第10話 貢献麦制度と貨幣化
魔法耕起の初日、数刻で一世帯分の畑を終えたアーデルは、家に戻った。
道すがら礼を言われたり、祈られたりと、なんとも気恥ずかしい。
自分が慣れるのか、村人が慣れるのか、それすら分からない。
ただ、個人としての生活に戻りたい。
神でも精霊でもない、どこかの力にそっと祈った。
*
家に戻ると、
洗練されていないその味は、いかに貴重であっても、食べ物で満たされた腹には訴えかけてこなかった。
(チーズもバターも、くれた人には悪いけど……動物園のベンチで賞味期限を疑う脂をかじってる感じ……味覚が死んじゃいそう)
バターは少し塩を加えた発酵風味のもので、冷暗所で数日もたせているのだろう。
ハードチーズは削って食べる高価なもので、塩気と酸味が強く、
(うーん、何か、もっとこう……食べやすくできないかな。飽きたってことは、やっぱり
アーデルはパンの
(パンも……みんな歯が特別丈夫なの? 酸味もすごいし、これ焼き立てだとそれなりに
アーデルは硬いまま食べたり、スープに浸してからバターを塗ったりと、美味しく食べる方法を少しずつ工夫していた。
(ジャガイモを蒸して、バターやチーズを溶かして……ああ、それなら食べられるかも。この異世界でジャガイモだけが
意外なことに、欧州で「蒸し」は現代でも一般的な調理法ではない。
伝統的に、パンやプディング、特定のソーセージを蒸す料理は存在したが、主流ではなく、地域に限定されていたのだ。
前世では、蒸し料理は健康志向で素材の味を
この時代に、蒸し料理という発想そのものが、すでにはるか未来のものであった。
(『赤ちゃんのため』どころか、村のために暴食してるとはね……とんだマリア様だよ。しかしなかなか太ら……いや、体型が戻らないなー)
味に敏感なことを“贅沢”と一蹴できれば楽だが、それでは人の体は持たない。
とくにアーデルは、自分ではなく村のために食べる必要があった。
(お
「あらアーデル、おかえりなさい。畑は終わったみたいね」
ミーナが戻ってきた。
原則的に火の番は女性か子どもの係。
いずれ戻ることはアーデルもわかっていた。
ミーナはやりかけていた糸紡ぎを始めた。
糸紡ぎとは、比喩としても現実としても『時間の結晶』だった。
たしかに腕も必要だが、それ以上に求められるのは、終わりの見えない反復への忍耐だ。
家族
熟練の手でも、服一着分の糸を整えるには、農閑期をまるまる費やすほどの根気が要った。
ましてそれを市場に出すには、家族分とは別に、さらに長い時間と労働が求められた。
羊毛や亜麻を用いた紡績は、農村の女性たちが日々、畑と台所の合間に黙々と続ける作業だった。
糸を売るとは、単に物を売るのではない。
自分の余剰時間──すなわち、『時間の結晶』を売るということだ。
アーデルは、その静かで単調な作業をじっと見つめた。
前世では、スイッチ一つで繊維が紡がれ、機械が織り、工場が一日に何百着も服を生み出していた。
その効率から見れば、いま目の前にあるこの糸は、あまりに遅く、非効率で、
(これじゃあ、新しい服なんてめったに手に入らないわけだ。今着てる服だって、何度も繕って、何年も着回してるんだろうな……産業革命か。そりゃ、機械に職を奪われたら、職人は壊したくもなるよね)
だが、アーデルは誤解していた。
自動化された紡績は、産業革命を象徴する蒸気機関よりも前──水力によって既に始まっていたのだ。
「壊したくなるのも当然だ」という理解も、表面的だった。
彼女は『機械というライバルが現れたから』と解釈していた。
ラッダイト運動――イギリスで起こった機械打ちこわし。
これは、機械の出現そのものへの反発ではなかった。
水力紡績機は河川を埋め尽くし、家庭での手作業に頼っていた紡績を、集約化し、大量生産へと変えた。
さらに蒸気機関の登場は、そうした工場群を水辺から解放し、動力の立地制約をなくす。
都市や内陸部へと生産が拡張されていくなかで、職人の手技は価値を失い、
糸と布は“時間の結晶”ではなく、“単なる品物”へと変貌していった。
職人たちの感情は、機械という存在そのものへの怒りではない。
その先に起きた社会構造の劇的な変化と、そこに取り残された人々の深い痛みに根ざしていたのだ。
──そして、その“社会構造の劇的な変化”を、まさに今、アーデル自身がこの村で起こしつつある。
魔法耕起という非対称な生産力は、村の長年の均衡を
小さな共同体にとっては、あまりに大きすぎる変化だった。
彼女の魔法は、単なる便利な道具ではない。
村の秩序そのものを、根底から再編しうる力だった。
アーデルの魔法は、あまりにも
(あーもう。あの便利そうなガンジーの糸車はすぐに思い出せるのに……中の構造なんて、ちゃんと見たことないよ……。お母さんにプレゼントしてあげたいのにー)
アーデルは皮肉にも、ガンジーの糸車が、機械で紡がれた“品物”に
糸を紡ぐミーナの手作業と、世界を変える力を蓄えるアーデルの食事は、同じ時間を共有していた。
*
労働奉仕の朝、リヴィナ村の村人たちは修道院へ向かった。
アーデルの魔法耕起に負けじと、彼らの間には不思議な熱気が満ちていた。
まず、修道院の南斜面の痩せた畑で作業が始まった。
昨年流出した表土を
皮手袋もない手で
畑の一角では、修道院の菜園区画の補修が行われた。
乾燥させたクルミやカエデの材から選ばれた
無駄のない連携で作業は進んだ。
修道院の外壁南端では、小屋の修繕が始まっていた。
若い女たちが
粘土と湿らせた
日差しが傾く頃には、壁のひびは目立たなくなり、見違えるほど滑らかに仕上がっていた。
昼食時、修道士から雑穀
労働奉仕者たちは手を洗い、日陰で静かに食事を
午後には、北側の排水溝の泥抜きが行われた。
長い棒で水路の詰まりを突き、掘り起こした泥は畑の堆肥場へ運ばれた。
日が傾き、影が長くなった頃、労働奉仕は完了した。
畑は耕され柔らかくなり、屋根は新しくなり、外壁には厚みが戻っていた。
これらは直接の収穫ではないが、
何世代にもわたり受け継がれるこの「奉仕」の習わしには、労働という形を借りた互助の精神と、領主の下にある共同体の一体感が確かに存在していた。
*
リヴィナ村の夕刻、共用倉の前では、村長が“貢献麦”の入った
既に村内の女や子どもたちは、囲むように集まりかけている。
労働奉仕に出ていた者たちは、帰るなり、各家の代表に今日一日何をしたかを報告し合った。
そして代表者たちは、順に村長の前へと歩み出てくる。
──査定の時間だった。
アーデルはそこに姿を見せなかった。
これは彼女自身の判断ではなく、ヴァルトの指示によるものである。
「顔を出せば、どんな形であれ火種になる。なるべく波風は立てないほうがいい」
言い方は穏やかだったが、アーデルはすでにこの村の均衡を揺るがす存在になりかけていた。
制度が始まったばかりのこの場に現れれば、「公平」という看板が倒れ、アーデルを押し潰す危険がある──ヴァルトはそれを恐れていた。
ヴァルトだけが場に現れた。
彼の畑は、すでにアーデルによって耕されている。
つまり、彼の家は今日の貢献麦を必要としていなかった。
だが、それでもヴァルトは、査定に参加するのも、同様に「村の一員」として当然のことと考えて列に加わっていた。
最初に口を開いたのは、西の中程に住む男だった。
顔と両腕に
鍬を立てかけ、姿勢を正すと、やや鼻にかかった声で語り始めた。
「うちでは今日、修道院の畑に出ました。俺が鍬で南の区画を五列分返して、馬糞の肥も撒きました。見ていた修道士が数えていたと思います。それと、下の子が
村長は黙って
「午後には、俺が排水路の泥を抜きました。水路は三尺。三度、脚を水に沈めて詰まりを取りました。
小さな笑いが起こった。
だが、それは皮肉でも冷笑でもない。
場を和ませる、必要な揺らぎだった。
村長は無言で壺の中から麦をひとつまみ取り、男の差し出した木皿に落とす。
その手つきは速くも遅くもなく、まるで測るように。
「……次」
次に出てきたのは、背の高い中年の男だった。
足取りはやや重かったが、肩を張って鍬を支え、木皿を前に出してからゆっくりと語り始めた。
「うちでは、俺が修道院の南の畑に――」
村長は報告をしっかり聞き、うなずくように目を細めた。
「――薪をまとめて持っていったのと、肥桶を一度だけ手伝ってます。以上です」
口調は淡々としていたが、言葉の選び方には丁寧さがあった。
村長は短く頷くと、壺の中から麦をひとつまみ──いや、ほんの少し多めに取り、男の木皿へ落とした。
その静かな“報酬”を受け取りながら、男は深く頭を下げた。
男が戻ると、次に出てきたのは、鼻先まで
「うちはな、朝は鐘が鳴る前から納屋の掃除。娘が道具の手入れして、私が薪をくべた。火の番もした。昼には修道院の外壁の泥詰め、泥は自分の家から運んだやつだよ。終わった後は、祈りもちゃんと唱えて帰ったよ」
語調は妙に張りがあり、周囲の視線がわずかに揺れる。
だが村長は無言で麦を落とした。
量は先ほどよりやや少なめ。
女の背筋がわずかにこわばった。
続いて出てきたのは、顔に泥がついたままの若者。
勢いよく一歩前へ出ると、大声で語り始めた。
「今日、俺んとこは家族総出でやりました!朝イチで小屋の修繕、屋根に登ったのは弟ですけど、藁束を持ち上げたのは俺です。あと、北の排水路の詰まりを取ったのは、たぶん俺が一番早かったと思います。修道士の一人が『よくやった』って言ってたし!」
木皿を差し出す手が期待に満ちていた。
村長は一拍おき、目を伏せたまま麦を二つまみを落とした。
若者の顔に笑みがこぼれた。
……次の男が出ようとしたとき、列の後方から声が飛んだ。
「おい、その屋根、登ったのはうちの
その声に場が静まる。
言われた男は顔をしかめて振り返る。
「いや、弟が──」と口を開いたが、周囲の視線はすでに険しかった。
「……わたしも見た。あんた、藁束、落としただけじゃないか」「修道士も怒ってたぞ。支えが弱いって」
小さなざわめきが広がる。
村長は壺の麦に手をかけながら、しばし沈黙した。
そして、声を荒げることなく、若者の皿から麦をひとつまみ、皿に戻した。
一方で、伝説の勇者の武勇伝のように声高に語る者もいた。
「修道士が驚いていた」「自分の段だけ土の返りが違った」と、裏づけも曖昧なまま誇らしげに語り、皿を堂々と差し出す。
村長は眉をひそめながらも、一定の麦を与えた。
またある者は、
やがて、作業の真偽よりも、話の巧拙が評価を左右し始めた。
発言の多寡と、口調の確かさが“貢献”とみなされる。
報告は、労働の証明ではなく、演技と説得の場へと変わっていった。
その流れに一石を投じたのは、カスパだった。
何かとゆるい男であったが、この日ばかりは、真っすぐに前へ出た。
「自分は、北の排水路で泥を
周囲がざわつく。
「本当か? 誰も見てないだろ」
だが、カスパは揺るがなかった。
「神は常に見ておられる。それで俺は十分だ。……それに、これを見てくれ」
彼はそう言って、足元を指さした。
すねから足先まで、乾いた泥が厚くこびりついていた。
村長はしばらく黙し、やがて口を開いた。
「うむ。見られずとも泥に
そう言って、三
村人たちはどよめいた。
それは、「語らずとも誠は通じる」という希望と、「語らなければ伝わらない」という現実が、同時に突きつけられた瞬間だった。
この一件を境に、報告の様式は再び変化する。
「見られていなかったが──」という前置きが増え、
“奉仕の陰の部分”をいかに説得力ある形で語るかが、麦の量を左右するようになっていった。
評価の基準は、すでに曖昧な地平へと足を踏み入れていた。
ついに熱狂する弁論大会は最後の一人を終え、貢献麦の評価は終了した。
やがて
大きな木皿の中で一つだけの、素焼きの小皿には、麦がこんもりと山をなし──カスパのものだった。
明日の魔法耕起の恩寵は、彼に与えられることとなった。
まばらな拍手が起き、カスパはそれに軽く手を挙げて応じた。
そして皆の視線が集まる中、彼は一歩前に出て語りはじめた。
「みんな、ありがとう。そして、初めての貢献麦配布も、これで一区切りだ」
カスパは、勝利者としての高揚感をわずかに抑え、集まった村人たちに語りかけた。
広場に満ちるざわめきが、彼の言葉とともに少しずつ鎮まっていく。
一拍置いて、彼は静かに、しかし確信に満ちた声で続ける。
「──だが、正直に言って、今日の配分にムラがあったとは思わないか?」
その問いは、村人たちの心に澱のように溜まっていた不満を正確に突いた。
どこからともなく、誰かが小さくうなずく気配が広がる。
数人が目を伏せ、また誰かが隣の者の顔を不安げに見た。
今日の査定が、実態よりも口のうまさに左右されたという不公平感は、誰もが感じていたことだった。
「そう。俺もそう思った。だから提案だ。明日からは、どんな作業も必ず二人一組でやらないか?」
カスパの提案に、場の空気が一変した。
ざわめきが大きくなり、村人たちの間に期待と戸惑いが入り混じった視線が交錯する。
「互いが証人になるんだ。そうすれば、今日みたいに“言ったもん勝ち”にはならない。誰も損をしない。公平になる」
彼は「公平」という村人たちが最も強く望む言葉を、高らかに掲げた。
アンドレが、その場で唯一、反論の声を上げた。
「カスパ、一人で奉仕しても神が見ておられるのではなかったのか?」
その言葉は、カスパが自身の弁舌で麦を多く得た際の言葉をなぞる、皮肉な問いだった。
カスパはアンドレの言葉を涼しく受け流した。
「もちろんその通り。だが、神に不敬を承知で言うが、村長は神の代弁者じゃあない。だから配分にムラが出た」
彼はあくまで論理的に、そして冷徹に、村長の判断の限界を指摘した。
しばしの沈黙が場を支配した。
カスパの言葉の重さに、誰も反論の声を上げることができなかった。
アンドレもまた、言葉に詰まり、反論の糸口を見つけられずにいた。
彼の言葉は、村人たちの心に根付く不満を代弁し、新たな秩序への願望を刺激する、あまりにも強力なものだった。
カスパの言葉は、すでに空気の流れとしてそこにあり、それに抗う者はいなかった。
カスパの言葉に、一瞬の沈黙が訪れた。
確かに、誰もが今日の評価の曖昧さに不満を感じていた。
巧みな弁舌が、実際の労働以上の麦をもたらす不公平さを目の当たりにしたばかりだ。
ペアで働くというのは、その「見える化」を徹底する、もっともシンプルな解決策のように聞こえた。
しかし、同時に、胸の奥に小さな違和感が広がった。
これまで、村の仕事は、それぞれの家族の都合や、その日の体調、あるいは単なる習慣によって柔軟に決められてきた。
畑仕事の合間に、病気の隣人の代わりに井戸水を汲んでやる。
急な雨に、たまたま近くにいた者が共同倉の戸を閉めに行く。
それは、誰が見ているからでも、誰かに評価されるからでもない、ごく自然な助け合いの形だった。
明日からは、それが変わるのだろうか。
「ペア、か……」
誰かがぽつりと呟いた。
それは賛同というより、新しい規則の重さを測るような響きだった。
慣れない束縛に、少しばかりの戸惑いと、監視されるような息苦しさを感じた者もいた。
自分のペースで黙々と仕事をこなす寡黙な者たちは、誰かと常に一緒に行動することに、わずかな抵抗を覚えた。
しかしそれ以上に、不公平に対する憤り、そして「公平」という言葉の魅力は大きかった。
「……確かに、その方が、もめ事も減るだろうな」
年長の男が、諦めにも似た声で言った。
彼の言葉は、多くの村人の本音を代弁していた。
誰もが、今日の若者の嘘や、言葉巧みに麦を得ようとする者たちの振る舞いを好ましくは思っていなかった。
公平性は、誰もが望むものだ。
たとえ、それが自分たちの自由をわずかに削るものであっても、目先の不公平を解消できるのであれば、受け入れるしかない。
カスパは、勝利を確信したかのように、真っすぐに胸を張った。
彼の視線は村長の目に釘付けになっていた。
これまでの議論で積み重なった村人たちの不満、そして「公平」という言葉の持つ強い響きが、彼の背後を押し上げているかのようだった。
「異論は、ないですよね?」
カスパの声には、単なる問いかけ以上の、有無を言わせぬ強い意志があった。
「貢献麦」の混乱に揺れる空気全体を貫き、それは唯一の収束の道を指し示していた。
村長は口を開きかけ、だが言葉を失った。
周囲を見渡せば、ほとんどの村人が黙ってカスパに同調していた。
この場で反対すれば、ただ一人の“悪役”になる。
村長は小さく、しかしはっきりと頷いた。
それが、この空気のなかで許された、唯一の答えだった。
こうして、カスパの提案は、満場一致ではないにせよ、異論なく受け入れられた。
その合意は、熱狂でも納得でもなく、むしろ諦念と、静かな服従に満ちていた。
人々は漠然とした違和感を抱えたまま、言葉にできぬまま、その場を離れた。
「──カスパこそ、見張られるべきだったのではないか?」
そんな疑念が誰かの胸をよぎったが、村はすでに夜の帳と、カスパの弁舌に包まれていた。
*
翌朝、村を包む張り詰めた空気の中、供出食料のくじ引きが始まった。
前日の「魔法耕起」による恩寵の再演を期待して、村人たちは誰もが滞りなく手を伸ばし、自らの運命を決定するくじを引いた。
選ばれたのは、水桶の大きい北の家、村の西奥に位置する家、そして南手前の家──
いずれも比較的広い畑を持ち、貢献の余力があると見られていた家々だった。
村の記録係であるレオンは、各家の畑の広さを確認しながら、この日の指定供出物「チーズ・干し肉・ジャガイモ」の分担を調整する。
しかし、三軒が供出できる食料の内訳は、チーズが三軒、干し肉が二軒、そしてジャガイモはまさかの零軒だった。
レオンがアーデルの意向を確かめるべく、彼女を呼びに行こうとした、まさにその時だった。
まるで、待っていたかのような絶妙な間合いで、その場を通りがかったカスパが、にやりと笑って口を挟んだ。
「おいおい。毎回アーデルを叩き起こして『本日のお献立はこちらでよろしいでしょうか? 』って聞くのか? まるでお姫様の御膳係だな」
周囲に小さな笑いが起こる。カスパはさらに続けた。
「会議で決まったろ。“なければ麦で買って用意”だ。供出なんてのは黙って三種揃えりゃいいんだ。腹持ち、力、満足の三属性。畑の大きい家は、ついでにパンと野菜もつけとけ。それで十分だろ?」
彼の言い方は粗野であったが、その理屈は筋が通っていた。
村人たちは自然科学を知らずとも、経験的に食べ物にはそれぞれ異なる「属性」があることを知っていた。
油分の腹持ち、タンパク質の力、そして消化の良い炭水化物である満足感──ただ腹を満たせばいいというものではないと、彼らは日々の暮らしの中で学んでいたのだ。
しかし、三軒の代表者がジャガイモの残っている家を当たってみると、返ってきたのは**「昨日、売ってしまった」という同じ答えだった。
買い取ったのは、あの老女マルトと、彼女の仲間数人だという。
「供出物の乳製品と干し肉がないの。せめて、ジャガイモを用意しておきたくてね」
と、マルトに懇願され、やむなく麦と引き換えに譲ってしまったというのだ。
慌てて一人がマルト婆の家を訪れ、ジャガイモを売ってもらうよう交渉したが、マルトは首を振った。
「アーデルちゃんの力になるなら本当は分けたいけどねぇ……でも順番がいつか来るでしょう? 心配だから、手放せないのよ」
だが、結局は相場の倍の麦を支払うことで、いくらかのジャガイモを譲ってもらうことができ、なんとか三種の供出物が揃えられた。
その日、アーデルのもとに運ばれたのは、チーズ、干し肉、ジャガイモ──およそ3,000kcal相当の「食事」**だった。
彼女の身体は、いまだ10歳相当の少女のそれである。
一日に摂取できるのは通常1,500kcal程度が限界だった。
つまり、これは「権利」ではなかった。
紛れもない「義務」だったのだ。
アーデルは、村の期待と、一度動き出した制度の慣性によって、生きるために、そして「魔法耕起」という力を出し続けるために、今日も無理をして食べなければならない。
その皿の量は、彼女が自由に選べるものではなかった。
*
アーデルはベッドでだるそうに横たわっていた。
ここ数日、村からの「供出」によって運ばれる大量のチーズ、バター、干し肉を食べ続けているのだ。
胃もたれは激しく、胃液が食道を焼くような不快感が続いていた。
(あー苦しい。食べては寝て、また食べて寝る。体はだるいのに、胃腸だけは24時間営業で働き詰めだよ。運動しなきゃって思うけど、運動したらせっかく摂取したカロリーが減っちゃうし……)
夜、特にすることもなかったアーデルは、ぬるいスープに浸したパンを食べながら、ぼんやりと火の番をしていた。
夜明け前に起きたミーナと代わり、今はミーナが糸紡ぎをしながら、火の番を交代してくれている。
(魔法を使うと、「満腹なのに空腹」って変な感覚になるんだよね。「ガリで満腹で空腹」ってなんだよもう……)
アーデルは、体内で懸命に働く胃腸の努力を感じながら、思考を巡らせた。
この終わりの見えない食料の「義務」と、それに伴う身体の不調は、彼女の魔法の根源と、この世界での自身の役割について、新たな問いを投げかけているようだった。
(転生者だからこのくらいのご利益があってもいいけどさ。もっとこう、代償なしにはできなかったの? 吐きそう……けど、みんなの貴重な食べ物だし、そんなの見せられないよ……)
手持ち無沙汰なアーデルは、ベッドで横たわりながら、自分の手首を掴んでその細さを確認した。
それは、早く元の体型に戻りたいという、彼女の切実な願掛けだった。
(細くなってる……)
「細くなってる……お母さん、ちょっと、昨日の私と比べてどう? 太った? 痩せた?」
糸紡ぎしていたミーナは手を止め、ベッドから起きたアーデルの体を見た。
薄暗い朝の光の中、彼女は娘の細い腕、胸元の骨の浮き彫りになったラインをじっと見つめた。
昨日の記憶を懸命に辿り、わずかな変化をも見逃すまいと、その目に意識を集中させる。
言葉にならない沈黙が、重く部屋に落ちた。
「うーん、どっちかしらね。どちらかと言えば……痩せた? もしかして痩せてるの?」
ミーナもまた、アーデルの問いに確信を持てずにいた。
日々の変化を正確に把握する術がないのだ。
「わからない。体重……体の重さとか量れないよね?」
アーデルは、現代では当たり前だった「体重」という概念の不在に、改めて不便さを感じた。
「気にする人もいないし、徴税の麦の収穫量も、きちんと秤にかけるわけじゃないわ。だいたいの量を目で見て判断するから、重さは量らないの」
ミーナの言葉は、この世界の価値基準を端的に示していた。
個人の体型など、日々の暮らしや村の営みにおいて重要な要素ではないのだ。
ここでは、およそ太れる者などおらず、太って健康を害するような考え方も存在しない。
彼らにとって、身体の変化は労働の成果や病の兆候として捉えられるものであり、数値で管理するような対象ではなかった。
アーデルの問いは、現代の価値観と、この世界の農村における身体観のギャップを浮き彫りにしていた。
「なんか測る方法ないかなー。せめて記録……覚えておきたい」
アーデルは焦燥感に駆られていた。
この世界に転生して久しいものの、身体の変化を記録できないもどかしさが募る。
現代では当たり前だった筆記具や正確な計測器が、この世界ではほとんど存在しないのだ。
貴重な羊皮紙は羊一頭分の価値があり、板も高価で、農奴の娘である彼女が手に入れる術はなかった。
彼女が呟くと、ミーナは心配そうな顔で答えた。
「お腹周りはどう? ……ダメね。アーデルはいつも頑張って食べて膨れてるもの」
「そうなの。肩幅とか胸とか……でも胸はもうホネホネだし。骨を測ってもね……」
アーデルの提案は、いずれも現状では曖牲になるものばかりだった。
そんな時、ミーナがふと思いついたように口にした。
「ふとももはどう?」
アーデルの顔がぱっと明るくなった。
「お母さん、それだよ!何か巻き尺……あるわけなーい」
興奮のあまり口走った見慣れない言葉に、ミーナは首を傾げた。
「マキジャク?」
「あ、なんでもない、目印がついた紐のことでバルバロイの言葉。間違えた」
アーデルは咄嗟にごまかしたが、心の中では焦りが募っていた。
(どうしよう。ナポレオンが来るまでメートル法もないよ。っていうかここで単位を聞いたことないよ。ヤーポンだったらどうしよう)
焦るアーデルの思考を遮るように、ミーナがふと思いついたように言った。
「なら普通の紐で太もも周りを測ったらどう? その時の長さでコブを結んだら目印になるんじゃない?」
アーデルの顔がぱっと輝いた。
「それだよ!お母さん天才だよ!」
二人はすぐに道具箱から、ちょうどよさそうな太さの紐を取り出した。
それは、何度も洗って使われた粗い麻紐で、ところどころ繊維がほつれていた。
アーデルはベッドの端に腰掛ける。
ミーナはそっと、その右足の付け根──太ももでいちばん太い部分に、紐をやさしく巻きつけた。
強く締めすぎれば足が圧迫されてしまう。そうなると、正確な測定にはならない。
慎重に重なりを確かめ、ミーナはその位置に、そっと小さなコブを結んだ。
それが、いまのアーデルの太ももの太さを示す、たったひとつの「記録」となった。
「これで、後で比べられるわね」
ミーナは満足げに微笑んだ。
アーデルは、ミーナが結んだコブのある紐を大切そうに見つめた。
これで、体の変化を漠然とした感覚ではなく、具体的な「長さ」として捉えられる。
現代の体重計や巻き尺とは比べようもないが、この世界の道具としては、これ以上の記録方法はないだろう。
彼女の心に、小さな希望の光が灯った。
「今日も魔法耕起始めるけど、食べ物はすぐには吸収されないからたぶん痩せると思う。明日戻っていたらいいなー」
アーデルは、自身が摂取するカロリーと、魔法によって消費されるエネルギーの収支について考えを巡らせた。
(砂糖で回復できるんだ。脂肪だって、消費より補給が多ければ元に戻るはずだ。でも……今まで一度も戻ったことがない……)
藁にもすがる思いで、明日、紐のコブがわずかでも戻っていたなら、この苦しい状況でも希望をつなげることができるかもしれないと願った。
だが、その期待の裏側には、拭い去れない不安が潜んでいた。
(この魔法、もし……もしも回復不能で、体を削り続ける仕組みだったらどうしよう……)
彼女の脳裏に、最悪のシナリオがよぎる。
(普通の代謝なら、脂肪は使用されて、息や汗になって体外に出ていくはずだ。でも、魔法を使ってこれだけ痩せているのに、体温も呼吸も変わらないのはなぜ?)
骨ばった背中に、冷や汗が滲んだ。
(もし、脂肪そのものをどこかに「持って行く」呪いだったら……次は内臓? 骨? まさか、魂まで削られてしまう……?)
アーデルは、魔法が体から脂肪を直接「奪い去る」ような、常識では考えられない仕組みである可能性を恐れた。
彼女の体が削られていく理由が、単なるエネルギー消費によるものなのか、それとも魔法が回復さえ許さない「損耗」という呪いなのか――
紐以外の計測方法がないこの環境で、測る術も、状況から逃れる術も、まだ持ち合わせていなかった。
*
アーデルはレオンからくじの結果を受け、指定された魔法耕起の区画へ向かった。
今日の彼女には、ただ耕す以上の目的があった。
畑、元畑は三圃制で休まされており、位置年ですっかり草地になっている。
これを、牛に鋤を引かせ、刃の先にだけ鉄を打ちつけた木柄のクワで起こしていたのだから、その労力は想像に難くない。
それを魔法耕起で一人でやるのだ。人の30倍以上の速さで。
「カロリーをちゃんと吸収しなきゃ。たぶん……空腹のときって胃腸が頑張ってて、栄養もよく取り込めるはず。血糖を下げておけば、吸収もよくなる……たぶん!」
彼女は経験上の仮説を立て、その知識を自身の魔法と結びつけようと試みていた。
体内にあるという「脂肪」の使用をなるべく控え、血糖の利用を促せれば、これ以上痩せずに効率よく魔法の燃料として取り込めるのではないか。
そのためには、特定の身体状態が必要だと考えていたのだ。
これまで通り、トラクターの刃をイメージした魔力を地面に触れさせる。
普段なら一気に広範囲を深く耕すところを、今日はぐっと回転速度を抑えた。
「小腹が空く手前」の、胃の奥が微かにざわつく程度のエネルギー消費を意識しながら、ゆっくりと大地を反転させていく。
地面を這うように進む魔力の耕起は、普段の1/10以下の速度だ。だが、もったりとした動きに、アーデルは眉をひそめた。
「うーん、回転むずかしい……。慎重になりすぎると全然進まないし、これじゃ夜までかかっちゃう」
彼女は魔力の繊細なバランスに集中する。出力が強すぎると、あっという間に急激な空腹感に襲われる。
それは、すなわち体脂肪が削られるサインだ。そんな状態では、かえって吸収率が悪化するのではと危惧していた。
「また戻ってお腹いっぱい食べなきゃいけないし……。結局、普通の速さで耕すしかないかな」
実験は早々に中断された。理想と現実のギャップに苦笑しながら、アーデルはいつもの魔法耕起の速度へと切り替えた。
見慣れた光景が広がる。魔力の刃は大地を力強く切り裂き、瞬く間に土を盛り上げていく。
効率は良い。だが、彼女が求めていた「最適化」からは遠い気がした。
栄養吸収の最適化──実際には、体の仕組みはもっと複雑で、彼女の仮説は正確とは言いがたかった。
血糖値が下がったからといって、胃や腸が「吸収効率を高める」わけではない。
本来、消化を助けるのは、食べ物をよく噛み、時間をかけて摂ること。
そんな基本的なことを、彼女は知っていたはずだった。
……けれど、この世界に来てからの過酷な日々、自然科学の問いを誰にも投げかけられない孤立が、
その記憶さえも遠ざけてしまっていた。
*
作業を終え家に戻ると、アーデルはミーナに手伝ってもらい、自分の足の太さを測った。
「短い……結び目三つ分……確かに短くなってる……」
紐のコブは、彼女の太ももを示す唯一の“記録”だった。
その位置が、確かに三つもずれていた。
太ももを撫でてみるが、やはり、朝よりもいくらか細くなっている気がした。
嫌な予測が当たった。アーデルの体は、魔法を使った分だけ肉体が削がれるように細くなるのだ。
「アーデル、これは……」
「だ、大丈夫。予想通り。今は魔法を使ったから減っただけ。明日の朝まで食べ物がちゃんと吸収されて、きっと元に戻っているはずだから……!」
彼女は自分に言い聞かせるように、震える声で呟いた。まるで、その言葉が魔法であるかのように。
しかし、心のどこかでは、本当に「元に戻る」のかという漠然とした不安が渦巻いていた。
魔法の呪いが、彼女の体を削り取っていくような、そんな不安を払えずに食べ続けていた。
*
この日の夕方、一日を終えた働き手たちが、ぞろぞろと家路につく。
重かった足取りも、どこか軽やかな響きを帯びていた。
導入初日を迎えた「ペアによる相互監視」という新しい制度は、予想に反して、皆の表情を穏やかなものに変えていた。
誰もが「隣に誰かがいる」という意識のもと、抜け駆けをしようなどという邪な考えは抱かなかった。
むしろ、これまで一人きりで黙々とこなしていた孤独な作業がなくなったことで、互いに声をかけ合い、励まし合ううちに、かえって作業のペースが上がったのだ。
夕焼けに照らされた彼らの顔には、充実感と、そして得体のしれない安堵が滲んでいた。
口々に「これはいい」「悪くない」と、誰もがこの新しい試みに納得していた。
そして、その日の労働奉仕の評価と、貢献麦の配布が始まった。
これもまた、驚くほど穏やかに、そして円滑に進められた。
誰もが自身の働きぶりを証明してくれるパートナーという「証人」を得ており、もし言葉に詰まるようなことがあっても、隣に立つパートナーがすかさず補足してくれた。
情報は自然と補い合われ、村長は滞りなく、ほぼ等しい量の貢献麦を皆に手渡していった。
カスパも、そしてヴァルトも、他の村人たちと同じように自身の働きを申告し、相応の貢献麦を受け取った。
全ての配布が終わり、広場に静寂が戻った頃、レオンが皆の中心に立つ。
「では、明日の魔法耕起を行う畑を選ぶ」
皆の視線が、それぞれの皿に盛られた麦の量に注がれる。
今日の貢献麦の量はほぼ等しい。
だからこそ、昨日の貢献麦の量が、明日の魔法耕起の権利を大きく左右することになる。
前日、カスパの次に多くの麦を得ていたのは、東の納屋付きの家に住む男だった。
村人たちの間では、彼の畑が次に耕されることは、もはや確定事項として認識されていた。
自然と、期待と諦めが混じり合った視線が、その男の皿へと向けられる。
だが、最も多くの麦が盛られていたのは、東の納屋付きの男の皿ではなかった。
そこに置かれていたのは、鶏舎がある家の皿だった。
鶏舎の家の皿には、3日分の量の麦が盛られていた。
「どういうことだ?」
納屋の男が困惑に満ちた声を上げ、広場に集まっていた村人たちの間に、瞬く間にざわめきが広がっていった。
誰もが信じられないといった表情で、その皿を見つめている。
「おい、お前、麦を偽造したんじゃないのか!」
「誰かのを盗んだんだろう!そうに決まっている!」
疑念と非難の声が飛び交い、騒然とした空気が広場を覆った。
その騒ぎの中に、堂々と割って入ったのはカスパだった。
彼は両手を高く掲げ、鋭い視線で村人たちを見回した。
「待ってくれ!そいつは何も不正をしちゃいない!俺が証人だ!この目で見ていたんだから、証明もできる!」
村人たちは一斉にカスパに詰め寄った。
「どうやって証明するんだ!証拠はどこにあるんだ!口先だけなら何とでも言えるだろう!」
当然の質問が、怒気を含んで飛んできた。
カスパの表情は、その非難にも揺るがず、自信に満ち溢れ、誇らしげな笑みを崩さなかった。
彼は手に持った小さな皿を、まるで宝物でも見せつけるかのように高々と掲げ、勝利者のように堂々と振る舞っていた。
その皿を見た村人たちは、はっと息を呑んだ。
そして、あることに気づいた。
「おい、カスパ!お前の貢献麦はどうしたんだ!皿に何も入ってないじゃないか!」
カスパが持っていたのは、確かに貢献麦を受け取るために持参したはずの小さな皿。
だが、その皿には何も盛られていなかったのだ。
カスパはしたり顔で言った。
「ああ、これか? そいつに売ったのさ。もう俺の畑は魔法で耕されている。だから貢献麦は必要ないからな」
「おい、ずるいぞ!そんなのありか!」
当然のように村人たちの間に怒号が響き渡った。
だが、カスパは微塵も動揺せず、冷静に反論した。
「おいおい、何がずるいんだ? 俺は今日も朝から晩まで、しっかり労働奉仕をしたぜ? ちゃんとペアの証人もいる。それで正当に貢献麦をもらって、何が悪い? 俺が頑張った証明なんだぞ」
カスパの言葉は、村人たちの非難を打ち消した。
彼らは、反論の言葉を見つけられず、ただただ言葉に詰まるしかなかった。
「それに、麦は誰かに譲っちゃいけないなんて、誰からも聞いてないはずだろ? この制度で配られる麦は、実質、貨幣と同じじゃないか。それ自体に価値があり、ごまかしも利きにくく、誰もがその価値を認めている。だったら、金と同じように麦を売買して何が悪いんだ? 俺は今日もしっかり仕事をして、貢献麦を受け取った。そして、その麦で買い物をしただけだ。大市に行けば、みんな当たり前にやっていることじゃないか。お前たちだって、あの賑やかな市場で、品物と引き換えに麦がやり取りされているのをこの目で見たはずだ。今、俺はただその真似をしたに過ぎない。以上だ」
カスパの言葉が、広場の空気を重くした。
村人たちは、あまりに唐突な「貢献麦」の価値の変質と、それがもたらす秩序の変化に、ただ立ち尽くし、困惑するしかなかった。
彼らの脳裏には、昨日まで「労働の証」でしかなかった麦が、「交換の道具」へと変貌する光景が、まるで夢のように広がっていた。
村長は、言葉に詰まり、口を半開きにしたまま、カスパを茫然と見つめていた。
その沈黙を破ったのはレオンだった。
「貢献麦は、あくまで労働を可視化したものだ。確かにその努力を認め、評価するためのものだが、決して金ではない。貢献麦の譲渡や売買は、この制度の精神に反する行為だ」
カスパはふっと鼻で笑い、挑むような視線をレオンに向けた。
「ならば、最初にそう言うべきだったんじゃないか? 昨日、半日もかけて決めた制度設計の場で、“譲渡不可”と明文化されていなかった。そもそも、“評価して貢献麦を配る”という目的は達成されている。それなのに、“使用方法”まで細かく縛るというなら、それはもう俺たちの“所有物”ではなく、単なる“支給品”だ。支給品なら、なぜ労働の対価として渡すんだ?」
カスパの事前の理論武装に、レオンは即答できなかった。
ヴァルトが険しい顔で口を挟んだ。
「そんなことをすれば、村にさらなる混乱の元を撒き散らすことになる!」
カスパは涼しい顔で、手のひらをひらひらと振った。
「お前が言うかね。それに混乱じゃない。これは、村の古くからの伝統である『掴み麦』と何ら変わらない。困っている誰かの労をねぎらうため、あるいは何かにつけての感謝のしるしとして、麦を渡し合うのは、村の歴史が始まって以来の習わしじゃないか。ヴァルト、お前もアーデルの魔法で畑は仕上がっているんだから、その感謝のしるしとして、伝統に従って麦を売ってみせろよ」
ヴァルトは怒りを滲ませ、顔を赤くした。
「そんなことをするわけがないだろう!掴み麦とはわけが違う!これは制度を食い物にする行為だ!」
カスパは嘲るように言った。
「お前はアーデルという特別な存在がいるから他人事なんだよ。魔法の恩恵を受けているお前が、まるで高貴な領主様気取りで、平民の知恵に口を出すなよ」
アンドレが憤慨した声で告げた。
「これは、神への奉仕を売買する卑しい行為だ!神のご意思に反する!」
カスパは肩をすくめ、空を見上げた。
「ああ、そうか。じゃあ来月、助祭様が巡回に来たら、直接聞いてみようじゃないか。
神のご意思とやらをね」
村長が、ようやく絞り出すように言った。
「カスパ、お前の考えは誤っている。これは、皆が協力し合うという、村の根幹を揺るがす行為だ」
カスパは顔色一つ変えず、挑発的に問い返した。
「どこが誤っているんです? 制度上、何の問題もないはずだ。
この制度は、村長と寄人会議が半日もかけて、議論に議論を重ねて決めたものでしょう? それなのに、たった一日で、しかも誰かの都合の良い解釈でひっくり返したら、いくら村長でも村人からの信用を失うんじゃないかなあ?」
カスパは、貢献麦が最も多く盛られた皿の主に、ねっとりとした声で問いかけた。
「なぁ、あと少しで魔法耕起してもらえるってのに、今ここで制度が変わって、お前はそれでいいのか? また、いつになるかわからない長い話し合いを待つのか?」
次に多くの麦を持つ男に、彼は視線を移した。
「俺たちの麦だ。俺たちは汗水流して稼いだんだ。それを自由に使えるよな? これは、もはやただの麦じゃない。紛れもなく通貨だ。その通貨を、村の都合で、一方的に没収されるような真似を許せるか? 俺たちは、一体どこまで権力に絞り取られれば気が済むんだ?」
カスパの言葉に、村人の中から「そうだ。このまま続けるべきだ!」という賛同の声が上がった。
「カスパの言う通りだ!もうやり直しはごめんだ!」
「俺達の麦だ!自由にさせろ!」
場の空気は、声の大きいものに支配され、議論はなし崩し的に現状維持へと傾いた。
さっそく、カスパを始めとする耕起が終わった者に、村人は殺到し、食料と貢献麦の交換レートが話し合われ始めた。
ヴァルトのもとにも何人か交渉に訪れたが、彼は一切相手にしなかった。
こうして、本来ならば共に支え合うことを前提とした原始共産制のリヴィナ村は、歪んだ非対称通貨を貨幣として受け入れた。
こうして誰も知らぬうちに、“市場経済”へとその一歩を踏み出していた。
この激しい議論の輪の中に、アーデルの名前が上がることは、一度もなかった。
己の体を削る呪いに恐怖する少女は、その時、ベッドで一人怯えるばかりであった。
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