第12話 理解者と救世主と悪魔

アーデルが広場を去った後、貢献麦の配分は静かに、しかし厳粛に行われた。


今回、すべての貢献麦を買い取った家は、村で最も広い畑を持つ家だった。

カスパらが主導した貢献麦の売買により、その家が魔法耕起権を得た。

アーデルは数日の休養を経て、この家の畑を魔法で耕すことになった。


翌日。

供出された食料は、いつになく豪華だった。

量も多く、栄養価も高い。

アーデルにとっては気が重い面もあるが、体が回復してきているのは事実だった。

今は食べることが必要だと、自分に言い聞かせるしかなかった。


例のジャガイモ問題は、変わらず続いていた。

マルトばあさんはまた売り渋り、相場の四倍という強気な価格を提示した。

だが、供出組が団結し、共同で麦を支払って取引を成立させた。


一方で、生活にも変化があった。

村の余っていた古い鍋を借りることができ、狭い火床の隅にどうにか隙間を見つけて、アーデル専用の煮込み鍋とした 。

村から分けてもらった薪で火を強め、チーズ、にく、ジャガイモなどを柔らかく煮込むことができた 。


スープともおかゆとも言えない、どろりとした濃厚な鍋の香りが立ち込める。

アーデルは自分で考案したこの料理に、やや微妙な表情を浮かべつつも、ゆっくりとさじを口に運んでいた 。


(魔法の消費が脂肪だけでありますように。筋肉まで消費してたら、運動してないから全身脂肪に置き換わっちゃうよ)


その日、ヴァルトとミーナは外出していた。

労働奉仕や種まき、ほかの共同作業にそれぞれ出かけていた。


アーデルの隣にはレオンが座り、アラビア数字による算術の練習に取り組んでいた。

彼は不定期に姿を見せては、アーデルが用意した問題に挑み、時には説明を求めた。

アーデルも、それに応じて解説や新たな出題を行い、やりとりは穏やかに続いていた。


気まずさを感じていたのか、レオンは毎回、かなりの量の麦を持参していた。

アーデルは供出食料があるためそれを食べることはなかったが、その麦はヴァルトやミーナのパンに使われ、確かに役立っていた。


算術用のろう板も、村の倉庫からもう一枚どうにか見つけ出されていた。

今では、アーデルが問題を書いているあいだにレオンが解き、それが終われば板を交換して互いに挑戦し合うという、静かな往復が日課となっていた。


遠征軍にいた時に基礎を学んでいたのか、レオンは四則計算までは難なく習得していた。

あとは演習によって、速度と正確さを磨いていくだけだった。


ただし、単位計算では苦戦していた。


この世界では、距離や重さの単位が村ごとに異なり、繰り上がりも十進法ではなく、十二進、十六すすみ、二十四進と実に気まぐれだった。

一人ひとり日分の麦」「ロバ一頭分の荷重」などの言い回しは、暮らしの目安にはなっても、精密な計算にはまるで向かない。


(……単位って、ちゃんと測れなきゃ意味ないんだけど。これじゃ毎日ルールが変わるボードゲームで算数してるようなもんだよ……)


アーデルは言葉に詰まりながらも、どうにか伝えようと、蝋板に「ロバの絵=麦穂の絵×8」と彫りつけていった。それが、今の彼女にできる唯一の手段だった。


(この絵で伝わってくれればいいけど……わたし、エジプトの石板職人じゃないんだけどな)


アーデルは濃く煮込まれたスープをすすりつつ、蝋板に描いたロバと麦穂の図をなぞり直した。

うまく伝わるかどうか、改めて確認しておきたかったのだ。


「なあ、アーデル。そういえば体の調子はどうだ?」


レオンはふと、アーデルに話すべきことがあったことを思い出した。

正確に言えば、何かを話すべき、とだけ覚えていた。

会話を始めれば思い出すだろう――そう考え、話を切り出した。


「んー? ああ、たぶん……ちょっと回復してるかも」


「ほんとか?」


レオンがわずかに身を乗り出した。

昨日きのうの広場──あの光景は、誰の胸にも重くのしかかっていた。

あれほどアーデルが、自分を削っていたとは。

誰もが気づけなかったのは、彼女が弱音を吐かないせいかもしれない。

だが、その沈黙に甘え、彼女の変化に目を向ける者は少なかった。

皆、自分の畑、自分の作業、自分の都合を押しつけるばかりだった。

彼女がそれを、ただ静かに受け入れていたというのに──。


「朝、ひもで測ったら、脚が少し太くなってた……かも」


「“かも”ってなんだよ」


思わず、レオンは力の抜けた声を漏らした。

村の命運を背負いながらも、彼女はどこか飄々ひょうひょうとしていて、気負いがない。

そういうところが気に入っていた。

大仰な言葉も、押しつけがましい態度もない。

ただ、自分にできることを当たり前のようにやってのける。

それがどれほど難しいことか、誰より彼がよく知っていた。


「“かも”だよ。ここに人の重さを正確に量れるはかりなんてないでしょ。紐で測るしかないの」

アーデルは、うんざりしたように不満を漏らした。

この世界の大雑把な単位の概念にもどかしさを感じていた。


「紐じゃだめなのか?」


「だめじゃないけど、小さな変化はわからないの。

私の……バルバロイの世界じゃ、いつでもどこでも同じ重さが測れる道具があったんだよ」


アーデルは、そう言って、前世の環境がどれほど高度な文明であったかを改めて思い知った。

そして、その文明まで築き上げてきた歴史の歩みも、同時に痛感していた。


「そんなもん、必要か? 人の重さなんて、働けるか、若いか、男か女かくらいで十分だろ。値段だってそれで決まるし」


レオンの言葉は、過去の記憶から自然に漏れたものだった。

遠征軍で見た奴隷たちは、実際そうだった。

命の価値は、使い道で決まる──この世界では、それが“常識”だった。


(値段……やっぱり、人の命が軽い世界なんだ。っていうか、農奴の私たちも、広い意味じゃ奴隷の部類に入るよね、きっと。)


「じゃあさ、私の体が回復してるかどうかって、どうやって判断するの?」


「……それもそうか」


アーデルは、ときどきこういう問いを投げてくる。

それは、まるで何かを“正確に測る”ための道具が、世界のどこかにあると信じている者の言葉だった。


ゼロや小数点のように、「なくても生きていける」が、あった方が確実にいいもの。

アーデルの発想は、いつもその域にあった。

そして、彼にはそれが新鮮だった。


「でしょ。だから単位と小数点、そろそろ覚えてよ。小数が使えないと、説明がめんどくさいの」


(ヤーポン的、というか……いや、それよりもっとひどい。でも──単位って、そもそも、そういうものなのかも。正確さじゃなくて、生活の中で“目安”が必要だったから、生まれたもの。どこかで聞いたな。『羊が一日で食べる草の広さ』って単位。だけど草の生え方が違えば、同じ“面積”でも、実際の意味はまるで変わる。そう考えると──“一頭ぶん”って、案外、合理的……なのかも?)


「小数点か……ほんとに“イチより小さい数”なんて、必要なのか?」


ローマ数字に慣れきったレオンの頭には、小数もゼロも異物だった。

だが、正しく学べる機会など、これまで一度もなかった。

彼は不器用ながら、今、自分なりに必死だった。


「人の重さと一緒。必要だから生まれたの。ゼロも便利でしょ?」


アーデルは聞きかじりの知識でそう言った。だが「ゼロは画期的な発明だ」を知っていても、そのありがたみまでは実感していなかった。

「当たり前」の彼女は、それがない時代のことを本当に理解できていなかった。


「ああ、ゼロは便利だな。東方の商人とやり取りしてたときはさっぱりだったけど……今ならちょっとわかる気がする」


この世界で遠くへ旅するのは、常に命の危険を伴う。生きて戻れるだけでも十分に価値のある経験だった。

その中で見聞きした知識の多くは、自分には扱いきれなかった。だが今、ようやく一つ、それを理解できそうな気がする。

レオンにとって、それは幸運であり、幸福だった。


「私も小数点、あんまり好きじゃないんだけどね。正確にやろうとすると、1より小さい数字が、どんどん増えていくんだよ」


「なんだそれ。増えたら、1より大きくなるんじゃないのか?」


「その辺は後で教える。でも多すぎたら“四捨五入”っていうのを使えばいいの」


(レオンが正直に計算して無理数やりだしたら困る!『1/3を小数点で書くと――』とか計算したら大変なことに。どうやって教えよう)


「聞いたことない言葉だな」


「要するに、整理のしかた。少し足りないおけの水でも、“一杯”って呼ぶでしょ? それが四捨五入」


(今さらっといい例えが出た!たぶん……いい例え)


「それはわかる。……ってことは、その“少し足りない”が小数点か?」


「そうそう。やるじゃん、いい線いってる。あとは早く単位のコツつかんで」


(やっぱりいい例え!私頭いい!……レオンがカンがいいのかな?)


「ああ……って、お前は覚える気ないんだろ?」


「うん。私は単位覚える気ないから。十で区切られてない数字は気持ち悪い」


(そこなんだよね。文字も覚える気ないし。英語とか全然だよ。それでどうやったらクレープの新世界を作るんだよ)


「でも、一年は十二ヶ月だぞ?」


「それは別。あれは……季節の都合だから、しょうがないの。ほら手が止まってる」


その言い回しに、アーデルはふと気づいた。どこかヨハンの口調に似ていた。

気づいた瞬間、口元が緩み、かすかに笑みが浮かんだ。

長い付き合いの相手ではない。

それでも、ヨハンの率直さと柔らかさには、どこか引っかかるものがあった。

制度や常識の枠にとらわれないその発想は、彼女にとって不思議と心地ここちよかった。

何かにまれそうになるたび、彼の言葉が思い出されることがあった。

そのたびに、アーデルはわずかに救われていた。


「ああ、そうだな」


レオンは息をつき、蝋板の問題に視線を戻した。

もともと何か用があって声をかけたはずだった。

けれど、その理由はもう頭の外に出てしまっていた。

思い出せないまま、それでも手は動いた。


*


(そっか、ここでも十二ヶ月なんだ。十二ヶ月……どこも結局、この形に落ち着くんだな。 月の満ち欠けが12回あるし、季節もそれに合わせて動いてる。割りやすいしね)


アーデルは、前世の事務教育で教えられた曖昧な知識を思い出しながら、胃にわずかな空きがあることを感じていた。

スープを数匙、ゆっくりと口に運ぶ。

味に大きな不満はなかったが、喜びを感じるほどではなかった。

「いかに効率よく血肉にするか」だけを基準に調整された、実用本位の“燃料”だった。


(はー、なんとも言えない味。お米があればなぁ……リゾットっぽくして、もう少し気分よく食べられるのに。)


湯気が立ちのぼるわんに、アーデルはまた一匙を運んだ。


(なんか、チーズフォンデュの具材を全部まとめて煮込んだみたいな……鍋の形をした敗戦処理。ゴメンね、私と村の命運のために、こんなドロドロにされて)


彼女は黙って口を動かし、隣ではレオンが蝋板に向かっていた。

蝋を削るかすかな音が、火床を囲む空気に淡く混ざっていた。

それは、いつもの静かな“算術教室”の時間だった。


*


レオンは算術に集中していた。

ときに、思考が枠を越えて、どこか遠い世界へと突き抜けていくように見えた。

その集中の合間に、さっき言いかけていた何かが、ふと心によみがえった。

彼は筆記具の手を止めた。


「なあ、アーデル」


「今度はなにー?」


アーデルは手を止めずに受けこたえた。


「その……すまなかったな。お前がそこまで消耗してたとは思わなかった」


レオンは、ただ謝りたかった。夕陽ゆうひに照らされたアーデルの背には、骨の線がくっきりと浮かんでいた。

あそこまで自分を削っていたのに、誰も気づかなかった。


レオンも、村寄むらよりも、村全体が、自分の畑と都合しか見ていなかった。

アーデルが魔法を使えることを当然と思い、

その力に頼ることにも、何の疑問も抱いていなかった。

そのことが、無性に恥ずかしかった。


「あー、それね。自分でもちょっとビックリした。まさかこんなに痩せるとはね」


アーデルはあっけらかんとしていた。もちろん、体がやせ細ったのは気がかりだった。

でも、それ以上に「やるべきことをやった」気持ちのほうが強かった。

今は、ただひたすら食べている。これまでの人生で経験したことのないような暴食だ。

でも、それで早く元に戻れるなら──それが当然、と思っていた。


「だけど……」


彼女は、自分を追い詰めた状況を誰のせいにもしていなかった。

それがレオンには、ただ静かに重たかった。いまも彼女は、黙々と食べている。

これは義務でも努力でもない。次に備えるために必要な行動を、当たり前のように繰り返しているだけだ。

その姿に、レオンは感謝よりも先に、居たたまれなさを感じていた。


アーデルは匙を止め、器を持つ手を一度膝の上に置いた。

正面を向いたまま、少しだけ目線を落とす。いつもの飄々とした口調から、ほんのわずかに熱が抜けていた。


「やばかったから、こっちから言い出したんだよ。悪いけど、村のために骨だけになる気はないから」


アーデルは、心から率直にそう言った。死ぬつもりはないし、命を削るだけの使い方をする気もなかった。

生きていれば、力は使える。それだけのことだった。

それに、今の彼女にはもうひとつ、ヨハンと交わした新しい目標がある。

その約束が、今の彼女のやる気の根っこにあった。誰もがクレープを食べられる『新しい世界を作る』

そう思えば、村の命運すら──ほんの一歩の通過点に過ぎなかった。


「そうだよな。そんな必要ない。いざとなれな、領主に怒鳴られるだけさ」


レオンは思わず笑った。

アーデルのいさぎよさ、きっぱりとした物言いに、ただ驚くしかなかった。

そんなふうに強大な力を軽やかに使ってくれるなら──たとえうまくいかなくても、誰のせいでもない。

それは、もうそういう運命だったのだと受け止めるしかない。

何かがふっと抜けたような感覚があった。


(怒られるだけ、じゃ済まないよね。農奴だもん。下手したら、“処分”される)


アーデルは筆を置いた。


ようやく気づいた。レオンの笑いは、覚悟の裏返しだった。

年貢も労働奉仕も、村の誰もが怯えていたのは、それが“義務”で済まされないからだ。

罰がある。見せしめがある。黙っていれば、無知なアーデルには伝わらないはずの空気。

それでも彼女は、そこにある緊張の濃さに気づいていた。


「でもね、回復できるってわかれば、あとは算術で調整できるから。大丈夫だよ」


アーデルはそう言いながら、静かに考えていた。無理に覚悟させる必要なんてない。

正直に状況を話して、見通しを伝えればいい──それだけのことだ。

まだ、自分の体が本当に戻るかはわからない。でも、もし回復できるのなら、やり直しはきく。

そう伝えることで、レオンの不安を和らげたかった。


「本当にそうか?」


「うん。ずっと痩せ続けるから呪いかなって思ってた。でも、明日も回復してたら、最初の“食べれば戻る”って考えに戻せる。あとは、カロリー収支の問題」


アーデルは、あえて「回復してたら」と言葉を足した。ほんとは、もっとはっきり言ってあげたかった。

でも、必要以上に楽観させたくなかった。もし自分が倒れたとき、次善の策を忘れられたら──それだけは困る。

楽観はできない。けれど、不安だけを残すのも違う。だから彼女は、慎重な楽観を装って、レオンを励ました。


「カロリー……? “カロル”と関係あるのか? あれは“熱”って意味だが」


未知の言葉に触れ、レオンの思考は過去の記憶を辿った。

重環遠征軍の補給隊で運搬を担っていた彼は、必要に迫られて、ある程度タレン語を読み書きできた。

むしろ、その程度の順応性がなければ、補給隊に居続けることはできなかったろう。

大規模遠征軍において、補給は最重要の柱の一つである。


「かなり近いね。私は“熱量”の単位って思ってる。食べ物から“熱量”が摂れる。魔法も“熱量”で動く。だから、食べた“熱量”と魔法に使った“熱量”が同じなら、体の重さは変わらない」


アーデルは、自身の魔法理論の一端を語った。

だが、すべてを明かしたわけではない。

自分の魔力が、他者とは明らかに異なること――

そして、もし誰もがその力を持てば、抑制を失うだろうという懸念が、彼女の口を閉ざさせた。


「そういや会議でも言ってたな。“熱量”……カロリーか。形と関係なく通じるって考えか。面白いな」


会議の時、アーデルの言わんとすることに気づいたのは、村人の中ではレオンだけだった。

彼の思考は、どこかアーデルと似たベクトルを持っているのかもしれない。


「耕し方で体重の減りが違ったから、”熱量”が関係すると思うんだよねー」


体重を正確に測ったわけではなく、力の消費を定量的に比較したわけでもなかった。

しかも、一度きりの体験だ。

粗く耕したときには脂肪の消費が少なかったように思えたが、それだけで結論を出すのは危うい。

とはいえ、仮説としては筋が通っていた。

そして何より、アーデルにはもう、試行錯誤できるだけの脂肪も、時間も、残されていなかった。


「ならいろいろ試せばいいじゃないか」


レオンの考え方は、やはりアーデルに近すぎた。

この世界の理は、すべて神によって定められている。

新しいことを“試す”という行為自体が、そもそも歓迎されない風土だったのだ。


「レオン、ロバのレースとか、あるの?」


アーデルはレオンの「試せばいいじゃないか」という言葉に、ほんの少し苛立ちを覚えた。

今は遊びじゃない。死が目前に迫り、村の未来がかかっている。

一度たりとも、無駄にはできない状況だった。

それでも、レオンの発想自体は間違っていなかった。

アーデルは深呼吸し、感情を抑えながら、彼にも伝わる例えを選んだ。


「突然だな。まあ聞いたことがあるくらいか」


今のレオンの基盤になっているのは、ほとんどが遠征軍での経験だった。

それほどまでにあの日々は大きく、村での暮らしは刺激に乏しく感じられた。

ロバレースといえば、あの仲間たちの風習を思い出す。

各地から集まった兵士たちの風変わりな習慣は、夜の語らいに欠かせない話題だった。


「ロバの速さ競争する前、全然知らないエサ食べさせて速く走るか試そうと思う?」


アーデルは競馬の話を思い出した。

前世ではまったく興味がなかったが、擬人化ゲームが流行ったことで、いやでも関連情報が耳に入ってきた。

レースに出る馬は、想像以上に繊細に管理され、ただの家畜とはまるで別物だった。


「ないだろうな。一番馴染んでる物を食わす。腹を壊したらレースが無駄になる」


家畜は貴重な存在であり、神に定められた方法から逸れることには大きなリスクがあった。

定めに逆らい、腹を壊せば、レースどころではない。

ふだんの作業に使うロバでさえ、むやみに扱うことはできなかった。


「でしょ。畑を全部やらなきゃいけないのに、無駄な魔法使ってる暇ないよ」


アーデルは、口調を乱さずに済んだことに、ひとまず安堵していた。

内心の苛立ちは確かにあったが、表に出さなかった――それだけでも、今は十分だった。


「よく考えてるな。いや、村のために考えてくれているんだな。バカなことを言った。許してくれ」


レオンは、ようやくアーデルの思いを理解した。

彼女は、孤独のなかで限界まで考え、行動していたのだ。

軽い気持ちで口にした自分の言葉が、彼には急に重く感じられた。


「気にしなくていいよ。レオンは、ちゃんと話せば理解してくれる、貴重な人材なんだから」


アーデルは筆を持ち直し、レオンの謝罪を素直に受け入れた。

自分だって、これまで何度も不用意な言葉で村を混乱させてきたことを自覚している。

それに比べれば、今回のやりとりは取るに足らないことだった。

それよりも、理解しようと歩み寄る姿勢こそが、彼女にとってはずっと大切だった。


*


アーデルは雑談を交えながら、手元の蝋板に新たな問題を書き終えた。

それをレオンに手渡し、解いてみるように軽く促す。


ただし、その問題は単位計算だった。

アーデルにとっても難しい分野であり、単位の表記には即席の絵文字が使われていた。

それらしい記号を並べてはみたものの、意図が伝わるかどうかは不明だった。


ひと息ついた彼女は、スープを胃に流し込む。

その動きは、火床の灰に薪をくべるようにも見えた。


ここ数日、彼女の食事はほとんど絶え間ない補給に等しかった。

栄養の摂取を休むことなく繰り返し、体力の維持が求められていた。

村の畑をすべて耕すと自らに課してから、日々の消耗は積み重なっていた。

その負担は、思いのほか大きかった。


火床の奥では、かすかな火がゆらめいていた。


*


「そういえばさ、昨日の広場……言葉が届くって、ああいうことなんだな」


レオンの脳裏に、あの静かな時間が蘇る。

騒がしかった村人たちが、一つの言葉に耳を澄ませ、動きを止める。

それは計算でも技術でもなく、責任を負う覚悟と、祈るような真心に支えられた、剥き出しの言葉だった。

説得ではなく、告白。神に捧げられる祈りのような、清廉な響き。

言葉の温度が、人々の内面に触れ、その誠実さは波紋のように広がり、場の総体を変えていく。

駆け引きも、作為もない。ただ、一つの魂が言葉となった瞬間をレオンは見た。


「え? ああ、あれ? うん、時間あったから色々考えた。おかげで、計画通りだったよ」


アーデルは、村人たちの暴走をどう防ぐか、その一点に集中して半日を費やしていた。

前世の父の雑学の中で、数少ない「使える知識」として記憶に残っていた理論がある。

社会心理学――「コミットメント(態度)と一貫性の原理」。

人は一度、言葉や態度で自己表明すると、その後は自然とその姿勢に従おうとする。

その傾向は無意識に強く働き、ときに柔軟性を奪う。いわゆる「誤解による炎上」である。

各人が勝手にコミットし、それぞれが異なる方向に突き進めば、議論は分裂し収拾がつかない。


そこで、アーデルは先手を打った。

まだ誰も発言していないうちに、「痩せた体を見せる」という象徴的な行為を先に置き、

それを公的なコミットメントの核に据えた。言葉ではなく、視覚的に共有される事実。

それがあるだけで、空気は変わる。方向性は、ほとんど無言のうちに整えられた。


「まさか。……狙ってやってたのか? なら一つ言わせてもらうけど──あんまりいいやり方じゃなかった」


レオンは言葉の意味をすぐには呑み込めなかった。

アーデルのあの静かな祈りが、あらかじめ練られた計画の一部だったなど、信じたくなかった。

自分の中で“神聖なもの”として抱えていた光景に、急に手垢がついたような感覚。

まるで、心の拠り所だった聖遺物が、偽物の工芸品だと知らされたかのようだった。

失望というより、信仰を剥がされたような痛み。レオンの中で、何かが崩れかけていた。


「えっ? どうして? みんな納得してくれたよ?」


アーデルは、一瞬、何を責められているのかがわからなかった。

あれは、理性と感情を織り交ぜて構成した、自分なりの“最適解”だった。

対立を避け、流れを整え、誰も傷つけずに導く。そう信じていたのだ。

レオンの言葉は、そのすべてを根底から否定した。

自分が練り上げた戦略――そこに、何か決定的な欠点があったのだろうか。

すべての知恵を注ぎ込んだ説得だったからこそ、アーデルはショックを受けていた。


「……まさか、もしかして……。納得させるために、あれをやったのか?」


レオンは、言葉にしきれない戸惑いを抱えていた。

昨日のあの瞬間――心を動かされたあの祈りは、

ただの手段、説得の一環として計算されたものだったのか。

かつて、霧の中に聖人の姿を見たことがある。

息を呑み、膝を折り、祈った。けれど、霧が晴れると、そこにはただ岩があった。

自分は何を見たのか。

神の理が岩にかたちを与えたのか、それとも自分が勝手に意味を見出しただけなのか。

アーデルの言葉に感動したのも、同じような幻だったのか。

レオンは、自分の心のどこに答えを求めればいいのかわからなかった。


「え? え? 他に理由ある? だって、急な変更で絶対に揉めるのわかってたから、すぐ理解してもらえるようにって……」


アーデルは、言葉にしきれない戸惑いを抱えていた。

自分がやったのは、勝手なコミットが乱立する前に、強い公式コミットを先に打って場を整えた――それだけのはずだった。

レオンは一体、何を問題視しているのか。

炎上しそうな説得を、火がつく前に沈めて、みんなが納得できる形にした。

それ以上、何を求められていたのだろう。アーデルには、レオンの意図がつかめなかった。


「……あー、そうか。そうだったのか。お前はやっぱり……ほんと、バルバロイだな」


レオンは、ようやく理解した。彼の言葉には、もう怒りはなかった。

アーデルは、ただそこにあった。岩のように。無言で、無意識で、誠実で、そして異質だった。

悪意はない。ただ、“あの祈り”に込められた信仰は、アーデルのものではなかったのだ。

レオンが見ていたのは、己の中に立ち上がった幻だった。

岩は、ただ岩として存在し、岩なりに最善を尽くしていた。

そこに意味を重ね、祈りを捧げ、感動していたのは、自分たちのほうだった。

アーデルには、最初から”信仰”がなかった。

それを忘れるほど、昨日の自分は酔っていたのだ。

レオンは、ようやくその事実と折り合いをつけた。


「ちょっと、それどういう意味?」


アーデルには、まだ理解できなかった。

ただ、レオンが「お前は異質だ」と言っていることだけはわかった。

だが、正論の何が悪いのか。

正しいからこそ、正論ではないのか? その感覚がアーデルにはわからなかった。

村の一員として受け入れてもらうために、全力で説得した。

それは成功した。にもかかわらず、レオンは「異質だ」と断じた。

アーデルはその理不尽さに、ほんの少し失望すら覚えていた。


「つまりな──みんな、感動してたんだよ」


レオンは、一瞬、口をつぐんだ。アーデルに、この感覚が伝わるだろうか。

いや、そもそも伝える言葉が、自分にあるだろうか。

“信仰”とは、持っていて当然のものだと思っていた。

それがない相手に説明することに、どこか虚しさすら感じた。

けれど、アーデルは“岩”ではあっても、“聞こうとする岩”だった。

この数日のやりとりで、それだけは信じられた。

馬鹿馬鹿しい気もした。だが、話すしかなかった。

信仰とは何か。感動とは何か。

彼女の中に、少しでもそれが届く可能性があるなら――。

レオンは、言葉を探し始めていた。


「はあ!? どうして!? ただ、状況を説明しただけでしょ?」


アーデルの声には、混乱と苛立ちが滲んでいた。自分が語ったのは、ただの報告だった。

起きたことを、順を追って、理にかなうように説明しただけだ。

感動とは、一体どこに挟まる余地がある? まるで、説明書に涙を流すような話だ。

そんなことをする人間がいるとすれば、たぶんそれは、製図を愛する技術者くらいのものだろう。

それは“構造の美”に打たれるものであって、“心”に触れるものとは違う。

アーデルにとって、説明は納得させるための道具だった。

伝えれば終わり。理解されれば任務完了。

それ以上の何かを、そこに見出したことは、一度もなかった。

あの時の”沈黙”は、反論の余地がない完全な納得の結果ではなかったのか? 彼女は混乱するばかりであった。


「いや、あれは説明じゃなかった。あれは、“告解”だった。“祈り”だったんだ。少なくとも、あいつらの目にはそう映った」


レオンは、アーデルの“信仰なき無垢”を確信した。

彼女には、悪意がまるでなかった。だが、それゆえに、驚くほど鈍感でもあった。

とはいえ、彼自身も、ゼロが存在しない世界でゼロという概念を受け入れ始めている。

算術のように、段階を追って伝えれば、きっと伝わるはず。

そう信じて、レオンはイチから──いや、ゼロから語る覚悟を決めていた。


「うっそ……じゃあ何、あれで感激しちゃったってこと?」


アーデルは、まだこの世界を侮っていた。

誰もが何かを信じ、祈りを抱いて生きている――そんな当たり前の世界を、どこか他人事のように見ていたのだ。

彼女は自分の魔法がどれほど強大かにすら無自覚で、信仰心というものにも理解が浅かった。

そして、聞きかじりの社会心理学を応用し、人心を掌握したはずのその手腕も、

この世界にとって、理の道具というより――人を惑わす魔術に近かった。


「感激どころか、ちょっと崇拝気味になってるやつもいた。俺だって危なかったくらいだ。お前の性格知ってるから冷静でいられたけど……アンドレなんかは、完全に“試みる者”として見たはずだ」


レオンは、その事実にぞっとしていた。また“岩”を信仰するところだった。

けれどそれは、自分の中でまだ言語化できていた。

村人たちは違う。あまりにも素朴で、言葉の表層にまっすぐ感情を注ぎ込んでしまう。

惑わされやすく、導かれやすい。

だからこそ、アーデルには抑制してほしかった。

意図せず人を信じ込ませる、その力の恐ろしさを知ってほしかった。

彼女のことは、嫌いではない。彼女は村にとって、精神的にも物理的にも不可欠な存在だ。

だがその影響力は、無自覚で済ませていいものではない。


「なんで!? なんで私が悪魔的に扱われるの!?」


アーデルは思い出した。最初の魔法耕起。

アンドレが放った一言──“試みる者”。

ただ家族のために、食べるパンの一切れのために努力しただけだった。

なのに、それを“悪魔”と指摘された。

自分の善意が、見知らぬ論理で糾弾された瞬間だった。

そのときは、この世界の価値観との齟齬だとしか思えなかった。

けれど今は違う。怒りがある。

そして、その怒りの根にあるものが、ぼんやりと見えはじめていた。



「逆だ。“救世主”だよ。アンドレには絶対耳にいれるなよ──一部の連中はもう『ノアス=イルミナ様の再来かもしれない』とか思ってる」


レオンは、自分が禁域に足を踏み入れていることを自覚していた。

“救世主” “再来”――

それは信仰の構造に触れる、もっとも危うい言葉だ。

考えることすらタブーに近い。

けれどアーデルには、それを超えないと届かない。

理性と計算でギリギリの場所まで突き進めるのが、レオンの強さだった。


「はああああっ!? 『ごめん死にそうだから休ませて』って言っただけでイルミナ様!? イルミナ様ってそんな情けないこと言ってたの!?」


アーデルの頭の中で“イルミナ様”は、なんとなく痩せてて、頼りなさげなおじさんだった。

そんな発言を、悪意も皮肉もなく、ただ思ったまま口にした。レオンだから言えた。

だが、それを聖職者の前で言っていたら──例え温厚な助祭レオヴィヌスでも、異端告発を免れなかっただろう。

アーデルは、まだこの世界の信仰の重みを知らない。その無知は、冗談では済まない危うさを孕んでいた。


「違う。言ってない。だが──『皆を救いながら、自分だけが黙って苦しみを背負っていた』。そう見えたんだよ。一部にはな」


レオンは冷たいものが首筋を這い上がるのを感じた。

アーデルの昨日の言葉は、ただの説明だった。だが、民衆の耳には“信仰”として届いてしまった。

その語りは、理性ではなく象徴を生んだ。

苦しみ、沈黙、献身――それはこの世界の“英雄神話”そのものであり、危険な火種だった。

アーデルは救済者として讃えられるかもしれない。

だが同時に、誤解が積み重なれば、魔女として処刑される可能性すらある。

レオンは悟った。これはもう、アーデルの問題ではない。

村が壊れかねない。だからこそ、彼女を正しい方向に導く義務があった。


「……ってことは、今日の食材が特別豪華だったのも、鍋貸してくれたのも……」


アーデルは、胸の奥に悪い予感が広がるのを感じた。

聞きたくない。けれど、確かめずにはいられなかった。

前世でも、この世界でも、誰かの好意は“善意”からくると信じていた。

けれど今、その信頼が揺らいでいた。

もしもそこに、別の意図が込められていたとしたら──。


「貸してない。“進物”になってる」


レオンは、アーデルがようやく状況の“意味”に気づき始めたことに安堵した。

だが同時に、ここまで彼女がそれを理解していなかったことに、言いようのない驚きを覚えた。

このまま何も教えずにいたら、彼女は無自覚のまま、神話にも異端にもなりかねなかった。

想像するだけで、震えを感じた。彼女も親も、村全体も危ういのだ。


「ちょっとぉ……どうしてよ。私はただ、できると思ってやって、無理しすぎて死にかけただけなのに。ようやく村の“仲間”になれたと思ったのに。できることで協力して、支え合うのが“仲間”でしょ?」


アーデルは、望んでいたことと、現実とのズレに落胆した。

自分はようやく“バルバロイ”から“仲間”になれたと思っていた。

けれど、ふたを開けてみれば、“崇拝”されていた。

それは仲間ではなかった。ただの“距離”だった。

どうして、こんなにもすれ違ってしまうのか。


「悪いが──お前の“できること”が、男手全員分の力があるんだよ。つまり、“熱量”としては桁違い。見た目がどうでも、力がある限り、周りが誤解しても仕方ない」


レオンは、“熱量”という概念をあえて選んだ。

感情的に言えば誤解されて当然、でも彼女にとっては意味が通じる言葉で伝えたかった。

アーデルが火を扱っているなら、それは小さな炎じゃない。消えぬ焔。見ただけで皆が跪く、神火に等しい。

それを制御しないまま使えば──誰かが焼ける。レオンの懸念は、そこにあった。


「……はあ。なんでみんなが“祈る”のか、ようやく腑に落ちた」


アーデルはこれまでも、村人たちから祈られていた。

ただの丁寧な挨拶か、耕起に対する感謝──そんなふうに思っていた。

神社の神主に礼をするような、形式的なものだと。


でも違った。彼らは本気で、祈っていた。

納得はできない。けれど、もう理解してしまった。

自分は“仲間”ではなく、“人間”ですらなかったのだ。


「気の毒だが──これから先、お前は“救世主”か“悪魔”のどっちかにしか見られないだろうな。とくにアンドレには気をつけろ。どちらに転んでも、“異端”として突き出されかねない」


レオンは、アーデルがやっと現状の重さを理解し始めたことに気づいていた。

本当は、こんなことを言いたくなかった。でも、もう誤魔化せない。

優しさでは救えない局面がある。ここからが本番なのだ。

この村で生き抜くための“術”──それを渡す責任が彼にはあった。

救世主なら崇拝され、やがて魔性とされる。悪魔なら、即座に火刑。

どちらにしても、最後には“異端”が待っている。その現実を、彼女にも知ってほしかった。


「なにそれ……また“火あぶり”の話? そんなに私のこと、丸焼きにしたいの? 今ですらガリガリなのにさ……可食部少ないよ?」


アーデルは、苦笑いするしかなかった。冗談でも飛ばして、やりすごせないかと思ったのだ。

ついさっきまで、自分がそんな危険な状態にあるなんて、想像すらしていなかった。

それなのに、気づけば“崇拝”され、“断罪”の対象になっていた。

もはや、何が正しくて、何が危ういのかさえ、見失いかけていた。


「いや、そうなる可能性は低い。俺だって、実際に見たのは数えるほどだ」


レオンは、何度も“異端”の名が叫ばれる現場を見てきた。

そして、火にかけられずに済んだ人間も少なくなかった。

アーデルには諦めてほしくなかった。突き出されても、それで終わりじゃない。

生き延びる道は、まだある。


「……見たことあるんだ」


アーデルの頭の中で、何かがガラガラと崩れていった。人間が、生きたまま火で焼かれる。

動物ですらそんな死に方を見たことはなかった。ハマグリくらい──そう、せいぜいハマグリだ。

そんな死に方が“現実”としてある世界。あまりにも、命が軽い。

この世界は、思っていたよりずっと、”死”が近い。そして今、自分がその只中にいる。


「ああ。遠征軍でな。異教徒との戦場。よくあることだったよ。……祈る相手が違う。それだけで“敵”になる世界だった」


“異教徒”とされた者たちも、血を流し、家族を守ろうとしていた。

祈る神が違う――本当に、それだけだった。

「お前たちと同じ神を信じる」と、一言でも言ってくれれば。

そうすれば、生きられた命も多かった。

レオンはそれを待っていた。だが――拒んだのは、向こうだ。

信仰の誇りかもしれないが、あれは選べた死だった。


「じゃあ……私は、これからどうすればいいの……」


救世主か、悪魔か。どちらに転んでも、最後に待つのは裁きだった。

でも彼女は、誰かに救いを与えようとも、脅かそうとも思っていなかった。

ただ、必死に耕しただけ。家族のため、仲間のため。

なのにどうして、こんなにも息苦しいのか。

答えのない問いと、報われぬ疲労が、静かに心を削っていく。


「お前は“突然現れた巨人”なんだよ。村が総出で挑んでも敵わない、そう思われてる。だから、なるべく無害でいろ。それだけ覚えておけ」


レオンにできるのは、その程度の助言だった。

精霊の気まぐれを祀っていた頃なら、まだよかった。

今は、“教会”の村だ。

教会の論理、教会の権威。それを傷つける者は決して許されない。

巨人だろうと、首を垂れて生き延びるしかないのだ。


「……有害なこと、した覚えないんだけど」


アーデルは混乱していた。

罪を犯してもいないのに、どうして“危険視”されなければならないのか。

彼女にとって、人は“法”と“権利”によって守られる存在だった。

だが、この世界では違った。“恐れられる”というだけで裁かれる。

人権は、この世界では“逆らう者の言い訳”に過ぎなかった。


「巨人が歩くだけで、地響きが起きるんだ。誰も傷つけてなくても、皆は祈るしかない。倒せないなら、祈って懐に入るしかないんだよ」


レオンは、この村の素朴さをアーデルに知ってほしかった。

木の葉一枚の落下すら、神意と受け止める人々。

“目立つな”と言うのが無理だとはわかっている。

けれど巨人の歩みは、木々を揺らし、葉を雨のように降らせてしまうのだ。



「……わかった。これからは忍び足で歩くよ。木靴だけどね」


アーデルはようやく理解した。

自分は、存在するだけで音を立ててしまう。

けれど、どうしろというのか。

魔法を使えば目立ち、使わなければ皆が困る。

真ん中がない。ほどほどがない。

自分という存在が、この世界の設計にとっては異常なのだと、改めて突きつけられた。


*


気づけば、彼女の胃は空になり、胸だけが重たく締めつけられていた。

鍋のスープはとうに煮詰まり、手も伸びていない。

食べることを忘れていた。


ただそこに在るだけで揺らぐ世界。

それを受け入れるには、まだ、心の奥に余白が足りなかった。


火床の火は、さっきよりも静かに燃えていた。

彼女は少しだけ背を丸め、冷めた椀を両手で抱えた。


アーデルは歩くしかない。

たとえ足音が響こうとも。

木靴のままでも。

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