た理由。口では「暇つぶし」とは言ったけれど、本当は欲しいものがあった。
中学三年の時に、七理が貸してくれた、あのCD。
なぜか無性に、あれを自分のものとして、手元に置いておきたかったのだ。
私は、いかにも興味があるという顔でヴィジュアル系の棚を物色するフリをしながら、本当の目的の場所を探す。邦楽の、インディーズの棚。
あった。
『C』の欄に、それは、ひっそりと、でも確かに存在していた。水の中に沈んでいくような青い、あのボーリングのピンのジャケット。
私は、周囲を窺うように、素早くその一枚を抜き取ると、他のCDを数枚手に取り、カモフラージュするようにレジへと向かった。
七理に、何を買ったのかは見られたくなかった。
「欲しいもの、見つかったのか?」
「まあね」
それ以上、七理は何を買ったのか追及してこなかった。
もしかして、何だったか分かってる?
でも、これで、このアルバムはもう「七理から借りた思い出の品」じゃない。
私の手の中にあって、私がいつでも聴ける、私のものになったのだ。
その事実に、私は、誰にも気づかれない、ささやかな満足感と、胸を締め付けるような甘い痛みを感じていた。
中古ショップを出て、私は、このまま外で過ごそうと言った。
七理と二人で、深夜の高円寺をタバコ吸いながら歩くのは、結構好きだったから。
くだらない話をして笑ったり、ただ黙って同じ空気を吸ったり。
話の流れで、この前、七理が持ってきたデモテープのことを思い出した。正直、音質は最悪だったけど、その中にキラリと光る何かを感じたのは確かだ。
「ねえ、この前聴かせてもらったデモの曲、結構良かったよ。いつものあんたっぽいうるさいギターのやつ。私は好きかな」
私がそう言うと、七理は少しだけ驚いたような、でも嬉しそうな顔をした。
「あんたも音楽の趣味、全然変わんないよね。中学の頃から聴いてるやつ、今も聴いてんでしょ、どうせ」
昔、七理が私に必死で語っていたバンドの名前が、いくつも浮かんでは消えた。
なんでだろう。あの時のクラスの奴らの名前はとっくに忘れているのに、ずっと覚えていた。
その事実が、自分でも少しだけ可笑しくて、気恥ずかしい。
「まあな。好きだったものをずっと好きでいたいし、自分もそうありたいんだよ。変わらない芯みたいなものを、持ち続けたい。バンドやってるのも、多分、そういうことなんだと思う」
七理は、時々、こういう真っ直ぐで、青臭いことを真顔で言う。
それが、眩しくて、少しだけ胸が痛む。
私には、そんな風に何かを信じ続ける強さなんて、もう残っていないかもしれないから。
「……七理のそういうところ、羨ましい」
思わず、本音がこぼれた。
羨ましい。
でも、私にはなれない。
そのどうしようもない現実が、また私を打ちのめす。
七理は、私のその言葉の意味を、どこまで理解しているんだろうか。
「なあ、楠木。俺らのバンドのライブ、観に来てくれよ」
七理の持ってくるデモテープや、部屋で弾き語っているのは聴くものの、バンドのライブは観に行ったことがなかった。
「あー、ライブね……。あんたが真面目に歌ってるとこ観たら笑っちゃいそうだから。私は、たまにデモ聴かせてもらうくらいで、いいよ」
「人が真面目に
冗談だと受け取った七理が、笑いながら返す。
本当は、一生懸命な七理を観て、笑うわけがない。
私は、七理がステージに立って真剣に何かを表現しようとして、眩い照明を頭から足の先まで浴びるその姿を、きっと直視できない。
できるわけがない。
薄暗い世界にいる私は、何も持ち合わせていなくって、七理が生きるべき世界とは違うということを、そういうことを嫌と言うほど突きつけられるだろう。
携帯を手に取って、背面ディスプレイに目をやると、時刻は三時になろうとしていた。
ずいぶんと長い時間、ほっつき歩いてしまっていた。
今から帰って、すぐに布団に入れば明日の仕事は、どうにかなるか?
いや。
一人でいたくない。
漠然とした、そんな思いが押し寄せてきた。
今日の七理との時間は、あまりにも感傷的になり過ぎた。一人になりたくない。このまま、七理に隣にいて欲しい。私が、安心できるのは、こいつが横にいるときだけだ。今の私には、七理の、あの不器用な優しさが必要だ。
押し寄せてきた、このわがままは、「朝まで付き合って」という、なんとも女々しい音を伴って口からこぼれた。
二度と、誰かに期待なんかしない。そう誓ったのに。
私は、結局、こうやって、自分から、この男に手を伸ばしてしまう。
学習能力のない、本当に、どうしようもない女だ。
駅前のマックに入って、しばらくとりとめのない雑談を交わしていたが、いつの間にか、うっかり七理の前で寝てしまっていたらしい。
普通なら、男の前であんな無防備な姿さらすなんてありえないのに。
こいつは、私の心の奥にある硬く冷たい氷を、いとも容易く、溶かしてしまう。
その、どうしようもない安心感が、私がこの数年間、たった一人で必死に築き上げてきた全てのものを、壊していく。
それが、怖くて、そして、たまらなく、心地よかった。
*
ある時、七理が、金髪から赤茶色の髪に変わって、私は少しだけ驚いた。
でも、何も言わなかった。
金髪の七理も悪くなかったけど、赤茶色の髪も、なんだか七理の不安定な感じに合っているような気がしたから。
「ふうん、赤も悪くないじゃん」。それだけ言ったら、七理、少しだけホッとしたような顔をしていた。
私たちのこの関係は、何なんだろう。
友達?
それにしては、近すぎる。
恋人?
そんな甘ったるいものじゃない。
でも、お互いにとって、なくてはならない存在になっていることだけは、確かだった。
この、刹那的で、どこか危ういバランスの上で成り立っている時間に、私は知らず知らずのうちに安らぎを感じていた。
だが、同時に分かってもいた。
こういう時間は、永遠には続かない。
いつか必ず、何かのきっかけで、この絶妙なバランスは崩壊する。
その『いつか』が来るのが、少しだけ怖い。
そう思いながら、私は、当たり前だった七理のいない夜の静寂に訪れる孤独感、それを痛いほどに突き付けられていた。
ほのかに苦みを感じるこの味を、なんて表現すればいいのか、まだ私にはよく分からなかった。
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