第7話 狂乱の宴と緊急会議

アーデルがヴァルトたちから遅れて帰宅したとき、

そこには、かつてテレビで見たどんな祭りよりも壮観で、

そして異様な光景が広がっていた。


家の前には、干し肉が黒い礫のように積まれ、

チーズの芳醇な香りがあたりを満たしていた。

ちぎられたパンは山を成し、その隙間を掘りたての野菜が埋めている。


それはまるで、供物の山だった。


「持ってきたぞー!」「俺の畑、頼んだぞ!」「うちが先だ!」


村人たちは鍋や釜を抱えて殺到してくる。

だがその中身は料理とは名ばかり。

ただ水に野菜を沈めただけの、未完成のなにか。

アーデルは立ち尽くすしかなかった。

群衆の熱気が、彼女の意思を押し流してゆく。


一見すれば、豊作の祝祭。

だがその空間を満たしていたのは、秩序ではなかった。

熱と欲望、それだけだった。


(いつから……?)


始まりは、一人の囁きだった。

「アーデルと契約すれば畑を耕してもらえる」

そう聞いた誰かが、食料を持参した。

それを見た者が焦り、さらに別の者が出遅れまいと続いた。

損得勘定と競争心が、伝染病のように村を侵していった。


(……これ、聞いたことある。囚人のジレンマ、共有地の悲劇。名前は曖昧だけど、そう──“みんなが譲れば得をするのに、誰もが抜け駆けを恐れて損をするやつ”。コンビニの隣にコンビニが建つやつだ)


村のあちこちで、破綻が連鎖していた。


パン釜の前では、生地が火力不足のまま詰め込まれ、膨れ、崩れ落ちた。

焚き火は支柱を舐め、貴重な薪が浪費されていく。

止めようとした男は押しのけられ、沈黙した。


チーズは「高く積んだほうが得をする」と言わんばかりに競って積まれた。

誰も疑問を口にしなかった。

ただ、ひとり立ち尽くす老女の皿だけが、空のまま宙に浮いていた。


まだ青いままの野菜が、乱暴に引き抜かれていく。

泥のついた根、ちぎれた葉──命の連なりは、もはやただの取引材料だった。


やがて狂乱は、村のタブーにまで及ぶ。


若者が領主の果樹園の柵を越えようとしていた。

実ったリンゴを、もぎ取ろうとしている。


領主の土地から盗むことは、村全体への罰に直結する。

だが彼は、それを恐れていなかった。

ヴァルトが駆け寄り、腕をつかみ、引き倒す。

地面に叩きつけられた男が呻く。

だが、ヴァルトに躊躇はなかった。


そして次は、信仰の背骨――共用倉だった。


礼拝小屋の脇の小屋には、信仰の象徴として、共同の麦備蓄が保管されている。

その扉に、無数の手が伸びていた。


ミーナが立ちはだかり、涙交じりに叫ぶ。


「やめて! これは“みんな”のものよ!」


だが誰も耳を貸さなかった。

「うちも苦しいんだ」

「あんたの娘のためだ」

とすがる声だけが飛び交う。


その傍らで、老女が祈っていた。

だが誰かが、その背後を無言で踏み越えていった。


アーデルは、壁際の陰に気づく。

年老いた女たちが寄り添い、動かずに座っていた。

その足元には、小さな乳児。

汚れた布に包まれ、弱々しく身をよじっている。

母親の姿はない。

どこかで、列に並んでいるのだろうか。



混乱は、さらに拡大する。


修道院の森に向かう男。

肩には斧、目はまっすぐに薪の森を見据えていた。


無断で入れば、村全体が罰を受ける。

だが男は止まらない。


ヴァルトは飛びかかり、彼を殴り倒す。

斧が地面に落ち、鈍い音を立てる。


そこにあったのは、もはや道徳でも理性でもなかった。


「やめてー! 話を聞いてー! お願いー!」


アーデルの声は、誰にも届かなかった。


(……どこかで聞いたようなセリフ。違う。誰も聞いていない)


誰かが持ってきたなら、自分も持ってこなければ損をする。

だがそれすら通り越し、いまは


「浪費すれば勝ち」

「秩序を破れば勝ち」

「禁忌を犯せば勝ち」


価値の基準が、根本から転倒し始めていた。


「はーい、ちゅうもーく!列に並んだ順に話を聞くよ!はい、あなたから!」


(……私の魔法が欲しいんじゃないの? なんで、誰も聞いてくれないの……)


「やめてよー!止まって、止まって!」


アーデルが誰の背中を叩いても、誰に追いすがっても、止めることはできなかった。

一人を止めても、その隙に他人が出し抜く。

彼らの心理の奥底には、「アーデルなんかに構っていられない」という冷酷な競争心が支配していた。


(集団ヒステリー? 最悪だよ……昨日までの原始共産制はどこ行ったの? 暗黙の了解は?)


アーデルは、必死に思考を巡らせた。

前世の記憶を、知識を、経験を──すべて総動員して。


(洋ドラで見た……パーティのスピーチ、グラスをフォークでチンチン鳴らして、注目を集めてたっけ。音……この狂乱を上回る音があれば……爆竹? でっかいスピーカー? でも構造は?)


薪割りの斧を巡って喧嘩が起き始めた。

大人の男が二人、斧を引っ張り合っていた。


(スピーカーはいつも見てる。でも原理なんて知らないよ。ただ「電気を音に変える何か」としか……)


アーデルは腕を前に突き出し魔法を念じる。

スピーカーのコーン、配線の信号、音源の構造をイメージ……できなかった。

知識がなく、自信もなかった。


(やっぱり”具体的なイメージ” ”動いて当たり前”の気持ちが大事なんだよきっと。何か馴染みのある機械、パパが説明してた雑学はないの)


女たちは、鍋から溢れた野菜の上に、さらに積み重ねている。

「隣の鍋より多ければ勝ち」という暗黙の競争ルールが成立してしまった。


(くぅーみんなもったいない、せっかくの食べ物を……昨日はうち、初めてパンを家族みんなで分け合えたのに……“人はパンのみに生きるにあらず”だよ……パンと一緒にワインで乾杯できたらね……って、水をワインに変えたんだ!典型的な奇跡のやつ!)


思考が一瞬、聖書の言葉に触れた。


(……水!)


その閃きとともに、アーデルは広場の井戸へ駆け寄った。

狂乱の最中に散々汲まれていたが、まだ底には十分な水が残っていた。


(トラクター魔法は成功したんだよ。要はイメージ……イメージがすべて。パパの雑学にまた頼るよ……)


思い出すのは、父が語った雑学の数々。


(『ポンプにもいろいろあってな。パパが好きなのは消防車のやつ。これ考えた人は天才だよなー。ほらこれ、シンプルで美しい構造を見てみろ。羽根車がぐるぐる回るだけで──』)


回転寿司でミルフィーユケーキを頬張ったときに聞かされた、消防車の話。


(そうだ……渦巻ポンプ!──羽根車が遠心力を起こし、毎分二千リットルを三十メートル持ち上げる。確か、そんな数値だった)


アーデルは眼前の阿鼻叫喚な光景を振り払い、意識を集中する。


(そう、それ!渦巻ポンプ。出初式の放水……あのイメージだよ!)


アーデルはホースの形を脇に抱え込むようにして構え、天に向けて構えた。

井戸からポンプへ。

ポンプから、空へ向けてホースをつなぐ。


「放水!」


瞬間、井戸から透明な大蛇のような水柱が立ち昇った。

まっすぐ空へ駆け上がるその姿は、力強くも美しかった。

アーデルの身体をすり抜け、天を貫き、やがて頂点に達して弧を描くように広がった。


村の空に、冷たい雨のような水が降り始める。


晴れた朝に訪れた、唐突な「雨」。

村人たちはその冷たさに、動きを止め、空を仰いだ。


──今だ。


アーデルは肺の奥から、渾身の力を込めて叫んだ。


「みんな、止まって!」


水音に乗った声は、村の隅々にまで響き渡った。

村人たちは手を止め、空を見上げる。

そして、さらにひとつの奇跡が起きた。


「見ろ!和解の印だ!」「おお、平和の徴だ!みな、静まろう!」


朝の光を浴びた無数の水滴が空で反射し合い、空に巨大な虹が架かった。

それはまるで、神が差し伸べた一本の腕のようだった。

狂乱は静まり返った。

誰もが虹に向けてひざまずき、手を合わせ、祈りを捧げる。

精霊祭司のマティアスでさえ、アーデルに向かって深く頭を垂れた。

彼の瞳には、揺るぎない崇敬の光が宿っていた。


(止まった……でも……)


アーデルはぐらりと身体を傾けた。

空腹のまま放った魔法の代償は大きく、全身の力が抜けていく。


(くぅぅぅ、お腹すいた……食事前にこんなことさせないでよ……金色(こんじき)の野に降り立っちゃいそう……)


顔は青白く、体はまた痩せ、膝が震えていた。


アーデルを探していたミーナが、彼女を井戸で見つけた。

マティアスを筆頭に、幾人かの村人が祈りを捧げていた。


「アーデル、大丈夫?」


「お母さん……ごめん、お腹すいた。あとなんで、みんな私に祈ってんの?」


アーデルは空に放水した。

本人は放水しただけだった。

水が四散し霧状になり、虹が出る現象は、アーデルにとって常識だった。

『パパ見てー虹だよ!』

『ただの光学現象だよ。そういや”七色の虹”っていうけど、文化圏によって数が違うんだよな』

あるいは、アーデルが信仰に頼らない生き方をしたのは前世の親の影響が大きいのかもしれない。

だからこそ、アーデルはなぜ虹に祈っているのか、なぜ自分に祈っているのかわからなかった。

マティアスは地にひざまずき、震える声で何かを唱えていた。

だがアーデルが真にこの世界を理解するには、圧倒的に時間が足りなかったのであった。


アーデルの虹がまだ空に残っている間に──村長むらおさが静かに、重く、全体へと声を放った。


「皆の者、一旦落ち着け!村の秩序を取り戻すぞ!」


彼の声には、年長者としての威厳がこもっていた。

ようやく混乱の波が引き始め、村人たちは指示に従い始めた。

村人たちはこの狂乱の中で、貴重な食料と大量の薪を無為に消費していた。

その損失は、この寒冷で飢えの絶えない世界において、致命的になりかねない。

アンドレは食料の山に駆け寄り、腐敗しやすい物を選別した。


「途中で辞めたら悪霊の霊気に取り憑かれる。火にかけた物は無駄にするな!作りきれ!」


彼の指示のもと、限られた者たちが手分けして作業を開始した。

薪の火も、今度は計画的に使われる。


「パン生地を一度全部出せ!並んで順番に焼くんだ!ほら早く!」


ヴァルトは、競争に加わりかけていたレオンの襟首を掴み、怒鳴りつけた。


「お前が混乱に加わってどうする!お前は知恵ある者だろう!記録を取れ!誰が何を運び、何が失われたか、すべてを記せ!」


レオンは顔をしかめつつ、板と炭を手に取り、渋々記録を始めた。

その表情には、自責と羞恥が浮かんでいた。


村長も負けじと声を張り上げる。


「村寄は一旦、会議だ!鐘を鳴らせ!村寄所にあつまれ!冷静にこれからの方針を決めよう!」


理性を取り戻し始めた村人たちの心に、その声はようやく届いた。


誰かが村寄所の軒下にある鐘を叩き、その音は村中に響いた。

村寄の集合の合図だった。


(あ、鐘があったのか……でも、鳴らしてもテンション上がるだけだったと思う……「冷や水をかける」とはよく言ったものだよ。神とワインに感謝だね。しないけどさ)


アンドレは続ける。


「まず、アーデルは、この中で霊気に取り憑かれやすい料理を優先して食べろ。不公平がないよう、レオンが正確に記録する!だろ?」


「ああ、もちろんだ!」


その言葉に、村人たちは静かに頷いた。

混乱は、ようやく組織的な収拾へと向かっていった。


アーデルは貴重なチーズや干し肉が回収され、現れつつある家の扉にトボトボと歩いてきた。

ミーナは付き添い、アーデルを労っている。

その最中、ヨハンが申し訳なさそうにアーデルのもとへやってきた。

彼の小さな手が、そっと彼女の袖を引く。


「よぉアーデル。あのさ……さっき、かぁちゃんに、頼まれて……」


アーデルは悪い予感しかしなかった。


「かぁちゃんから、"お前はアーデルの先生なんだから、言うこと聞かせろ"って言われたんだ。そんなの、嫌だよなアーデル、ゴメンな」


ヨハンのその絞り出すような一言に、アーデルは凍りついた。

ヨハンもまた、村人たちの欲望の渦に巻き込まれた被害者だった。

アーデルは、むき出しの我欲に自分が利用されている現実に気づき、背筋が凍るような感覚に襲われた。



広場の一角、石畳の切れ目に沿って、低く横たわるようにして建っている「村寄所」。


外壁は素焼きの煉瓦に漆喰を塗り回した粗末な作りで、屋根は苔むした木羽板。

入口には貴重な木板の一枚扉と、開閉式の格子窓がひとつあるきり。

だが、この簡素な小屋は、村のすべての「決まりごと」を生む場所だった。


中は、炉の煙が煤となって天井を黒く染めた一室だけの空間で、壁際には腰掛け用の木板と、中央には石で組まれた火床がある。

年長者や村長は奥側に、若者や補助役は出入口近くに座るのがならわし。

議題があると、誰かが鐘を鳴らし、村の代表者たちがここへ集まって来る。

ときには口論が、そしてまれに、拍手と祝宴が起こる。


今もまた、その小屋に、重い決断の気配が流れ込もうとしていた。



全員が集まりきらぬ中、最初に口火を切ったのは、教会の教義を重んじるアンドレだった。


「村長、”試みる者”だということがわかってもらえましたか? あの力は軽々に使ってはいけないんですよ」


静まり返った空間に、その言葉はやや唐突に響いた。

朝の混乱がまだ尾を引く中で、誰もがその言葉の意味を測りかねていた。


「ふむ……だがなアンドレ、アーデルなしで――」


村長が言葉を継ごうとしたそのとき、別の声が遮った。ヴァルトだった。


「おい待てアンドレ、俺の娘が”試みる者”だと? 朝から言おうと思ってたが――」


ヴァルトの声は、抑えた怒気を孕んでいた。だが、アンドレはそれを遮る。


「ヴァルト、アーデル自身が”試みる者”という意味ではない。あの子の中に潜んでいるものがそれだと、そう認識しているつもりだったが、違うか?」


アンドレは冷静さを保とうとしていたが、わずかに眉が揺れていた。

その言葉に、誰もがアーデルという存在をどう定義すべきか迷い始めていた。


「ああ、違う。あの力は、俺とミーナにパンを食べさせたい、純粋な慈愛からにじみ出たもの。”子から親に向けた優しさ”。それだけだ」


静かな声だった。

だがその一言が落ちた瞬間、火床の火が揺れ、誰かが息を飲む音が聞こえたような気がした。


「……」


沈黙が落ちた中、精霊祭事の司であるマティアスが、ゆっくりと口を開いた。


「”森の返り子”の霊験は時として強い。森を揺るがすほどでもある。一時は霊威を受け止めきれず混乱したが、また霊験を起こされた。これでみな頭が冷えたろう。もう二度とあんなことは起きん」


彼の声には、神秘を語る者の抑揚があった。

しかしその内実は、混乱の責任を誰にも明示せず、丸く収めようとする大人の論理だった。


続いて村長も言葉を重ねた。


「アンドレ。前に話した、追加の年貢と奉仕……このままでは、到底果たせぬ。教会、修道会、領主様、そしてトゥレミス評議会――それぞれに譲歩の交渉をしてきたのは伝えただろう」


村長の口調は抑制されていたが、その背後には焦りが滲んでいた。

外部との折衝が限界に達していることを、誰よりも彼自身が感じていた。


「待ってください。労働奉仕は、信仰の証として当然の義務です。……それが筋ですが、実際に果たせないのであれば……仕方のないことも、わかります」

アンドレの声音は静かだった。

だが、その沈静は諦めではなく、自制の裏返しだった。


額に浮かぶ汗。かすかに揺れた視線。

――思い出すのは、遠征重環軍の野営地で耳にした最後の鐘の音。

戦地で命の境に立たされた夜、彼を保っていたのは、ただ祈りの言葉だけだった。

「信仰は守るものだ。……だが、押しつけて壊してはならぬ」

そう口にする代わりに、彼はただ一言、言った。


「すみません、続けてください」


「……うむ、アンドレの言うとおりだ。信仰において、奉仕は神への証し。義務として当然のことだ。だが――果たせぬ義務は、むしろ信仰を傷つける。それが現実だ。そうだなアンドレ」


村長は、あえて問いを重ねることで、議論の主導権を取り戻そうとしていた。

その狙いをアンドレは察したが、無言で肯定の意を示すしかなかった。


断続的に、扉を開けて村寄たちが入ってきた。

その足音は、冬の湿った床をじわじわと軋ませ、会議の空気を少しずつ変えていった。

村長は気にせずに続けた。


「だからこそ、こちらの事情を伝え、正式に譲歩交渉を始めていた。しかし、いずれは別の形で責務を果たさねばならん。この村は、その精算に何年も耐えるしかない。……そう思っていた。これまでは」


村長の言葉には、深い疲労がにじんでいた。

この数週間、あらゆる権威との板挟みに立たされながら、彼は村の存続だけを考えてきた。

だが今、あの異形の光景を経たことで、別の可能性が目の前にぶら下がっている──そのことを認めざるを得なかった。


いつの間にかレオンも席についていた。

混乱の最中、提供された食材の記録を終えてきたのだろう。

羊皮紙の束を小脇に抱え、落ち着いた声で言葉を差し挟んだ。


「アーデルの力を使えば、この村が全ての労働奉仕を果たせる可能性がある、ですね。村長」


アンドレがレオンを鋭く睨んだ。

その視線には怒りと軽蔑、そしてどこかしらに哀れみすら滲んでいた。


「レオン、お前はカスパの次に走り出したよな。どの口でそんなご立派なことが言えるんだ?」


鋭い一言だったが、レオンはたじろがなかった。

彼の返答には、言い訳ではなく、冷静な論理があった。


「あの時はルールがなかった。そのうえで最善を尽くしたまでだ。結果的に村は混乱したが、それはルールなければああなるという警句だよ。だからルールを決めれば秩序は戻り、全納もできる。どうだ? 間違ってるか?」


レオンの論は、誤魔化しのない直球だった。

だが、それだけにアンドレの怒りをさらに煽った。


「ほう、お前は警句のために、自らを犠牲にして知らしめたわけか。“神はすべてを見ておられる”。忘れたわけではあるまい?」


村長が素早く割って入った。

議論が神学の糾弾に傾けば、会議の重心が信仰の断罪に流れてしまう。そう彼は本能的に察していた。


「アンドレ、そこまでにしておけ。レオン、お前もだ。お前は失敗した。それを糧にして、村寄として力を振るってくれ。ふたりともいいな?」


彼はリヴィナ村生存に全力を尽くしたかった。

その一心が、声の奥ににじんでいた。


「……」


しばし沈黙が流れた。

火床の薪がはぜる音だけが、天井近くまで澄んだ空気に響いた。

村寄たちの視線が、順にアンドレからレオンへ、そして村長に戻る。


「では――」


その緊張を破ったのは、カスパの登場だった。

彼が開けた戸口から、冷たい外気が一陣流れ込み、場の空気をわずかに揺らした。


「いやー、すごい混乱だったな。まさか、りんご園にまで手を出すヤツが出てくるとはな。りんごの数だけ首も落ちるとこだったぜ」


カスパの口調は軽かったが、その冗談に誰も笑わなかった。

言葉の裏にある“事実”の重さが、皆の胸にずっしりと沈んでいた。


アンドレは呆れたように顔をしかめた。


「お前が一番先に走り出して――」


村長がアンドレを手のひらで再び制した。

彼の中には、既に「罪の記録より、村の再建」が優先されていた。


今は誰の責任かを問うより、この先の方策を立てること――

村長にとって、それこそが唯一の議題だった。


村長は話を進めようとしたが、納得がいかないアンドレがなお食い下がった。


「村長、まずは彼女が“試みる者”か否か――そこをはっきりさせてください。でなければ、村はきっと後悔することになります。

……一度“堕落”が始まれば、もう手がつけられません」


その言葉に、場が緊張した。

重々しく降りかかる“信仰”という枷に、誰もが言葉を選ばざるを得なくなる。


間を置かず、レオンが口を挟んだ。


「またその話か。俺は何日もアーデルに算術を教わったが、そんな気配は何一つ感じなかったぞ。彼女は――村の救世主じゃないか、ありがた――」


「……おい、今、何て言った?」


アンドレの声が、鋭く空気を裂いた。

次の瞬間、空気が凍る。


「ど、どうした? 何か変な―」


「レオン、お前は信徒だろう。“救世主”はノアス=イルミナただ一人だ。口にするだけで異端の疑いを受けかねん言葉だ。軽々に使うな」


場が静まり返った。

火床の火すらも音を立てるのをやめたように感じられた。


レオンの顔から色が引いていく。

自分の口が、知らぬ間に“越えてはならぬ一線”を越えていたことを、ようやく理解したのだった。


「……」


アンドレの声がさらに鋭さを増す。


「それに、彼女に“算術と同じようにタダで畑を耕せ”とも言ってたな。それこそ“堕落”じゃないのか?」


場の空気が再び緊張に包まれる。

言葉の選び方ひとつで、信仰の名のもとに糾弾が始まる。

レオンは、何も言い返せなかった。


ただ、唇を噛み、俯いたまま、沈黙するしかなかった。

――それは言葉に対する敗北ではなく、彼の中にある罪悪感と恐れの表れだった。


その沈黙を破るように、ヴァルトが低く、静かに口を開いた。


「あの子は、まだ村に来て間もない。掴み麦すら知らなかったんだ。だが、教えればすぐに理解して、村のために何ができるかを考えている。……それを見てもなお、“堕落”だの“試みる者”だのと戯言を続ける気か? それで大人を名乗るつもりか」


その言葉は、怒号ではなかった。

だが、火床の火が一瞬静まるほどの、張り詰めた熱を帯びていた。


村寄たちはざわめいた。


「あいつ、あんなに喋るやつだったか……?」「だよな。今日、村人を殴ったって噂も聞いたぞ。そんなの、ガキの頃ぶりじゃねえか」

「アーデルと一番一緒にいたのはヴァルトとミーナだ。まさかもう……」


ヴァルトは鋭く睨んだ。

その目には、怒りではなく、悲しみと覚悟が浮かんでいた。


「言いたいことがあるなら、はっきり言え。だが、あの子は俺たちが与えた以上の真心を返してくれている。それだけで十分だ。親は子を守って、当たり前だ」


その場にいた誰もが、かけるべき言葉を失っていた。

ヴァルトが言った「親は子を守って当たり前」という言葉は、

信仰よりも先にある人間の情を突きつけていた。


村長は、収拾がつかない議論に目を伏せた。


「アンドレ……ここはひとまず、“恩寵”として受け取ろう。神が与えた祝福――だが、それは同時に、試練でもある。慎重に扱う。それでいいな?」


「……」


「ヴァルト、お前の気持ちはわかる。だが、皆が納得できるかたちで進めたい。この通りだ」


ヴァルトは返答しなかった。

だが、その沈黙が、了承の意思を物語っていた。


アンドレも、それ以上は言葉を飲み込んだ。

教義と清廉だけでは、戦場を越えられなかった。

幾度も苦渋を噛み締めてきた彼は、今この現実に、ただ目を伏せるしかなかった。


「……決まったことなら、従いましょう。ただし、私は目を離しません。……それが、村の信仰を守る者の務めですから」


話はようやく整理されていった。

まず確認されたのは、アーデル本人にやる気があるか、そしてヴァルト家が彼女の力を村に提供する意思があるかどうかだった。


「村の事情は俺もわかってる。だからこそ言う。アーデルには敬意を払ってくれ。それと、まずはちゃんと食わせろ」


ヴァルトの言葉は静かだったが、鋭く全体に響いた。

彼の主張は筋が通っていた。

村を救うためにアーデルが力を貸す――その協力には、彼女を守ること、そして体力を取り戻すための食事、この二つの保障が不可欠だった。


「村への協力」

「尊重して保護」と「食事」


交換条件に際し、「保護」については、誰も異論を唱えなかった。


だが、問題は三点目――「食事」だった。


村全体が窮乏している今、誰がどれだけの負担を担うのか。

その問いかけは、議論の建前を一気に剥がし、現実の鋭利な輪郭を露わにしてゆく。


言葉はすぐに紛糾し始めた。


「当然、畑の広さに応じてだよな?」

「ヴァルトのとこはタダかよ。街道の修繕も必要だろ? その費用は誰が出すんだよ」

「うちの畑は広いが子供も多い。今も腹をすかせてる。そこから“アーデル税”なんて、払えってのかよ?」


誰かがその言葉を口にした瞬間、室内の空気が凍りついた。


「……待て。今、なんと言った?」

ヴァルトの声が低くなり、場に緊張が走った。


「“アーデル税”だと? ついさっき“尊重して保護する”と決めたばかりだ。約束はもうご破算か?」


怒号ではない。ただ静かに、確かに、場を打つ声だった。

その一言が、対価という名の搾取の気配をあぶり出した。


その言葉に一瞬、場が静まり返る。


マティアスが、ぽつりと呟いた。

「アーデルは……供物か何かじゃない。彼女の中に宿ったものを、どう扱うかの話だったはずだ。誰か一人の犠牲で済ませてはいけない」


それは、信仰を言葉にしない者の祈りだった。

森の気配と風の巡りだけに耳を傾けてきた彼こそ、

この村に根ざした古い信仰の、最も静かな継承者だった。


マティアスの言葉は、声高に叫ばれることのなかった真理を、

まるで苔むした祠の奥から引き出すように、ひそやかに炙り出した。


「そうだ」

アンドレも渋い顔でうなずいた。

「もしも神の恩寵が本物なら、村全体で応えるのが筋。彼女だけに押し付けるのは、信仰でもなんでもない」


言葉は静かだったが、そこには確かな重みがあった。

教会の教義と、森に宿る気配――本来、相容れぬはずのそれらが、

この村では長く、共に息づいていた。


雨乞いの踊りと主の祈り。洞窟の供物とミサの聖餐。

人々はそれらを区別せず、必要なときに必要な神に縋ってきた。

それがこの村のやり方だった。迷信でも背信でもない、生活の知恵としての信仰。


そして今、教会の従者と、森の証人とが、同じ言葉で少女をかばった。

それは奇妙な一致だったが、この村にとっては――むしろ自然なことだった。


信仰――その語が口にされた時、いくつかの視線がすれ違った。

誰もがそれを信じていたい。けれど、それだけでは麦は満たせない。

それでもなお、人は何かを信じねば、背を丸めて冬を越すことなどできないのだ。



「信仰じゃない、理屈でもない。ただの現実の話だ」

レオンが口を開いた。

「村の存続のために彼女の力を使うというなら、その代償は全員で背負う。それがルールだ。そうだろう?」


その声に、かつての迷いはなかった。

かつて戦場で、祈りと秩序が無力に崩れたあの瞬間――

彼が頼れたのは、命を削り出した帳簿と配給表だけだった。


レオンには、信仰があった。

だが、信仰とは別に、数字が優劣を決める場面があることも知っていた。

それを、遠征重環軍で学んで帰ってきたのだ。


村に戻ってもなお、その価値観は変わらなかった。

だが――その冷静さこそが、いま、この場では苛立ちを誘った。


「おいおい、急にみんな綺麗事言い出すじゃねえか。五年前と逆だな」

カスパがふっと笑った。


レオンが不愉快そうに返した。

「いい加減しつこいぞ。終わった話だ」



誰かが返したその言葉に、またざわめきが起きる。

だがその“正気”も、結局は疲れ果てた末の落とし所にすぎなかった。


村長は村寄の言葉は無視し、一つ、深く息をついた。

「よし、ここで決めよう。アーデルに供する食事は、村人全体で負担する。按分は畑の広さだけでなく、家族構成も加味する。調整案はレオンに任せる。文句がある者は今、言ってくれ」


決断の言葉だった。

だが、それは誰もが飲み込みきれない種類の結論でもあった。


カスパが手を上げた。

「村長、そこまでは異論ありません。ですが……レオンが“公明正大”だと、みんなが納得できますか? さっきまで『俺はタダでやれ』って言ってた男ですよ?」


疑念は、どんな正論よりも速く、深く、広がる。

村に薄いざわめきが走った。


「このままじゃ、レオンが“神のように”振る舞うことになるんじゃないですか? ……アンドレ、これ、セーフだよな?」


アンドレは眉間に深くシワを寄せたまま、返事をしなかった。

その沈黙が意味するものを、場の誰もが敏感に察していた。

「神のように」――またしても、触れてはならぬものがこぼれかけた。

その名を軽々しく口にすれば、論理は祈りへ、祈りは疑いへと変わる。


場が再びざわつく。

先ほどまでの合意は、今や地盤の緩い橋にすぎなかった。

その上に重ねた約束の一つひとつが、ひび割れ始めていた。


カスパの皮肉混じりの指摘――「レオンの公正さの保証」。

それは単なる難題ではなく、この村の限界そのものだった。


村でただ一人、数字がわかるレオンに代わって按分を調整できる人間など、村にはもういない。

――アーデルを除いては。


その名を、まだ誰も口には出さなかった。

だが、空気はすでに、彼女の方へと重く傾いていた。

沈黙の中で、誰かがぽつりと呟いた。


「……アーデルに、レオンの計算を見てもらえばいい」


その一言は、決定打ではなかった。

だが、逃げ道のない議論に、わずかな綻びを与えた。


こうして、“善意につけこもうとした者”と、“善意を信じた者”という奇妙なチームが、半ばなし崩しに成立してしまった。

誰も望んだかたちではなかったが、誰も否定できるかたちでもなかった。


だが――「食料調達」の問題は、依然として宙に浮いたままだった。

そして今、新たな問題が浮上しつつあった。

それは、「修道院での耕作奉仕を、誰が担うのか」という、避けては通れぬ問いだった。


「アーデルじゃダメなのか?」


村寄の一人が恐る恐る呟いたが、それに対する反応は、予想以上に激しかった。

まるで火薬の樽に火花が落ちたように、声が爆ぜた。


「ダメに決まってる。あの魔法を見たろ? 想像してみろ、どうなるか」

「修道士が見たら発狂する。奪われて終わりだ」

「領主も、市の評議会も、黙っちゃいない」

「大学もだ。魔術の材料にされるぞ」

「教区だって。“虹のきせ……恩寵”を見たんだ。無理やり教会行事に組み込まれて、それっきりだぞ」


言葉は、恐れというより先回りした絶望だった。

村の外と繋がるすべての線が、アーデルを奪う道へと続いている――誰もがそう感じていた。


そんな中、不意にカスパが薄く笑い、皮肉を飛ばした。


「ああ、お前らのようにな」


それは、自らもまた“信仰の名のもとに利用された”者としての苦い自嘲だった。


「お前が言うな!」

「お前が一番だ!」


一斉に怒鳴り返されても、カスパは肩をすくめるだけだった。

責める怒声も、もはや本気ではなかった。


「……アーデルは村の財産だ。守り通すしかねぇ。誰にも、渡しちゃならねぇ」

「そうだ……精霊様だって、代々守ってきたじゃねぇか。あの子も、そうすりゃいい」


徐々に、議論は現実から一歩ずつ逸れていく。

生身の少女を“象徴”へと還元しようとする、その声の連なりは、同時に罪悪感の希釈でもあった。


「精霊様といえば……そうだ、アーデルを森に隠せばいい。洞窟に入れちまえば、そう簡単には見つからん」

「……洞窟に入れたら、”帰らぬ子”になるぞ。精霊に還る。それこそ、消えてしまうって伝承もある……。だったら、森の中に“小祠の小屋”でも建てて、見張りをつけよう」

「……そうだな。万一……“気が変わって”精霊に戻ろうとしたら、止めなきゃならん。だが、助祭様には……何て説明する?」

「大変だ。おい、“成人洗礼”を受けるのは春だぞ。もう助祭様に言っちまった。なんてことしちまったんだ……」

「……だったらいっそ……。”バルバロイの病”ってことにしよう。アーデルは森で死んだと言――」


その言葉が最後の引き金になった。


「ふざけるな!」


怒号が飛んだ。

ヴァルトが卓を打つ勢いで立ち上がり、声を荒げた。

その目は怒りではなく、決して譲らぬという覚悟の光を帯びていた。


「俺の娘だぞ!? 何を勝手なことを言ってる。村人は村で暮らすのが、当たり前だ!お前ら、“尊重して保護”はどこへやった!」


その叫びは、誰もが言葉にできなかった正論だった。

だからこそ、誰も反論できなかった。


村長が、重々しく頷いた。


「……そうだ。我々は、村の中で“気配”を隠し、名を呼ばずに精霊様を守ってきた。アーデルも、それと同じだ。もう一人、守る者が増えただけだ。それが、村に伝わる正しいやり方だ」


その言葉は、責任を濁したり、逃げたりするものではなかった。

長年にわたり守られてきた、沈黙という伝統。

その延長線上に、アーデルもまた置かれたのだ。


「そうだな……これまで通りだ」


誰も、異を唱えなかった。


だがその沈黙は、すでに何かを諦めた者たちのそれでもあった。

“村を守る”という意志のもとに、“誰か一人を囲う”という判断。

それは、信仰でも愛でもなく、ただの現実対応でしかなかった。


そしてその現実の中で、アーデルは再び、名を呼ばれぬ者として孤立していく。



アーデルは自分の家の中で、生煮えの野菜がごろごろ入ったスープと、生焼けのパンに顔をしかめていた。


(ぐえぇ……まずい。最悪。なんで他人が作った土味スープをガリガリかじってんの? 飲み物じゃなくて、これ固形物じゃん。お母さんのスープが飲みたい……パンも、外は焦げてるのに中はぐちょぐちょで”食べるスープ”だよ。もう、いつまでこれ続くの?)


家の前では、女たちが即席の火床を囲んで、中途半端で止められた食材の山と格闘していた。

煮えているのか、焦げているのか、匂いだけではわからない鍋がいくつも並んでいる。


アーデルは半端にでっち上げられた料理とも呼べぬ物を食べ、外の子どもたちはその光景を見守っているのだった。


必死に料理する女もミーナも、アーデル自身ですら――

「供された食料はアーデルの物」

という観念にすっかり囚われていた。


アーデルの負担を減らす「失敗料理は交換し、各家庭で分散負担する」という発想が、誰の頭にもなかった。


――狂乱は終わっても、正気を取り戻すには時間が必要だった。



村寄所――


ようやく「修道院での耕作奉仕」問題がまとまりつつあった。

修道院の畑、橋の修繕、街道の補修などは村人がやる。

そもそも「修道院の畑」と「村の畑」の時期が一致していることが問題なのであり、「村の畑」をアーデルが耕すだけで労働奉仕の目処はつく。

余力があれば目立ちにくい「街道の補修」を見張りを立ててアーデルがすればいいということになった。

アーデルはこれまで通りヴァルト家で暮らし、要請があり次第耕起する。

アーデルが耕し、種まきなどは担当がこれまで通り行う。


残る問題は「食料の調達」。

村の倉が年貢で完全になくなるので、各家庭から提供される。

按分はレオンが広さや家庭事情に合わせ、アーデルがチェックするが、「何を提供」するかが問題になった。


「アーデルははちみつ、乳製品、肉、白い小麦粉、ジャガイモの順で欲しいって言ってたよな?」

「おれだって欲しいぜ」

「魔法と何か関係あるのか?」

「かみ……王様だと思ってんじゃないのか?」

「ヴァルトのとこ、悪いがチーズもなかったよな。なんで耕せた?」

「まずいぞ。レオンとアーデルが組んだら俺達どうなっちまうんだ」


話は一向に進展しなかった。

知識がない故の、疑心暗鬼だった。

「彼女は本当に“神の器”なのか」「どれほどの価値があるのか」「代償をどう分担するのか」。

答えの出ない問いが、場の温度をじわじわと奪っていく。


村寄所の会議は何度も暗礁に乗り上げ、舟は分解寸前だった。

誰もが声を上げ、誰もが自分の言葉に確信を持てず、やがて沈黙が訪れる――

そして再び、同じ言葉を繰り返す。

それは“議論”ではなく、“疲弊”の再生産だった。



そのころ、ヴァルトの家。

火床の火はすっかり落ち着き、室内の空気は、煤と焦げた麦の匂いで淀んでいた。


扉代わりの麻布がかすかに揺れ、ヴァルトが帰ってきた。

アーデルは火床の前で、しゃがみこんだまま皿を手にしていた。

だが、その手は止まり、目はどこか焦点を失っていた。


(はぁっ……もう無理。野菜は硬いし、スープはただのお湯だし、パンは焦げと粉だし……お腹いっぱいなのに満たされない……。これ、絶対消化に悪いやつ。あー……なんか、前世のママの食事の眷属だよ……)


目の前にあるのは“食事”のはずだった。

だが、温かさはあるのに、体はまるで反応しない。

ただ咀嚼し、喉に押し込むたび、胃がきしむ。

むしろ、食べるたびに体が重くなっていくようだった。


「おいアーデル、何してる!?」


突然の声に、アーデルは肩をびくつかせた。

それでも顔だけは必死に笑顔を作ろうとする。


「お父さん……がんばって……食べてる……の……」


ヴァルトは眉をひそめ、火床の鍋を覗いた。

そして傍らの皿に手を伸ばし、パンを持ち上げる。


端は焦げて黒く、中央はまだ湿っていた。

指にへばりつく粉は火が通っておらず、生地の芯は冷たかった。


「なんてこった。ミーナ! おい、ちょっと来い!」


すぐに外からミーナが駆け込んできた。

袖口は粉と煙で汚れ、顔にはうっすらと煤が浮かんでいた。

目の下には疲労の影がくっきりと残っている。


「おい、これじゃあんまりだろ。アーデルにこんなもん食わせてたのか」


「……ごめん。でも、食材が途中のまま放り出されてて、どれも仕上げられてないの。早い者順に、とにかく形にして出してるけど、次からは……もう少しまともになると思う」


言い訳ではなかった。

ミーナの声には責任と後悔と、そしてどうしようもない焦燥が滲んでいた。


ヴァルトは小さくうなずき、アーデルの傍にしゃがみ込んだ。

彼女の顔を覗き込むと、唇の端に乾いた麦の皮がくっついていた。


「……アーデル、もういい。少し休め」


「……でも、まだ残ってるから……ちゃんと食べるよ」


アーデルは、どこか義務のようにそう言った。

もらったからには食べなければならない――その律儀さが、逆に胸を締めつけた。


「いや、いったん休もう。実はな、村寄所で話が出てて……。お前の“好み”が全然理解されてなくて、説明してくれって言われたんだ」


「説明……?」


「はちみつやチーズ、どうしてそれが必要なのかと。……みんな混乱してる。行って説明できるか? できるなら、一度聞かせてくれないか」


アーデルは立ち上がろうとして、わずかによろけた。

だがすぐに、膝を踏ん張り直す。

頭の中はまだ靄がかっていたが、それでも進むことを選んだ。


「うん……わかった。行くよ」


彼女は、かすかな覚悟を声に乗せ、ヴァルトの背を追って歩き出した。


アーデルはヴァルトとともに村寄所に入った。

その彼女を目にした村長と村寄たちは、一瞬、言葉を失った。


――痩せ細った少女が、ぐったりと立っている。

腹だけが膨らんで見え、顔色は土のように青白い。

まるで、養分を絞り尽くされた植物のようだった。


つい先ほど、虹を出現させ、村を包んだ“恩寵”、あるいは”恵み”の「森の返り子」だと皆が讃えた姿は、そこにはなかった。

そこにいたのはただ一人、痩せて、疲弊しきった――少女だった。


アーデルは、精一杯の笑みを浮かべた。

だがその笑みは、痛々しいほどにぎこちなかった。


アーデルは、苦笑を浮かべながら話し始めた。


「こんにちは……あの、私が“贅沢な要求をする”って話ですか? ほんと、人の足元見て、最低ですよね……」


そう言って、小さく頭を下げる。


(もう……“いい子”なんて、やってらんない。あー、やばい、怒鳴ったら吹き出しそう。……一番嫌な人の前に、ちゃんと立ってあげるよ)


気丈に振る舞おうとする彼女の姿に、村寄の一人が思わず口をつぐんだ。

その痩せこけた腕、その細い首――。

誰もが「守らねばならぬ存在」だと、改めて思い知らされた。


村長が静かに口を開いた。


「……アーデル。いや、アーデル様。今朝の魔法の後で、こんな姿になるとは思わなかった。“食べねば動けぬ”というのは、本当だったのか」


「いつもの呼び方でいいです。帰って残りの大量の料理を食べないといけないので、要点だけ説明しますね」


そうふてくされるように言って、アーデルは説明を始めた。


本当は、「カロリー」や「吸収率」という単語を使えば一瞬で伝えられるはずだった。

だが、この世界にはそれを理解する術も、伝える手段もない。

代謝も、酵素も、消化器官も、知られていない。


彼女は何度も口を開いては閉じ、比喩や例え話を探し、語彙の壁にぶつかった。

その姿は、まるで異国の海図なき海を、手探りで進もうとする航海士のようだった。


「つまり、体に取り込まれやすい物は……油っぽいものってことか?」


(違う違う、油は消化に時間かかるけど、カロリーは糖の2倍なの。スカスカ野菜の数十倍、少量でがっつり燃えるんだよ……!)


「だが、はちみつは油じゃないぞ?」


(糖類が一番即効性あるんだよ。とくに、はちみつは単糖類が多いから、効きやすいの)


「どろっとしてる物がいいのか? じゃあ、パン生地なんかどうだ? 柔らかくしてさ」


(違う、ちがーう! アルファ化してないでんぷんは“栄養”じゃなくて“お腹で膨れる粘土”なの! 消化酵素の立場になって!)


アーデルの知識は高校の家庭科レベルにとどまるが、それでもこの村においては飛び抜けていた。

だがその知識は、地面に届かない梯子のように、目の前の相手に橋を架けるにはあまりにも高すぎた。


それでも彼女はあきらめなかった。

言葉を選び、比喩を編み、必死にカロリーを説明しようとした。”カロリー”という言葉を使わずに。


アンドレは訝しげに問いかけた。


「だが――なぜそんなことを知っているのだ? お前は司祭でも修道士でもない。誰がそのような知識を授けた? それは……神学に属するものなのか? それとも、異なるものか……」


「おいアンドレ、異端審問じゃないぞ」


ヴァルトが半ば怒ったように遮った。

「俺たちが分からないから、娘に教えてもらってるだけだろう。余計な詮索はやめろ」


「だがな……世の中には“ことわり”がある。その秩序の上で物事を考えねば、筋が通らんだろう」


言葉の応酬に、場の空気がわずかに揺らいだ。


「……あの、ちょっといいですか?」


アーデルの小さな声に、全員の視線が集まった。

一瞬の沈黙のあと、アーデルは咳払いをして話し始めた。


「コホン。私、好きでわがまま言ってるわけじゃありません。耕さなくていいなら、お父さんとお母さんと一緒に、いつもの食事で充分です。でも――耕してほしいんですよね? 魔法はたくさん食べないと、すぐ尽きてしまうんです」


誰も言い返せなかった。

「だから、いっぱい働くなら力がつく食べ物がほしい。豆とか干し肉とか。チーズやバターは腹持ちがいいですよね。ドロドロの麦スープはすぐお腹が空くでしょう? それぞれ、違う働きがあるんです」


アーデルはゆっくりと、静かに言葉を続けた。

「スープだけでずっと力仕事ができるなら、もう何も言いません。けど、そうじゃないですよね?」


彼女の言葉は論理的だったが、どこか悲鳴のようでもあった。

理解してほしい、という願いと、言葉にならぬ焦りが混ざっていた。


その時、レオンが静かに口を挟んだ。


「アーデルの言うことも、もっともだ。けど……何か、隠してないか? いや、正直なのはわかる。ただ、説明の時に、何か……言い換えてないか?」


(するどい! そう、カロリーだよ。いちばん言いたいこと。高カロリーの食べ物が必要なの。でも“カロリー”って言っても、絶対通じないよね。うーん……あれ?)


「……熱量?」


アーデルは思わず、声に出していた。


その一言に、周囲の何人かが眉をひそめた。

だが誰も、即座には意味を問わなかった。

むしろ、その言葉の響きに、ある種の重みすら感じ取っていた。


「なんだ、それ?」


誰かがぽつりと漏らしたその疑問に、場の空気がふっと変わった。

焚き火のはぜる音の向こうで、村寄たちの顔が一斉にアーデルに向いた。


アーデルは、少し緊張しながらも一歩踏み出すように口を開いた。


「ものすごく簡単に言うと、“どのくらい燃えるか”なんです。ええと……たとえば、バターとかチーズ。火をつけると、意外と長く燃えるんですよ」


数人が顔を見合わせた。


「チーズ燃やしたことなんかないけどな」


「うちのかかぁ、パン釜に落としたチーズで大騒ぎしたぞ。火がついて、煙がすごくてさ」


「それそれ!なかなか消えなかったでしょ? 脂って、長く燃えるんです。そうだ、ろうそくとかもそう。あれも脂の一種ですから」


アーデルは身振りを交えながら語った。

その様子は、必死に伝えようとする教師のようで、けれど子どもらしい愛嬌もあった。


「いやいや、だったら藁や薪だって燃えるだろ。あれ、食えねぇぞ?」


「もちろん、食べられるものだけの話です!食べ物の中で、どれが“よく燃えるか”。燃えやすくて長持ちするものほど、体の力になるんです」


「でも麦粉は? あれだって力になるぞ?」


「焼いたり茹でたりすれば、です。生の粉は力にならないし、まずくて食べられないでしょ? 水が少ないパンにすれば熱量が高いです」


彼女の説明は、徐々に村寄たちの頷きを引き出し始めていた。

アーデルの語る言葉は難しい理屈のようでありながら、どこか感覚に訴えかける力があった。


「なるほどな……たしかに、スープだけじゃ腹はもたんな」


「でしょ? だからこそ、はちみつとか干し肉とか、脂っこいものが必要なんです。スープや粥も必要ですけど、それだけじゃ足りない」


「はちみつって、燃えるのか?」


「すごく乾かせば燃えますよ。しぶとく、じわじわと。あれも“力のかたまり”なんです」


「ふうん……。なんだか、よくわかったような、わからんような……」


「でも、理屈は通ってるな。油っこいもんのほうが、力がつく。たしかに、体が温まる気がする」


「いいこと言った!私のバルバロイでは、“体の中でゆっくり燃える”と考えているんです。もちろん、本当に火がつくわけじゃなくて……体の奥が、陽だまりみたいにじんわりと温まる、そんな感じです」


村寄たちは黙って聞いていた。

中には腕を組んで考え込む者もいれば、うんうんと頷いている者もいた。


「なるほどな……」


「だから“熱量”って言葉を使うのか。面白ぇこと考えるな、お前」


その一言に、アーデルは思わず肩の力を抜いた。


(よかった……なんとか通じた。炎で例えて正解だったかも)


彼女はそっと胸をなでおろした。

その表情には、安堵と、ほんのわずかな誇らしさが浮かんでいた。


「じゃあ、私はこれで。あの、無理にはちみつとか白い小麦粉を買ったりしなくて大丈夫です。あれ、たしか貴族や聖職者の特別な食べ物なんですよね? だから……もし余ってたらでいいので、チーズとかからもらえたら、嬉しいです」


そう言って、アーデルは軽く会釈し、そっと後ずさるようにして場を離れようとした。

このまま静かに終われたら、それでよかったのに――


「ちょっと待て」


レオンの声が背中に飛んできた。


(うわ、今の感じで終わりたかったのに……今度は何?)


アーデルは小さくため息をつきながら、振り返った。


「さっきから苦しそうだったけど、今は何食べてんだ?」


「あー……その、村のみんなが慌てて作った料理の、失敗したやつです。もったいないので、片づけてる感じで」


「どう失敗してる?」


(うーん、言わなきゃよかったかな……でもさ、あれって“愛情”より“劣情”……いや違う、劣情はちがう意味だっけ? まぁ、とにかく……あれは“雑さ”が詰まってる味なんだよね)


「誰のとは言いませんが、土が落ちてない生煮えの野菜とか、外は焦げてて中がどろどろのパンとか……ですね」



レオンの眉がぴくりと動いた。

そのわずかな動きには、怒りというよりも、信じられないものを目の当たりにした時の驚きがにじんでいた。


「まさか、それがまだ大量に残ってるってわけか?」


アーデルは一瞬、答えるべきか迷った。

場にいた誰もが耳を傾けているのがわかる。

けれど嘘をついても仕方がない。小さくうなずき、ぽつりと口にした。


「……そのまさかです」


空気がわずかにざわめいた。

会議の場にいた数人が、思わず顔を見合わせる。

“それ”が何か、想像がついてしまったからだ。


「なんでお前が一人で引き受ける? 食えるなら分け合えばいいだろう。村全体で手分けすればいい。お前は、チーズとか干し肉とかを食えばいいじゃないか」


それは、純粋な疑問だった。

なぜ彼女が、誰も食べたがらない“失敗作”を、当然のように自分一人で引き受けているのか。

魔法を使い、村を救おうとしている本人が、なぜ最も貧しい食事を選んでいるのか――

その理不尽さに、レオンは言葉を飲めなかった。


アーデルはその場で固まった。

何かを考えるでもなく、ただぽかんと、レオンを見返していた。


「え? あ、あれ……?」


自分でも、何に驚いているのかわからなかった。

ただ、レオンの言葉が、心の奥深くにまで届いてきた。


(え……? わたし、一人で全部やらなきゃいけないって……思い込んでたんだ。誰もそう言ってないのに……)


理解が、じわじわと体に染みていく。

アーデルは、ゆっくりと、呆然としたまま、立ち尽くしていた。


(え、そうだっけ? そっか、一人で全部背負う必要なんてなかったんだ……なんで今まで気づかなかったんだろ?)


アーデルはきょとんとした顔で立ち尽くした。

その無防備な表情に、場にいた者たちはほんの少しだけ息を抜いた。

頑なだった空気が、わずかに緩んだ気がした。


こうして、アーデルはようやくまともな食事にありつけることになった。

ささやかな、しかし確かな一歩だった。


──リヴィナ村の村寄会議は、まだ始まったばかりだった。

耕される前の広大な畑には、誰も知らぬ火種が、静かに潜んでいた。


それは、“混沌”という名の火種だった。

芽吹く前の地中で、音もなく熱を孕みながら、時を待っている。



やがて村を揺るがす争いの種が、いま、静かに蒔かれつつあった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る