第11話 救世主の説得
薄闇がまだ残る早朝の広場は、静寂に包まれていた。
ひんやりとした空気が肌を刺し、吐く息が白い煙となって空に溶けていく。
共用倉の前には、どこか割り切ったような、あるいは日課の一部として受け入れたような面持ちで、村人たちが集まってくる。
三つの家が、魔法耕起を担うアーデルに、貴重な食料を差し出す番だ。
乳製品、
どれも潤沢にあるものではない。
それでもこの奇妙なくじ引きは、日を追うごとに、村人たちにとってささやかな気晴らしのような側面を持ち始めていた。
一瞬の緊張と、それを越えた
それが、飢えと寒さに満ちた日々の中で見出した、わずかな“娯楽”なのかもしれない。
「せーの!」
子供のような無邪気な声が広場に響き、村人たちは細く割られた薪の棒を、慣れた手つきで地面に突き立てる。
その長さを見比べる目に宿るのは、真剣さと、わずかな希望だった。
「形で判別されちゃ公平性が疑われるな。そろそろ作り直すか、長さ変えるか……」
レオンは
今日も滞りなく三軒が選ばれた。
レオンが確認のため、用意できる食料を尋ねると、乳製品と干し肉にはすぐに声が上がった。
だが、ジャガイモの名だけは、沈黙が続いた。
「またか……」
レオンは、予想していたかのように小さく息をつく。
マルトばあさんがチーズや肉がないからと、ジャガイモを買い集めたという話は本当だった。
「……みんな、マルトばあさんのところへ行って、交渉してきてくれないか。どうしても必要なんだ」
選ばれた三人は、あからさまに不満げな顔を浮かべた。
前回、彼女のジャガイモは相場の二倍で取引された。
それでも、レオンの真摯な
レオンは広場の中心で待った。
冷たい風が頬を
「レオンさん、あんまりですよ……」
マルトは「残りが少なくて不安だ」と言い、価格は相場の三倍に跳ね上がっていたという。
三人は各々の家に戻り、
「すまない……魔法耕起のためだ。本当に、すまない」
レオンは深く頭を下げた。
この仕組みが誰かの犠牲の上に成り立っていることを、改めて痛感する。
そして、なんとしても、この不公平な負担を解消しなければと、胸に決意が芽生えた。
三品と調整用の野菜、パンが
その痩せた小さな身体が、いまやこの村を支えている。
その重みを思い、彼は唇をかみしめた。
広場に戻り、くじの道具を片付けていると、カスパが通りかかった。
どこか
「食料供出、順調そうだな」
まるで世間話でもするように、カスパは軽く声をかける。
「そうでもない。ジャガイモが、もう入手困難だ。このままじゃ、アーデルに相談するしかないかもしれん……」
疲れた口調で応じたレオンの中には、彼女を心配させたくないという思いと、打開策を求める焦りが交錯していた。
カスパは、ほんのわずか眉を上げて見せた。
「
その言葉に、レオンは内心で舌打ちした。
なぜカスパがそんなことを知っているのか。
そしてなぜ、それを今この場で、わざわざ口にしたのか。
「……そうか。だがな──」
レオンが言葉を濁すと、カスパはふと顔を寄せ、低く
その声音には、正論めいた理屈と、
「たった一人で魔法耕起をやってるんだ。村として、“用意できませんでした”じゃあ、みっともないだろ? アーデルは、村の柱なんだ。お前が、その柱を支えないで誰が支える。悪い前例、作っちゃいけないよな?」
カスパの言葉は、レオンの責任感に深く刺さる
正しい。
反論の余地はない。
だが、その奥に潜む冷たさが、レオンの胸にじわりと不快感を残した。
「……なんとかするしかない、か」
レオンは苦く
「そうそう。がんばれよ、レオン。アーデルには、これ以上聞くな。心配させたくないんだろ?」
満足げに笑い、手をひらひらと振ると、カスパは足早に去っていった。
その背中には、一片の迷いも見えなかった。
「じゃあ、奉仕行ってくる。また夕方な」
「……おい、待て!」
レオンの声は届かない。
カスパは振り返ることもなく、軽やかに広場を後にした。
「帰ったら聞くよ!」
残されたレオンは、重くのしかかる課題を前に、ただ静かに風の中に立ち尽くしていた。
冷たい早朝の空気が、額に
*
ヴァルト家。
戸の外には、
夜明け前の
火床の火は、まだ小さな音でパチリと燃え、かろうじて
ヴァルトは、夜明けとともに村の労働奉仕へと出かけていった。
男たちは重い作業を担い、この凍えるような季節には特に、日の出とともに家を出ていた。
家には女ふたりだけが残され、いつもより静かで、しかし、どこか張り詰めた空気が漂っていた。
ミーナは口数少なく、使い慣れた
その
「動かないでね」
ミーナの声は静かで、微かに震えていた。
その奥には、祈るような響きがあった。
彼女の視線は、
(昨日もがんばって脂質をたくさん
アーデルは心の中で必死に祈った。
チーズもバターも、干し肉も、無理にでも胃に押し込んだ。
これは、身体を削る回復不能な「呪い」ではなく、ただのカロリー不足による「化学的な」痩せだと信じたかった。
飢餓に似た状態であれば、きっと回復できるはずだと、その可能性にすがりたかったのだ。
ミーナが紐を緩め、その長さを確認する。
昨日の目印として作られた小さな結び目から、明らかに足がひとつ分細くなっていた。
「痩せている……」
ミーナの唇から、絞り出すような声が漏れた。
その言葉は、アーデルの心を深く
痩せている
その単純な事実が、紐の結び目が
自分の身体は、努力を嘲笑うかのように、確実に
アーデルは何も言わず、ただ、じっとその紐を見つめ返すことしかできなかった。
ミーナの指先が、目に見えて震え始めた。
もう一度、確認するように紐を持つが、その手は定まらない。
何を測っているのか、何を確認しているのか、わからなくなる。
目の前の現実を受け入れたくない、という彼女の心が、細かな動きに表れていた。
火床の火が、ぱちりと乾いた音を立てた。
その音が、この部屋のどこにも届かない、誰かの悲痛な問いかけのように響いた。
沈黙を破り、アーデルが震える声で尋ねた。
「お
その言葉は、絶望の
測り方が悪かっただけだ、と。
ミーナはハッとしたように顔を上げた。
「……気を付けているけど……絶対じゃないわ。そうよ。きっと、
ミーナの声には、希望を見つけたかのような必死さがあった。
自分の間違いであってほしい。
娘が痩せているのは、自分の不注意であってほしい。
しかし、アーデルはゆっくりと首を振った。
その瞳には、すでに諦念の色が宿っていた。
「ううん、いい。お母さんが、気を付けてくれてたんなら……きっと今のが正しいよ」
その瞬間、アーデルの頭に、恐ろしい想像が津波のように押し寄せた。
これは、回復不能な「呪い」なのか。
魔法を使うたびに、私の身体は、命を削るように痩せていく。
この世界に来て、ようやく手に入れた家族も、この村の未来も、すべてを救うために、私は、私の身を削り続けるしかないのだろうか――。
(落ち着け。魔法はあっても呪いなんて、あるわけがない。聞いたことがない。これはきっと──誤差だ。紐の水分量が変わって、短くなったんだ)
アーデルはそう自分に言い聞かせ、必死に心を鎮めた。
虹はただの光の屈折だ、と前世の父は言っていた。
ならば、これもきっと、説明のつく何かだ。理由は、ある。そう願っていた。
(昨日とは違う時間に測った。次は──今日と同じ夜明けに測ろう。条件を揃えないとね。それと――)
ふと気がつくと、ミーナに抱きしめられていた。
いつの間にか、優しく、強く。
アーデルは、ずっと独りで震えていたことに、その時ようやく気づいた。
「アーデル。……もう、魔法を使うのはやめましょう」
ミーナの声は、祈るように、切実だった。
アーデルの胸の奥に、何かが静かに
誰かに、そう言ってほしかった。
『もう、リスクを負わなくていい』
『責任を取らなくていい』
そう──誰かに、優しい許しの言葉を。
だが、それは同時に、あまりにも甘い
すでに村全体が、魔法耕起を前提に動き始めている。
ヴァルトの話では、もう
いま手を引けば、この家族に居場所はなくなる。
労働奉仕の計画が崩れれば、村は再び解決不能な税の泥沼へと逆戻りする。
──いや、元の通りですらない。
アーデルが希望を与え、それを潰した、という理屈になる。
(それはだめだ。両親が、孤立してしまう。それに──クレープの世界が遠のく)
すでにアーデルには、誰もが自由に、好きなものを食べられる世界が、ぼんやりと見えていた。
その
アーデルは、ミーナの腕の中からそっと顔を上げた。
火床の火は、静かにくすぶり、
その淡い灯りのなかで、ミーナの瞳が揺れていた。
恐れと、祈りと、そして母の情と。
(怖いのは、私も同じ。でも……)
「もう少しだけ、がんばる」
自分でも、なぜそう言えたのかはわからなかった。
けれど──ミーナの腕が、ほんの少しだけ強くなった気がした。
「測るのは毎朝にする。記録もちゃんと残す。体の変化も……平気、ただちょっと、痩せてるだけだから」
それは、ミーナに向けた言葉であると同時に、アーデル自身への宣言でもあった。
そう言った瞬間、アーデルはほんのわずかに、自分の意志を取り戻した気がした。
体を削り取るナイフを手にした
ミーナの体は、静かに震えていた。
*
アーデルは、魔法耕作権で指定された草地――まだ畑になっていない土地に、ひとり立っていた。
日が少し高くなり、
アーデルは自分の体を改めて見下ろした。
痩せて、骨ばって、なのに腹だけがぽっこりと膨れている。食べ続けているせいだ。
「はー、ぶさいく。私の胃腸、もっとがんばれよ……」
彼女は今日も、何かを口にし続けていた。
耕起のお供はハードチーズ。高カロリーで保存が効くので、懐に忍ばせてある。
村人には「なるべく近寄らないでくれ」と話が通してある。
高級食材を食べているところを見られるのは避けたかった。
公知の事情とはいえ、慢性的に飢えている者の目の前で何かを口にするのは、どうしても罪悪感が伴う。
「……やり方を変えよう。もっとエネルギー、節約しなきゃ」
これまでは、テレビで見たような――耕された土が細かな粒子になるまで、徹底的にやっていた。
けれど今は、そんな
「ベストじゃないけど……私もベストじゃない。やらないより、マシ」
決意を込めて、アーデルは腕を伸ばした。
脳裏に思い描くのは、トラクター。
そのイメージに呼応して、腕から淡いオーラが立ち上がる。草地が、微かにざわめいた。
「粗いピッチの刃で、畑を起こすよ……」
地面がうねる。土が盛り上がり、時にこぶし大の塊を残しながら、ゆっくりと裏返っていく。
アーデルの目には、十分な成果に見えた。
「よし。魔法の“
それでも彼女は、どこか物足りなさを拭えなかった。
腕からは確かにオーラが発せられているのに、それは見た目でしか感じられない結果だった。
振動も、反動も、熱もない。
まるで、無音のラジコンで物理法則を
耕された土がくぐもった音を立てて崩れる。それだけだった。
「……はー。これ、オーラがなければ、ただチーズかじって畑踏み荒らす子供だよ……」
彼女は硬く冷たいチーズを、少しずつ
耕すたびに、地面の反発が指先から抜けていく。
けれど、それとは反対に、どこかで呪いのナイフが、自分の身体を静かに削っていくようなざわめきがあった。
音もなく、皮膚の下を、淡く、確実に――
*
「アーデル、さっきと足の太さ、変わってないわよ。痩せてなんかない」
アーデルの足を測り終えると、ミーナが笑顔で
その声色に、優しさと安心を織り込もうとする意図が透けて見える。
けれど、アーデルにはわかっていた。
きっと、そう言うだろうと。
「……お母さん、紐の感じ方でわかる。ね、"
「そうね……ごめんなさい」
ミーナは黙って、もう一度紐をあて直した。
その手が、わずかに震えていた。
結び目が、二つ分短くなっていた。
アーデルは、ふうっと息を吐き、煤けた天井を見上げる。
「そっかー……そんなところか」
予想半分、期待半分――そのちょうど真ん中に落ち着く、微妙な現実だった。
(紐の計測誤差は無視できないけど……たしかに、エコモードは効いてる気がする。仮に、消費を抑えることで痩せる速度が落ちるなら、消耗は“使用時間”じゃなくて“仕事量”依存。だったら……調整の余地はある)
アーデルは黙って考えた。
ミーナも、同じ沈黙を共有していた。
(でも、問題はそこじゃない。体を戻せるかどうか……それがわからない限り、“呪いのナイフ仮説”は否定できない。この恐怖を抱えたままじゃ、魔法なんてまともに使えない……)
アーデルは努めて冷静を装った。
恐れは判断を誤らせる――
前世の父が話していた。行動経済学だか認知心理学だか、名前は曖昧だが、内容だけは妙に残っている。
「人間は、恐れているとき、正しい判断ができない。
情報を過剰に読み取ったり、都合よく無視したりする」
アーデルは、それを思い出していた。
だがそれでも、“呪いのナイフ”という言葉が浮かぶたび、胃の奥に冷たい鉛のような感触が沈んでいく。
(パパ、“赤の女王仮説”に“集団別居仮説”――変な名前のばかり覚えてたっけ。『学者は、仮説名にも知恵を絞るんだ。インパクト勝負の世界だぞ』そう言って、楽しそうに笑ってたな)
アーデルは、天井の暗い煤を見つめながら思いを
(……パパ、今の私は、“呪いのナイフ仮説”とか作っちゃったよ)
アーデルはふと、あることに気づき、瞬間、胸がすっと冷える。
今の村は、みな神経を
労働奉仕の配分も、食料の分け方も、ほんの
「決めた通りにやらない」――それだけで、簡単に火がつく。
(……しまった。粗く耕起したこと、報告してなかった。お
加えて、アーデルには別の目的もあった。
“呪いのナイフ仮説”――魔法の代償として体が削れるなら、それを検証しなければならない。
もし数日魔法を使わず、食べて休んで回復するなら、それは「回復可能な疲弊」だ。
けれど、もし戻らなかったら。
それは、不可逆な呪い。
(どれだけ村のためだとしても……呪いで死ぬわけにはいかない。命をかけるのは……今じゃないよ。今はクレープの世界のための第一歩なんだから)
アーデルは立ち上がり、ミーナに声をかけた。
「お母さん、村長に報告と相談してくる」
ミーナは、しゃがんだ姿勢のまま顔を上げた。
「……何を話しに行くの?」
その言い方に、アーデルは一瞬、自分の言葉が足りなかったことを悟る。
「あ、そっか。えっと…… 今日、粗く耕起したけど、それで問題がないかを報告するのと、あと何日か魔法耕起を休んで、様子を見たいって相談」
ミーナは小さくうなずき、火床の灰の中に太めの薪を滑り込ませた。
それはすぐには燃えず、じんわりと熱を蓄え、火を長持ちさせる。
「私も行くわ。……待ってて」
その一言に、アーデルはわずかに肩の力を抜いた。
どこかの誰かではなく、“母”が隣にいるというだけで、世界は少しだけ優しくなった。
*
「この耕起で、『粗く』なのか……」
村長の声には、感嘆とも呆れともつかない響きがあった。
彼の視線の先には、土が確かに粗く、大きな塊が目につく耕起された畑が広がっている。
しかし、その粗さすらも、これまでの村人たちが牛と木のクワで耕してきた畑とは比べ物にならないほど、均一で力強いものだった。
むしろ、この程度の粗さが、最適な状態であることを、村長は経験的に理解していた。
アーデルは、血色だけは良かった。だが、その眼窩はわずかにくぼみ、頬はこけ、どこか影を落としていた。
「はい。これ以上粗くは加減が難しくて、大きな塊ばかりできてしまいます。これ以上の調整は今は無理です」
その言葉に、ミーナはすかさず口を挟んだ。
「村長、この子は文字通り身を削っています。どうかこれで納得してくださいませんか?」
村長は、アーデルの細くなった腕に目をやった。
以前にも増して、彼女の体は華奢になっている。
魔法の力を行使する度に、彼女の肉体から何かが失われていることを、誰もが薄々感じ始めていた。
「私はこれで十分、いや、十分すぎると思う。
だが、他の者がなんというか……」
村人の顔が脳裏に浮かんだ。
彼らの声が聞こえるようだった。
「前の畑の方が細かい」「手抜きじゃないのか」と。
魔法耕起の恩恵に慣れた彼らの「質」に対する要求は、きっと高まるだろう。
降ってきた大きな恩恵は、往々にして人の飽くなき欲望を刺激する。
かつては手作業で得ていたわずかな収穫でさえありがたかったはずなのに、魔法という未知の力がもたらす豊かさは、彼らの期待値を天井知らずに押し上げていた。
「そこを村長の力で納得させてもらえませんか? 加減しないと消耗が早く、この子が死んでしまいます」
ミーナの切迫した声が、村長の胸に突き刺さった。
ヴァルトの娘であり、ミーナの愛しい子であり、そしてこの村に光をもたらした希望だ。
彼が村長として最も重んじるのは、村の存続と民の生活の安定である。
そのためにアーデルの力が不可欠である一方で、彼女の犠牲の上に成り立つ繁栄が、いつか村に災いをもたらすのではないかという倫理的な葛藤が、常に彼の心を苛んでいた。
村長は深く息を吐き、決意を固めたように言った。
その視線は、ミーナの不安な瞳と、その奥に見えるアーデルの消耗しきった姿をまっすぐに捉えている。
「みなが奉仕から戻ったら一番に話そう。…それで、相談とは?」
アーデルは、不安げに揺れるミーナの視線から逃れるように、顔を上げた。
「はい、実は私、自分のことがよくわかっていないんです」
村長は眉をひそめた。
その言葉の意図を測りかねている。
「何がだ?」
「自分の魔法のことです。使い方は掴んできましたが、魔法で痩せ続けるこの体が、食べて回復できるのか、それとも戻らないのか。それすらわかりません」
その告白は、村長にとって青天の霹靂だった。
「なんと。最初に、食べれば戻ると、そう言っていたはずだが、違ったのか?」
村長の驚きは、偽りのないものだった。
これまで、アーデルが魔法の代償として食料を必要とする、と説明され、村人はそのために食料を供出してきた。
それは、強大な魔法という力に対する、唯一の論理的な説明であり、村人がこの新しい秩序を受け入れるための重要な前提だった。
その前提が崩れるとなれば、村の秩序が再び揺らぎかねない。
もし食料が代償ではないとすれば、アーデルの肉体は一体何によって消耗しているのか。
悪霊にとりつかれているのか、魂を削っているのか。
そして、その消耗はどこまで続くのか。
不可解な現象は、時に人々の間に不安と不信を生み出す。
それは、魔法の恩恵を享受してきた村人たちの、根源的な恐怖を呼び覚ます可能性を秘めていた。
アーデルは、ゆっくりと首を横に振った。
その顔色は相変わらず優れない。
「始めはただの痩せかと思いました。ですが、無理して食べても、魔法を使い続けているので、痩せる原因がわからないんです。魔法を使わず食べ続けて、体が戻るなら、今後も魔法耕起を続けられます。もし、戻らないと……」
言葉の先には、残酷な現実が横たわっていた。
彼女の口から語られるのは、過剰な労働奉仕のための耕起問題に留まらない、命の危機を示唆する可能性だった。
「魔法を続ければ、死ぬ。使わなくても、一生その体か……」
村長は、その言葉の重みに顔を曇らせた。
彼の脳裏には、魔法の恩恵に沸く村人の笑顔と、その裏で静かに命を削るアーデルの姿が交互に浮かぶ。
村の繁栄と一人の命の天秤は、あまりにも重い問いだった。
ミーナは、アーデルの手をぎゅっと握りしめた。
その手には、娘への深い愛情と、言い知れない恐怖が込められている。
「村長、この子は最後まで村のためにやり遂げようとしています。ですが、この子の……命と引換えにはできません。どうかわかってください」
ミーナの目には涙が滲んでいた。
母親として、これ以上娘を危険に晒すことなど、考えられなかった。
親にとって、子の命ほど尊いものはない。
魔法がもたらす豊かさも、目の前の娘の衰弱には遠く及ばないのだ。
村長は、力強く頷いた。
その決意は揺るがない。
「もちろんだ。さっそくそれも話しておこう。アーデルはその場にいてほしいが、どうか?」
ミーナはハッと顔を上げた。
その提案は、彼女にとって予想外だった。
「でも村長、この子は……」
村人たちの貪欲さや、時には冷酷な一面をミーナは知っている。
病に倒れた者に背を向けた村人たちの姿が、彼女の脳裏をよぎった。
魔法が使えないと分かれば、あるいは魔法の代償に命の危険が伴うと知れば、彼らがどんな反応をするか想像もつかない。
感謝の念よりも、利己的な要求が勝る可能性を、彼女は何度も見てきたのだ。
しかし、アーデルはミーナの腕をそっと振りほどき、まっすぐ村長の目を見つめた。
「出ます。説明すれば、みんな納得してくれます」
その瞳には、不安の色はあれど、強い意志が宿っていた。
彼女は、村人たちの理解を信じようとしていた。
あるいは、自らの命を賭してでも、この問題に正面から向き合う覚悟を決めていたのかもしれない。
ミーナは、娘の強さに驚きながらも、不安を隠せない。
母親として、彼女は娘の安寧を最優先する。
本当は命をかけて止めさせたかった。
だが、娘が変わっていくように、自分も変わらなければならない、そうミーナは思えてきた。
今は、アーデルの意思を確認することしかできなかった。
「大丈夫なの? きっと、わかってくれない人もいるわ」
アーデルは、ミーナにそっと微笑みかけた。
その笑顔は、ミーナとヴァルトに対する、深い慈愛と信頼に満ちていた。
「その時は、お母さんとお父さんで守ってくれるでしょ」
ミーナの心に、温かいものが込み上げた。
この子は、こんなにも強くなった。
そして、私たちを信じている。
娘のその言葉は、何よりも彼女の心を強く揺さぶった。
「そうね。家族でがんばりましょう」
ミーナは、アーデルの手を再び握りしめ、力強く頷いた。
昼下がりの温かい空気の中、二人の間には、固い絆と、これから訪れるであろう嵐に立ち向かう決意が満ちていた。
それは、単なる話し合いではなく、村の未来、そしてアーデル自身の運命を左右する、避けられない対峙の始まりだった。
*
夕暮れ、奉仕から大勢の村人たちが戻ってきた。
貢献麦の評価は、村一番の関心事だ。
乳児の面倒を見ている子どもまでもが、査定を一目見ようと広場に集まり、まるで村祭のような賑わいを見せていた。
しかしその日は、村長がいつものように麦の皿を並べることはなかった。
共用倉の扉も閉じられたまま、村長はその前にすら立たなかった。
――何かが違う。
村人たちは言い知れぬ違和感を覚えながら、互いに顔を見交わした。
村長は広場の中央に立っていた。
その隣には、アーデル、ミーナ、そして奉仕から戻ったばかりのヴァルトの姿があった。
アーデルは、淡い栗色の粗い麻布のチュニックを身にまとい、その細い身体をかろうじて包んでいた。
だが、痩せ細った輪郭は隠しきれず、腕や首元に浮き出た骨の影が、否応なく人々の視線を引き寄せた。
チュニックの下には、腰巻きのように大きな布が巻かれている。
村長が一歩前に出た。
その声は低く抑えられていたが、広場全体によく響いた。
「皆の者、静まれ!」
空気が一瞬で張りつめる。
ざわめきが止み、村人たちの視線が一斉に村長に注がれる。
「今日は、村のこれからに関わる、大切な話がある。アーデルと、その家族からだ」
言葉を区切るようにして、村長はアーデルの肩にそっと目をやった。
アーデルが前に出る。
わずかに膝が震えていたが、声は思ったよりもしっかりしていた。
「……これまで、私の魔法で畑を耕してきました。皆さんの力になれたのなら、それだけで、私は幸せです」
静かな頷きが広がった。
だが、次の言葉が告げられた瞬間、空気が一変する。
「ですが……これからしばらく、魔法をお休みさせていただきたいと思っています」
沈黙の刹那の後、ざわめきが広がった。
「なんだと?」
「いまさら何を言い出してんだ?」
「ふざけてるのか?」
レオンが眉を吊り上げ、アンドレが一歩前に出かけた。
群衆がざわつき、空気がにわかに揺れ始める。
そのとき、アーデルの声が鋭く響いた。
「――何かを言う前に、まず、これを見てください!」
彼女は背を向けた。
ミーナがそっと、チュニックの裾をめくり上げる。
下着は腰巻きで隠されていたが、それでも十分すぎるほどだった。
脇の下までめくり上げられたその背中を見た瞬間、誰もが息を呑んだ。
日の入り直前の斜陽が、その痩せた背を際立たせるように差し込み、骨の陰影が鋭く刻まれる。
肩甲骨は高く突き立ち、背中の皮膚は張りつめた紙のように薄く、光を受けてわずかに透けていた。
背骨はくっきりと並び、肋骨の輪郭が浮き出るように滲み出す。
それは、幼い少女の身体というにはあまりにも痛ましい姿だった。
今にも風が吹けば、まるで朽ちかけた木片のように砕けてしまいそうな、脆さを感じさせた。
(とほほ……チーズ食べ歩きの次は、今度はストリップかあ……でも、先に見せておかないと。誰かが怒鳴ったら、もう何も届かなくなる)
あのときの貢献くじが脳裏をよぎる。我先に憶測が飛び交い、誰の言葉も意味を失っていった。
(一度言っちゃうと、人って自分の言葉に縛られちゃうんだよね。たとえ間違ってても、あとから理屈をつけて、自分を正当化しちゃう)
冷たい風が、素肌に直接あたった。
(――炎上対策にしては、ちょっと重すぎる自己犠牲だよ。)
内心の声が、わずかに揺れていた。
「……」
「……こんなにも……」
誰かがぽつりとつぶやく。
アンドレは顔を蒼白にし、カスパの皮肉な笑みも消えていた。
広場を沈黙が包み込む。
「うちのばぁちゃんよりひでぇ……」
村道に一番近い家の男が呟いた。
ほぼすべての村人が集まり、遅れて来た者は人垣の隙間から身を乗り出していた。
そして彼らもまた、アーデルの痩せこけた背を目にし、同じように言葉を失った。
ミーナは村人たちの反応を一瞥し、そっとチュニックを戻した。
アーデルは、静かに振り向く。
細い身体ながら、堂々とした立ち姿だった。
「ご存知の通り、魔法を使うたびに、私の体は痩せていきます。始めは、食べれば戻ると思っていました。でも、違ったんです。いくら食べても、どんどん痩せていって……。このままでは、命に関わるかもしれません」
彼女の声は震えていなかった。
ただ、静かに、真実を告げていた。
「だから、少しだけ時間をください。魔法を使わずに過ごして、体が回復するのかどうか、それを確かめたいんです」
ミーナが前に出る。
その声はかすかに震えていたが、その目には迷いがなかった。
「この子は……自分の命を削って、皆さんのために尽くしてきました。もうこれ以上、あの子の骨が細くなるのを見るのは、母親には耐えられません……どうか、お願いします」
その言葉の終わりには、涙が頬を伝っていた。
ヴァルトは無言のまま、アーデルの肩に手を置いた。
その手の重さが、全てを物語っていた。
アーデルは続ける。
「畑のこともお伝えしなければなりません。がんばって食べて、回復に努めます。でも、以前のように細かく耕すことは、もうできないかもしれません」
村人たちは、誰も声を発さなかった。
目の前の少女の姿を見て、冷たい言葉を投げることなど、もはやできなかった。
「それでも、麦がきちんと育つように耕し続けます。最後まで責任を果たします。どうか、数日だけ見守ってください。そして、私が再び耕起を再開するところを見てから、判断してください」
そのとき、村長が口を開いた。
声は重く、揺るぎなかった。
「……私も、アーデルの訴えを重く受け止める。皆も知っているはずだ、彼女がどれだけ村のために尽くしてきたかを。このまま魔法を使わせ続ければ、彼女の命が尽きるかもしれん。私は、そのような犠牲を、村の名のもとに強いるつもりはない」
その言葉に、レオンが一歩前に出た。
「……そうだ。アーデルは、何の見返りも求めず、村を助けてきた」
声には、怒りでもなく、同情でもなく、ただ素直な決意がこもっていた。
「今こそ、俺たちが彼女を守る番じゃないか。この問題を、彼女一人に背負わせるわけにはいかない。皆で考えるべきだ」
静寂が広がった。
誰もが顔を見合わせる中、やがて一人が、静かに頷いた。
次いで二人、三人と、連鎖のように。
アーデルはその様子を見つめながら、心の中でミーナの言葉を反芻していた。
『わかってくれない人も、きっといる』
(でも――)
アーデルは、ミーナの深い優しさも知っている。
誰かの共感を強制しないその言葉は、拒絶ではない。
理解されなくても歩み続けるための、静かで力強い意思だった。
諦めることと、希望を手放すことは、まったく違う。
ミーナは、それを行動で教えてくれていた。
アーデルとミーナは、皆に見送られながら、静かに家へと歩を進めた。
人混みは自然に割れ、それぞれの仕方で、アーデルに祈りが捧げられた。
彼女の背には、敬意と畏れが入り混じるまなざしが注がれていた。
マティアスは静かに膝をつき、イルゼは目を潤ませた。
村長とレオンは胸に手を当て、それぞれの責任を胸に刻んだ。
アンドレとカスパは列の外に立ち、無言で背を見つめていた。
ヨハンは、誇らしげな表情でその後ろ姿を見送っていた。
多くの者が、アーデルの背に、見えない“重環”を重ねていた。
それは、救われたという安堵と、代わりに背負わせたという罪責とが、静かに混ざったまなざしだった。
そしてアーデルは、説得が炎上せず、計画通りに済んだことに胸をなでおろしていた。
自分の背に、人々が何を投影しはじめているのかには、まだ気づいていなかった。
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