第8話 希望のクレープと貢献麦

村寄むらより所の会議は延々と続いた。


まず、魔法の維持に必要とされるもので、高価で用意できない物、「はちみつ、白い小麦粉」は除外された。

残る「チーズやバターなどの乳製品、干し肉、ジャガイモ」といった希少食料を、アーデルに優先的に供給することが確認された。

ジャガイモも、まだ備蓄が残る家庭があるという。


アーデルは村内耕起を引き受け、代わりに村人たちは修道院の畑や、街道、橋の修繕といった労働奉仕を担う。

村全体が持ち回りに近いかたちで食料を共同提供し、それを“対価”とする――


ここまでは、ひとまず大枠は合意されたように、見えた。


しかし、その静けさは長く続かなかった。

誰かが口火を切った瞬間、堰を切ったように不満が噴き出した。


「乳製品は日持ちしないぞ。全家庭が持ってるわけじゃない。どうするつもりだ?」

「足の早いチーズだと、今の時期じゃせいぜい三日がいいとこだ。霊気に取り憑かれたら意味がない」


「で、魔法耕起の順番はどうするんだ? 希望した者から順にか?」

「それも、レオンとアーデルで決めるのか? 権限を集めすぎじゃないか。支配者気取りか?」


「レオン、原則は畑の広さに応じて麦の供出だったよな? 供出量が多い順に耕起するのか?」

「待て待て、麦じゃなくて乳製品、干し肉やジャガイモが必要なんだよな? 畑小さくて牛持ってるヤツの按分はどうすんだよ」

「貧乏な家は後回しってことか? それじゃ、種まきまでに間に合わない家が出る」


不安の波が広がり、会議の空気が再び乱れ始めたそのとき、誰かがぽつりと呟いた。


「そもそも、あれは“神の恩寵”だろ? 人間が勝手に順番を決めていいのかよ。秩序をねじ曲げたら、罰が当たるんじゃないか?」

「だったらどうするんだ。希望者が殺到して、またさっきみたいな狂乱が起きたら……?」


議論は紛糾を極めた。

アーデルの魔法がもたらすはずの恵みは、皮肉にも、村に新たな問題の種を蒔き始めていたのだ。


魔法の維持に必要な食料の供給を巡り、家々の経済力による格差が浮上する。

そして、最も恩恵を受けるべき畑の耕起順序についても、公平な基準が見つからず、不満が渦巻く。


さらに、その全ての決定権がアーデルとレオンの二人に集中することへの懸念が、村人たちの間に根深く広がり始めていた。


ヴァルトはもう何も言わなかった。

ただ腕を組んだまま、静かに皆の言葉に耳を傾けている。

彼の役割は、彼自身が既に決めていた。

娘を、アーデルを守ることだけである、と。

やがて、低い声で言った。


「娘に関しては、心配するな。敬意を払えば、村寄衆の指示通りにしっかりやる。頭なんか下げなくていい。普通に、村の仲間として扱ってくれ」


その一言に、場の空気がわずかに緩んだ。

ヴァルトに続き、今度はレオンが前に出た。


「俺だって村寄の一人だ。これまで記録係としてやってきたし、これからも村のために働く。少しは、信じてくれてもいいと思う」


その声には、怒りではなく、わずかな悔しさと誠実さがにじんでいた。


──いつまでも疑い続けていては、何も決まらない。


不満がすっかり消えたわけではない。

それでも、誰が決めるのかという問題は、ひとまず整理された。

この場にいる村寄衆の意思が、そのまま魔法耕作の方針として反映される──

そういう形で、場はひとまずまとまりを見せた。


残るは「食料供出の順番」と「魔法耕起の順番」。

これをどう制度化するか。


沈黙のなかで、レオンが話を進める。

「それでさ、食料の提供は──毎日くじで決めよう。公平にするには、それしかない」


村寄たちは戸惑い、互いを見回した。

「くじ、だと……?」


誰かが、ぽつりとつぶやいた。

その声に応じるように、場の空気がざわめいた。

神を試すようなやり方ではないかと、一瞬ためらいが広がった。


それもそのはずだった。


くじは、古来より「神の意志を問う手段」とされる一方で、教会にとっては最も警戒すべき行為のひとつだった。

正統なる祭儀を経ず、個人が恣意的にくじを用いることは、神の名を軽々しく呼ぶのと同義とされ、「偶像的・魔的」として糾弾されてきた。

ことに運命や配分を決めるくじは、“神の権能を私的に利用する企て”とみなされ、長く忌避されていた。


だが、レオンは構わず続ける。

「俺の言葉が信用できないなら──神の采配に任せよう」


静まりかけた集会のなかで、その一言は不思議と重く響いた。

誰にも責任が降りかからず、誰にも恨みを向けられない。

それを“神意”と呼ぶなら、反対する理由は見つけづらい。


だが、それでも――


揺れ動く空気のなか、視線はしだいに一人の男へと集束してゆく。

村で最も教義に忠実な男──アンドレ。


彼に問うことは、すなわち神に問うことに等しかった。


しばしの沈黙ののち、アンドレは静かに口を開いた。

「……公平のためのくじであれば、神の秩序に従うものと信じる。賭けごとではない。……きっと、お赦しくださる。進めてくれ」


“公平”──それは、誰もが同じ痛みを引き受けることではなかった。

むしろ、責任を神に預けるという名目のもと、誰もが黙らざるを得ない仕組みだった。


その声には、かすかに疲労の色がにじんでいた。

進まぬ議論、募る焦燥。

魔法耕起を“恩寵”と定め疑わぬ会議への鬱屈。

アンドレ自身も、心のなかで繰り返していた。


──アーデルに頼ると決めた以上、とにかく動き出さねば。

無為に時を費やすことこそ、神の御意志に背く。


くじは、アンドレにとって苦渋の妥協だった。

だが、レオンには違って映った。


教義に厳格なアンドレが認めた。

理屈も通っていた。

……ならば、これで通せる。


レオンは続けた。

「毎日、三軒。くじで選ぶ。選ばれた家は、その日に出せるなかで一番いい食料を出してほしい。乳製品でも、干し肉でも──ジャガイモでもいい。……なんなら、白パンでも」


「どこの家に白パンがあるんだよ」

カスパが低くぼやいた。

笑いとも呆れともつかない声だ。


「……もし、の話さ。

いちおう言っただけだよ」

レオンは苦笑しつつ、すぐに本題へ戻す。


「どれも出せないって時は、すぐに他の家から麦で買って、なんとか整えてくれ。もちろん、一度当たった家は、全員が回るまで抽選から外す。それで不公平は避けられるだろ」


レオンは一呼吸置いて、皆の目を正面から見返した。

「──これで、どうだ。俺の言葉が信用できないってんなら……せめて、神の采配に任せようや」


レオンの言葉に、しばし沈黙が落ちた。


たしかに──くじなら、誰も責められない。

強制でもなく、押しつけでもない。


それでもなお、誰かがつぶやきかけた声は、喉奥で飲み込まれる。

ざわつきかけた空気を、誰かのため息が吸い込み、また静寂が戻る。


やがて一人、また一人と視線がゆっくりとうなずきに変わり、

村寄衆たちは、静かにその提案を受け入れていった。


神の采配──そう言われれば、それ以上否やは言いづらい。

それが、この場を最も穏便に収める唯一の術であることを、

皆が、どこかで悟っていた。


そこに、またカスパが口火を切った。

「食料供出はそれでいいとして──魔法耕起の順番は? どう公平に決めるんだ? 真の公平があるならば、だが」


しばし沈黙が続いたのち、レオンが口を開いた。

「……なら、こういうのはどうだ。“労働奉仕”で、魔法耕起の優先権を買う」


唐突すぎる提案に、ざわつきが一瞬止まった。

カスパが目を細めて、訝しむ声を上げる。

「は? なんだそれ……?」


リヴィナ村の会議は迷走することになった。



ヴァルトの家では、アーデルがひとり、一日中、高カロリーな食べ物を少しずつ摂り続けていた。

食卓にはハードチーズにフレッシュチーズ、バターと干し肉。どれも保存のために塩気が強く、喉が乾く。

そのためアーデルは、ジャガイモのスープとエールを、飽きるほど飲み続けていた。


ミーナは朝から薬草摘みに出かけていて、アーデルは火の番を任されていた。

このリヴィナ村では、子供でさえ深夜まで働くのが当たり前だ。

そんな村で、日中に何もせず食べ続けることが、彼女にはどうしようもなく後ろめたかった。

罪悪感が、口に入れるたび喉を塞いだ。


昼下がり。

柔らかな陽が、火床の煤けた壁に斑模様を落としていた。

その光の中に、食べ物の匂いが重たく漂う。

アーデルの脳裏には、朝の「狂乱の宴」で見た村人たちの飢えた目が焼きついていた。


彼女は今、温かい火床のそばで、塩辛いチーズと干し肉を頬張っている。

そのことが、外にいる人々との距離を、痛いほど思い知らせた。

皆が忙しく働いている外で、食べるわけには行かない。

「まともな食事」が、どれほど特別なことか。

それはただの差ではなかった。

分断だった。


戸口から控えめな声がした。

「アーデルいるか? 入るぞ」


かすかに開いた扉のすき間から、ヨハンが顔をのぞかせた。

照れくさそうに立ち尽くしている。

いつもは泥で真っ黒なシャツが、今日は珍しく洗い立てで、清潔だった。

きっと家で一番の服なのだろう。

日に焼けた浅黒い肌が、どこかそわそわと落ち着かない。


「ヨハン、どうしたの? 仕事は?」


アーデルはそう声をかけたものの、自分の姿が急にみすぼらしく思えた。

この家で、ただ食べて過ごしているのは、自分だけだ。

食料の供出という「罰」を村人たちに課しておきながら、その本人がぬくぬくと満たされている。

その事実が、胸をきゅっと締めつけた。


「……ああ、母ちゃんに言われて来た。さっきの件で、変なこと言ってゴメンな」


ヨハンの言葉は、どこか遠くから聞こえるような感覚だった。

アーデルはすぐに察した。

また、あの母親が何かを吹き込んだのだ。


「お母さんに謝って来いって? でも、言わせたのはお母さんじゃないの?」


アーデルの声には、わずかに苛立ちがにじんでいた。

昨日の会議のあと、また新たな火種が起きたのだろう。


「……それがな、もっとアーデルに頼んでこいって言われてんだ。お前には関係ないし、俺も本当はしたくないんだ」


ヨハンは困ったように頭を掻きながら言った。

その顔には、親の勝手な期待と、それに振り回される子どもとしての葛藤がありありと浮かんでいた。


(自分の子供まで使って……まいったな。結局、うちの両親の思う通りになってる)


アーデルは心の中でため息をついた。

前世の常識では計り知れない、この村の空気。

「正論」だけでは人は動かない──それが、今の彼女の実感だった。


「アーデル、俺のことは気にすんな。会議で村寄衆が話し合っってんだろ? ちゃんとわかってる。俺は、それだけで十分だと思ってるから」


ヨハンは、優しい目でアーデルを見た。

その視線が、張り詰めていた彼女の心を、ほんの少しだけほぐした。


「うん……ありがとう。でもね、これ以上なにかやったら、また皆が暴走しちゃう気がして。だから私、勝手に魔法は使えないの」


アーデルは、率直な気持ちを口にした。

魔法を使えば、すぐに畑は耕せる。

けれどそれが、再び村の秩序を乱すかもしれない。

あの「狂乱の宴」の再来を思えば、軽はずみに力を振るうわけにはいかなかった。


「座っていいか?」


ヨハンはそう言って、火床を挟んでアーデルの向かいに腰を下ろした。


「でさ、一応ここで頼んでるってことにしないと、かあちゃんが納得しないんだ。……しばらく、いさせてくれないか?」


その言葉に、アーデルはふっと肩の力を抜いた。

ヨハンの瞳には、子どもらしい計算と、それでも誰かを気遣うまっすぐな優しさが宿っていた。


「もちろん。退屈してたところだったの」


アーデルは、ようやく心からの笑顔を見せた。

この世界で、気軽に話せる唯一の友達──それが、ヨハンだった。


「ヨハン、これ少し食べる?」

アーデルは、手にしていたハードチーズを差し出した。

分厚く切られ、塩でしっかり固められたそれは、村で最も贅沢な食べ物のひとつだった。


だが、ヨハンは静かに首を横に振った。


「いや、ありがとう。さっき食ってきたからいいよ。……また今度、な」


アーデルの胸に、ふと壁の存在がよぎった。

目の前に贅沢な食べ物があっても、ヨハンは遠慮したのだ。

それはきっと、罪悪感からだった。いや、そう感じざるを得ない空気が、村全体に漂っているのだ。


彼がこのチーズを口にすれば──

それは、彼自身の家族への裏切りであり、

村の苦しみから目をそらすことでもある。


その重さが、まだ幼い彼の心を、見えない鎖のようにきつく縛っていた。


「……そっか。じゃあ、また今度ね」


「うん……」


短い返事とともに、二人のあいだに静かな沈黙が落ちた。

火床の火がぱちぱちと音を立ててはぜ、重い空気だけが、ゆっくりと漂っていた。


ヨハンは、元気がなかった。

言葉を交わさない時間が、じわじわと伸びていく。

火床の火がぱち、ぱちと弾け、その音だけが、二人の間に残された静寂を際立たせていた。


アーデルは、ふと目の前のスープに目を落とす。

そこには、煮崩れたジャガイモが、静かに溶け込んでいた。


──ジャガイモだ。


ヨハンと一緒に植えた。

「収穫したら一番に一緒に食べよう」──そう約束して、涙を流した日のことを思い出す。

けれど、それを果たせなかった。

後悔が、津波のように押し寄せてくる。


「ヨハン……ジャガイモ、食べちゃって……ごめんね」


声は自然と震えていた。

ヨハンは少しだけ顔を上げる。


「……なんだ、そんなことか。うちだって、まだ残ってるよ。それに、約束したのは“あれ”だろ? 俺のジャガイモ。あれは、一番に食おうな」


少し笑ったヨハンの顔には、ほんの少しの諦めと、たしかな優しさがあった。

その笑みが、アーデルの張りつめていた心を、そっと緩める。

彼女は、心の奥底で感じていた重圧が、少しだけ軽くなるのを感じた。


「……うん。じゃあ、約束はまだ有効。楽しみにしてるね」


アーデルは、自分自身に言い聞かせるように、そしてヨハンと、もう一度約束を交わすように言った。

その声には、確かに安堵の色が滲んでいた。


しばしの沈黙のあと、ヨハンがちらりと手元を見る。

アーデルの手の中にある、塩で固められたチーズだった。


「アーデル、それ……うまいのか?」


ヨハンは話題を作るため、なんとなしにアーデルが持て余しているチーズについて聞いた。

だが、アーデルは彼の言葉を、食料を要求する声だと受け取った。

アーデルは気を利かせ、すぐに差し出した。


「食べてみる? いいよ」


アーデルが差し出そうとすると、ヨハンはゆっくりと首を振った。


「いや、いいんだ」


今はアーデルと少しでも貸し借りを作るべきではない──

そう思ってヨハンは拒絶した。

だが、断ったヨハンは、アーデルの表情が曇ったのを見て、ひどく後悔した。

自分の拒絶が、また彼女を気落ちさせてしまったのだと、胸が締め付けられるようだった。


僅かな沈黙が流れる。

このままでは、またアーデルを傷つけてしまうかもしれない。

楽しいことを考えてもらおう。

そう思ったヨハンは、急いで次の質問を口にした。


「そうだ、アーデルが、今まで食べた中でいちばんおいしかったものって、何?」


「いちばん……?」


思いがけない問いに、アーデルは少し目を細めた。

そして、記憶の奥をそっとたぐり寄せる。


──それは、前世の記憶だった。

離婚した父親と初めて会った日。

母の目が届かない場所で、ようやく手にできた甘いもの。

街角の屋台で買ってもらった、薄く焼かれた生地に、クリームとフルーツがくるまれたお菓子。


「そうだね……『クレープ』かな。それを食べたときが、一番しあわせだったと思う」


「クレープ……?」


ヨハンは眉をひそめ、首を傾げた。

この世界では耳にしたこともない、異国の響きを持つ言葉だ。


「うん、バルバロイの世界の食べ物。……たぶん」


アーデルは、少し笑いながら続ける。


「まずね、白くて細かい小麦粉を水で練って、卵を入れるとふんわりするの。バターも混ぜて、焼くと、いい香りがして……それに、砂糖──蜜とか、熟した果物のしぼり汁とかを入れて……」


言葉を紡ぎながら、アーデルの瞳に淡い光が宿っていく。

現実から少し浮かび上がるような、夢の記憶の味。

それは、幼いころに憧れた「自由」の味でもあった。


アーデルは、前世で一度もクレープを自分の手で作ったことがなかった。

母親の厳しい監視下では、甘いものは“毒”とされ、小遣いも与えられなかった。

甘味に憧れるたびに、彼女は図書館へ行き、レシピ本を読み漁った。

いつか一人暮らしができたら、好きなだけクレープを焼こう。

──自分の思い通りに、生地を焼き、具を包み、甘さを選べる日が来たら。

その想いは、アーデルにとって“自由”そのものだった。


手作りのクレープ。

それは、彼女の前世で叶わなかった夢。

まるで魔法のように思えた、それだけが唯一、自分の未来を照らしていた。

その夢の記憶を語りながら、アーデルの目には、遠い日の憧れがふっとよみがえっていた。


ヨハンはというと──

年に一度、城塞都市の大市でしか見たことのない食材の名前に耳を傾け、真剣な表情で聞き入っていた。

彼の想像のなかで、クレープという未知の食べ物が、きらびやかに形を変えてゆく。


「……でね、できたクリームを中に入れて、くるくるって巻いて、手で持って──あったかいうちに食べるの。甘くて、びっくりするくらい幸せな味なんだよ。思わず笑っちゃうくらい」


その声は、まるで魔法の呪文だった。

アーデルの語る言葉が、ゆっくりと、ヨハンの心の奥に染み込んでいく。


「すげぇな……それがクレープか。夢みたいな食べ物だな」


素直なその言葉に、アーデルは静かにうなずいた。

だが、アーデルが語るクレープは、もう自分のものではない。

夢で描いた空想の物語のように、心の小箱にしまうための儀式でだった。


「うん。夢だった、ほんとうに」


この制度の網の目に縛られた世界でも、ヴァルトとミーナがいる村で過ごす時間は嫌いじゃなかった。なにより両親を愛していた。

けれど、クレープ──あの自由の象徴だった甘い食べ物だけは、この世界では永遠に手の届かない贅沢だと、アーデルは少しずつ実感しはじめていた。

その気づきが、顔に微かな影を落とす。


だが──


「いいなぁ、クレープ。……じゃあ、作れるように頑張んなきゃな!」


ヨハンの声が、その影を払いのけた。

彼はちがった。

その瞳には、まっすぐな希望の光が灯っていた。


「……え?」


アーデルは思わず目を見開いた。

何を言われたのか、理解するのに少し時間がかかった。


「作り方、知ってるんだろ? だったら、あとは材料と道具を揃えるだけじゃん」


ヨハンは、ごく当たり前のことを言うように、何のためらいもなく言葉を重ねた。


「でも……蜂蜜とか、貴族とか聖職者じゃないと手に入らないよ? そんなの、無理だよ」


アーデルは、この世界の厳しい身分制度を思い出し、現実的な反論を返した。

けれど、ヨハンはどこ吹く風だった。


「そんなの関係ないだろ。おれは聖職者じゃないけど──魔法が使えるんだぜ? だったらクレープだって、作れるさ」


その言葉は、アーデルの頭に、稲妻のような衝撃を与えた。


そうだ、この世界には「魔法」がある。

制度に縛られずに道を切り開ける、新たな力が──確かに、ここにはある。


アーデルの胸の奥に、忘れかけていた熱が灯った。


「そうか、そうだね」


アーデルの胸に、忘れかけていた熱がふっと蘇る。

ヨハンのまっすぐな言葉が、凝り固まっていた思考をゆっくりと溶かしていく。


「だろ? やればできるって。お前は、この村で二番目の魔法使いだ」


ヨハンは、少し得意げに胸を張った。


「そうだね。……私、いつかきっとクレープ作れるようになるよ!」


アーデルの瞳に、強い光が宿った。

それはもう、諦めでも逃避でもない。

未来に手を伸ばそうとする、確かな意志の輝きだった。


「ああ、やろうぜ! まずは奉仕だ。終わったら材料、探しに行こうな!」


ヨハンは勢いよく立ち上がった。

その顔には、活力と希望が溢れていた。

さっきまで曇っていた表情が、まるで陽が差したように明るい。


「うん。私もがんばる。魔法耕起、見ててね。あっという間に終わらせるから!」


「おう、まかせた! ……じゃ、俺も仕事行くわ。邪魔して悪かったな」


ヨハンは満足げに笑い、扉の方へと向かう。


「ううん。……私も、楽しかった」


アーデルの声は、どこか晴れやかだった。

さっきまで胸の奥を占めていた罪悪感は、もうほとんど消えていた。


「じゃあな」


ヨハンは振り返り、軽く手を振って家を出ていった。


アーデルは、火床のそばで一人、目の前のハードチーズを見つめた。

塩気の強いそれは、ほんのさっきまで「重荷」に見えていた。

けれど今は、なんのわだかまりもない。


彼女の視線の先には、まだ見ぬ未来が広がっていた。

──この村の未来。

そして、いつかヨハンと一緒に、自由な気持ちでクレープを食べられる日。


それは、夢の続きを描き直すような時間だった。

確かにまだ遠い。けれど──もう、届かない気はしなかった。


(そうだよ。こんな身分社会なんか関係ない。自由にクレープを食べられる世界を作るんだよ!)



*


村寄所では会議が続いていた。長い会議に、更にレオンが未知の提案をした。

“労働奉仕”で、魔法耕起の優先権を買う。

暗黙の協力で支え合い続けてきた素朴な村に、”成果制度”が提案されたのだった。


「いいから、落ち着けって」


レオンはゆっくりと周囲を見渡し、言葉を選びながら続けた。


「今の制度じゃ、俺たちは魔法の代わりに外仕事──修道院の畑とか、橋の修繕をやるんだろ? だったらさ、奉仕と魔法耕起は表と裏だよ。村は、奉仕を早く片づけたい。俺たちは、種まきを急ぎたい。だったら──」


一拍置き、彼は机を軽く叩いた。


「“たくさん奉仕した者”から、魔法耕起の恩恵を受ける。つまり、奉仕の貢献が多い家が、その日の耕起を“買う”ってわけだ。……ヴァルト、魔法耕起は一日一世帯分だよな?」


ヴァルトは、腕を組んだまま難しい顔を崩さなかった。

「ああ……目安としては、それくらいだな」


そのとき、小屋の一角から声が飛ぶ。


「何で買うんだよ。銀貨なんか見たことないぞ?」


笑いが起きた。

古ぼけた壁にぶつかった笑い声が反響し、少しだけ場が和んだ。


レオンも釣られて笑いかけ、すぐに真顔に戻った。


「……いや、銀貨じゃないさ」


レオンは笑いが静まると、続けた。


「だが銀貨ってのは悪くないアイデアだ。けど、これはあくまで労働奉仕専用だ。……俺が記録を取るよ。貢献度に応じてつけて、一番多い奴を教える」


「おいおい、さっき“くじ引きで神の裁定に任せよう”って話がまとまったばかりだろ? それにお前とアーデルしか数字読めないで、公平って言えるのかよ」


苛立ちを隠せない声が、提案に水を差した。


「そうだ。数字をミミズに変えたって、俺たちゃ見分けつかん。今でもさっぱり違いがわかんねぇよ!」


嘲笑じみた声がそれに続き、小屋の中にまた笑いが広がった。

その笑いは、レオンの言葉を否定し、彼の権威を揺るがすようだった。


レオンは頭を掻きながら、小さくぼやいた。


「……まぁ、確かにな。何か、もっとわかりやすい手がないか……?」


彼は、自分たちの提案が村人たちの感情的な壁に阻まれていることを痛感していた。

めずらしく、これまで口を閉ざしていた村長むらおさが、重々しく口を開いた。


「麦はどうだ。村じゃ、麦がすべての基本だ。貸すのも借りるのも麦。助け合いの証しも麦だった。……麦こそが、この村で信頼できる“貨幣”じゃないか」


その言葉に、村寄たちの顔つきが変わった。

古くからの習慣に根差した、具体的でわかりやすい「価値」の提案に、何か可能性が見えたようだった。

だが、すぐに現実的な問題が持ち上がる。


「けどよ、普通の麦と“貢献の麦”が混ざったら意味ないぜ?」


誰かが疑念を口にした。


「悪いが、俺なら間違いなく混ぜる。……誰か、俺を止めてくれ」


自嘲めいた言葉に、また笑いが起きる。

しかし、それはどこか乾いた笑いだった。


だがその中で、アンドレの目が鋭く光った。

「神の目を欺こうとするな。……それは自分の魂をごまかすことだ」


その声には、一切の迷いがなく、場の空気を一瞬で引き締めた。


静けさが戻る。

アンドレはその静寂に重ね、誰もが息をのむ中で、静かに、しかし力強く己の信念を告げた。


「俺は麦に反対だ。労働奉仕は、神への感謝であり、村全体の助け合い。競い合うものではない。それは、信仰の根幹を揺るがす行為だ。あくまで、平等であるべきだ」


彼の言葉は、教義に則り、決して譲れない一線を引くものだった。


静まり返った小屋に、今度はカスパの、どこか挑戦的な声が響いた。


「いや、ここはやるべきだろう。確かに村の助け合いだ。同時に、誰もが自分の畑を先にやってもらいたい。等しく恩寵を頂けるならいいが、アーデルは奇跡ではない。なぁ?」


そう言うと、カスパはアンドレを真っ直ぐに見つめ、挑発した。

その目は、アンドレの前でさらに”奇跡”という言葉を使う、挑発であった。


「カスパ、次はないと思え」

アンドレの声は低く、怒りを押し殺した響きがあった。

信仰の根幹を揺るがす発言に対し、真面目過ぎる彼は、感情的に爆発することなく、ただ言葉で戒めるしかなかった。

その表情は、苦痛に歪んでいた。


レオンは、カスパの介入に内心で安堵した。

これで流れを変えられる。


カスパはそれも予想していたかのように、アンドレの沈黙を好機と捉え、構わず続けた。


「でだ。我らが助け合い、神の集いし修道院に労働を捧げる。その働きにおいて、神の御心に適い、最も精励した者にこそ、魔法耕起という聖なる恩寵が与えられるってわけだ。さあみんな、細かいところ詰めてくれ」


カスパは、レオンが先ほど提案した教義的な言葉を巧みに使い、あたかもそれが村の総意であるかのように強引に話を進めた。

村寄衆は若干の違和感があったものの、アンドレが起こした沈黙から逃れるため、その強引さに押し流されるように、話を続けるしかなかった。


「見分けの話だが、ほんの少し炙って、色を変えられないか? ……麦の精霊に失礼になる?」


村寄の問いかけに、わずかなざわめきが広がった。

信仰心の厚いこの村では、食べ物、とくに麦は神聖なものとして扱われる。

精霊への配慮は、彼らにとって重要な意味を持っていた。


「いいな、それ。かき混ぜながらやれば、焦げも均一になる。ムラが多いなら選り分けりゃいい」


実用的な意見が飛び出し、ざわめきはしだいに収まっていく。


マティアスが、静かに口を挟んだ。彼の声は、いつも場の空気を落ち着かせる力があった。

「……労働奉仕が終わったら、ありがたく食べればいい」

その言葉に、皆の視線が自然とマティアスへと集まる。彼の言葉には、単なる実践的な提案以上の響きがあった。

皆の視線が集まるなか、マティアスは続ける。


「もともと麦ってのは、分け合って、祈って、土に返すものだ。奉仕のあとに、それをいただいて体に還すなら……精霊に背を向けることにはならない。むしろ、“よくやった”と言ってくださる」


マティアスの言葉は、村の古くからの信仰と、今提案されている制度とを結びつけ、その正当性を与えるものだった。

彼の解釈は、村人たちの心に安堵をもたらし、ざわついていた空気が静かに落ち着いていく。


すかさずカスパが、新たな疑問を投げかけることで、その和やかな空気を再び引き締めた。


「……だが、炙った麦の色を真似しようとする奴がいたら?」


彼の言葉は、常に現実的な不正の可能性を追求する、彼らしい狡猾さを含んでいた。


レオンはカスパの言に被せるように、即座に答えた。

彼の頭の中では、すでにこの制度の具体的な運用方法が組み立てられ始めていた。


「仮に“貢献麦”──と呼ぼう。そいつは共用の倉に入れておく。色を見れば一目でわかるようにする。微妙な炙りだ。なかなか真似できるもんじゃない。あと、見たけりゃ村寄が立ち会えばいい。これでいつでも、誰がどれだけ奉仕したかわかるだろ?」


レオンの提案は、村人たちの疑念を払拭し、新たな制度への信頼を築こうとする彼の真剣な姿勢を示していた。


しばし沈黙が落ちた後、誰かがぽつりと呟いた。


「……一応、筋は通ってる……のか?」


その言葉は、完全に納得したわけではないが、他に反論の余地を見つけられないという、村人たちの複雑な心境を表していた。


「つまり、貢献麦で労働奉仕を数え、多く持ってる者が魔法耕起の権利を買う……ってわけか」


誰かが確認するように言い直す。しかし、その理解はすぐに別の疑問へと繋がった。


「だがよ……男手は全員、奉仕に出るだろ? それなら結局、毎日みんな同じ数の麦になるだけじゃねぇか」

「そうそう。これって“貢献した”やつを優遇するんじゃなくて、“貢献しなかった”やつを罰する制度なんじゃないか?」


不安と不満が再び頭をもたげ始める。

それは、制度の裏にある「罰」の側面を直感的に察知した村人たちの、本能的な反発だった。

「娘が瘴気ミアズマにやられても、看病のために一日抜けただけで最後尾かよ」

「一度欠けただけでも、他の家が奉仕を続けてる限り、ずっと耕起の順番は来ないってことか?」

具体的な状況を想定した反論が次々と飛び出し、空気がざわつき、また不穏な気配が広がりはじめた。

議論は再び混沌の淵へと逆戻りしそうだった。


レオンは両手を軽く上げて、その流れを制した。

彼の表情には、焦りとともに、この制度の真意を伝えたいという強い思いが滲んでいた。

「待てって。罰のための制度じゃない。貢献麦は、村に尽くした者を“称える”ためのもんだろ。間違っても“外す”ための道具じゃない。……正しく使おうぜ」

彼は、村人たちの誤解を解き、制度の本来の目的を訴えかける。

その言葉には、彼自身の理想が込められていた。


少し間を置いて、彼は続けた。

「それに、男だけが奉仕してるわけじゃないだろ。村内の共同作業は、女や子どもも担ってる。だったら、それも“貢献”と見なして麦を渡せばいい。そうすれば、みんなで頑張れるじゃないか」

レオンは、これまで男衆に限定されていた「労働奉仕」の概念を広げ、村全体を巻き込むことで、制度の公平性を高めようと試みた。


さらに、もう一歩踏み込む。

彼はこの制度を、単なる均等な労働分配だけでなく、村人の意欲を引き出す機会と捉えていた。

「あと、貢献の内容にも差をつける。大変な仕事、重要な役目には、より多くの貢献麦を渡す。これなら、男衆同士でも差がつくし、工夫や意欲だって生まれるさ」


「おい、待てよ!」

誰かの声が飛び、それを合図にしたかのように、抑えていた不満が爆発した。

会議は、再び混沌の様相を呈した。

レオンの提案した「貢献麦」制度への疑問が、堰を切ったように噴き出す。


「“重要な仕事”とは、一体何のことか!」誰かが机を叩いた。

「神が与えた仕事に、重要じゃないものがあるのかとでも言うつもりか!」

「作業時間なのか、労力なのか。基準が曖昧すぎる!」

「家族が少ない家はどうなるの? 不利になるだけじゃないか!」

「もうゼバスチャンみたいなことはこりごりだ。脱落がないように頼む」


議論は、「能力」の評価へと移る。

「能力で差をつけるべきだ。技術持ちにはもっと札を多く渡せ!」

頑固な職人の声が響く。だが、すぐに反論が上がる。

「それでは、技術がない者はいつまでも不利ではないか。

それよりも、現場の指揮者に多く払うべきだろう。重要な役目だ!」

「全員が指揮者をやりたがったらどうする? 経験で決めるのか?」

疑問が投げかけられると、年長者が腕を組んで言った。

「経験がなければ指揮はできぬ。ならば、年長者に任せるべきだ。年齢順にすれば公平だろう」


さらに、「共同作業」の範囲にまで議論は及ぶ。

「“共同作業”とされるもの全てが同じ評価でいいのか? それでは、皆が楽な仕事ばかり選ぶだろう!」

「火の番も、何軒も同時に世話しているのだから、共同作業と変わらないではないか?」

「それは家同士の取り決めだ。これまで通り“掴み麦”でいいだろう」

反論する声もあったが、すぐに別の声がそれを打ち消す。

「だったら、東と西に分かれて水路を掃除した作業はどうなる? あれは共同作業か? それとも取り決めか? 掴み麦などもらっていないぞ!」


部屋の空気は、徐々に苛立ちに満ちていく。

「結局、誰が“貢献”を判断するのだ? レオンか?」

疑いの声が飛び交う。

「誰か村寄の者がやればいいではないか。私に任せてくれても構わない」

誰かが名乗り出ようとすると、別の者が顔を紅潮させて遮った。

「お前の家族に有利になるのは目に見えている。だったら私がやる!」


収拾がつかない現状に、誰かが諦めと焦りを滲ませた声で叫んだ。

「もう最初に会議で全て決めておくべきだ!パン釜の掃除、水路の管理、領主のりんご園まで、事前に!」

「どこまで決めるんだ? 草むしりの雑草一本までか? 計算できるのはレオンだけだ。

今日家族が何をしたか、全て覚えて彼に伝えろというのか!?」

会議の終わりが見えない中、誰かが大きなため息をついた。

「一ヶ月かけて耕起魔法で全畑をやるんだろ? 会議で決め終える前に一ヶ月たっちまうぞ」

その言葉に、村寄衆の顔に絶望の色が広がった。


空気が沸騰しかけたとき、誰かがぽつりとつぶやいた。

「……村長が、その都度評価すればいいんじゃないか?」

一瞬の静けさののち、また声が重なる。

「奉仕が終わったら、村長に一日の報告をして、評価してもらうのか?」

「村人は百人近くいるぞ。村長がひとりで査定すんのか?」

「家ごとに成果を申告すればいい。二十件程度なら、時間はかからんだろう」


誰かが言い、誰かが応じ、誰かがうなずく。

それは議論というより、手探りのまま組み上げられていく曖昧な合意だった。


やがて、レオンが言った。

「そうだ。村長に判断してもらおう。自分の家がどんな働きをしたか、それを話して、最終的には村長に委ねる。……細かく決めきれない以上、それしかないんじゃないか?」


皆の視線が、村長へと集まった。


「う、うむ……だがな……」

躊躇いが滲むその声に、場の空気がわずかに揺れる。


レオンはさらに言葉を重ねた。

「村長。ルールで決められないなら、あなたが決めるしかないんです。信頼されるあなたが決めれば、みんな納得するでしょう。……異論があるやつなんて、いないよな?」


「異議なーし」

カスパが小屋に響く声で怒鳴った。


村長は、レオンの言い回しとカスパの強引な後押しに窮した。

その言い回しは、明らかに異論を封じ込める問いかけだった。

反対の声を出せば、まるで“村長を信頼していない”かのように聞こえる。

レオンはそれを承知で言った。

この機を逃したくない。

そう思っての、あえての強引さだった。


沈黙が落ちた。

それは納得の意志ではなかった。


声にならない了承。

決めきれないならば、誰かが引き受けるしかない。

誰かが責任を負えば、とりあえずの公平感だけは保たれる。

――そう思う者が、大勢いた。

食料の供出は、日ごとのくじ引きによって──神の意思に委ねられることになった。


くじに当たった三軒の家は、その日、精一杯の「最上」を供する。

乳製品、干し肉、ジャガイモを、アーデルの1日分として供給する義務だ。

一度選ばれた家は、村中の順番が巡るまで、再び選ばれることはない。


形ばかりの公平さは、かろうじて保たれているように見えた。


労働奉仕が、目に見える形になった。

夕暮れになると、各家の者が村長のもとへ働きを報告しに行く。

その日の分として「貢献麦」が記録される。


夜になると、村寄の者たちが集まり、前日に最も多くの貢献麦を納めた家を一つだけ選ぶ。

その家こそが、翌朝、アーデルの魔法によって畑を耕してもらえるのだ。


もう、耕起の順番は天任せでも、村長の思いつきでもない。

「誰がどれだけ働いたか」で決まる。

すべてが、数字になった。


公平なはずだった。

誰もが、そう思おうとしていた。

だが心のどこかで、誰もが、疑っていた。

そして、少しだけ、計算していた。


だが、気づいていなかった。

この“順番”が、どれほど小さなことかを。


もし今、村中の男が総出で鍬を取っても、

アーデル一人の魔法が一巡するのに、同じ日数がかかるだろう。


明日、魔法を受ける者がいる。

最終日まで、何もせずに待つ者もいる。

果実の大きさには違いがあるかもしれない。

けれど、いずれ誰もが、それを受け取る。


それこそが恩寵というものだ。

順番にこだわること自体が、意味をなさないのかもしれない。


村の者たちは、今日も畑に立った。

鍬を振るい、汗を流し、

気づけば、かつて夢にも見なかった速さで畑が耕されてゆく光景を、

いつの間にか当然のように受け入れていた。


だが、その恩寵の意味を──

誰ひとりとして、まだ言葉にできずにいた。

会議は、飲み込めぬ苦味を抱えながら──言葉少なに、静かに終わった。



レオンは、これでようやく皆が“公平に努力できる制度”を受け入れたのだと信じた。

誰かが声を上げねば村は動かない。

強引でも、それが“善意”だと信じていた。


カスパは、うなずきながらも、内心では“抜け道”を作り上げていった。

どう帳尻を合わせ、どう制度をすり抜けるか――それが、カスパの“生き残り方”だった。


村長は、黙して座ったままだった。

届くはずのない年貢を納めきれば、村は救われる──そう思わずにはいられなかった。

ならばせめて、自分が犠牲になるしかない。

そう諦めを感じていた。


マティアスは、祈りなき分配に、静かな畏れを覚えた。

数で割れば割るほど、精霊の気配は薄れていった。

かつては与えられるものだった恵みが、今は人が配るものになっていた。


アンドレは、意志なき制度の巨大さに、ひとり戦慄していた。

皆が押し始めた魔法の石臼は、誰にも止められぬまま、人の形をすり潰してゆく。

“恩寵”か、“試みる者”の印か──彼はまだ、見極めかねていた。


ヴァルトは、娘の顔を思い浮かべていた。

娘が傷つくくらいなら、自分が盾になる。

迷いはなかった。

躊躇はなかった。


そして──


アーデルは、まだ何も知らなかった。

制度も、恐れも、打算も。

彼女はただ──村のために働けると、そう信じていた。可能性が再び見えてきた、クレープを夢を見ながら。


*


その夜、ヴァルトが家に戻り、火床を囲んでささやかな夕食をとるなか、昼間の出来事をアーデルに伝えた。


「えー? 自由競争? いつか必ず耕すのに? そんなに早くやってほしいの?」


アーデルは、ぽかんと口を開けた。

今日の広場での混乱にも驚かされたばかりだったが、それとは違う、もっと芯に響く衝撃があった。


「ああ……お前が悪いわけじゃない。だが、あの力を見たらな、皆あてにする。会議でも、誰が先に耕してもらえるかで、我先にって空気だった」


「アーデル。あなたは本当に、悪くないのよ。優しくて、まっすぐで……。だけど、なんてこと……昨日まで、あんなに穏やかだった村が……」


アーデルは黙った。言葉が見つからなかった。


(この感じ……知ってる……友達が、発売されたばかりのゲームを学校に持ってきたときと同じ……転売ヤーに買い占められて、どこにも売ってなかったやつ……男子たち、遊びたくて、取り合いになって、喧嘩して……学校がゲーム持ち込み禁止にするわけだよ)


アーデルの今日一日は、食べるか耕すかだけの日だった。

食べたものが力になるには時間がかかる。

だが、魔法耕起は数刻で終わってしまう。


今も痩せた体で、無理に食べ続けるアーデルは、混乱のなかで戸惑い、

胃が締めつけられるように痛み、吐き気すら感じていた。


「──こういうことだったんだ。本当に、ごめんなさい」


アーデルの口から、掠れた謝罪の言葉が漏れた。

あの時、もっと他に方法はなかったのか。

もっと、うまくできたのではないか。



「お前は家族のために正しいことをした。俺たちは、それを誇りに思ってる。だから、謝る必要なんてない。……いいな?」


ヴァルトの言葉は、アーデルの凍りついた心を、ゆっくりと溶かしていく。


「……ありがとう」


絞り出すように答えた言葉は、父への感謝だった。

そして、この異世界で彼女を支え、家族として受け入れてくれたヴァルトとミーナへの、心からの感謝でもあった。


アーデルは、力を使うしかなかった。

たとえこの混乱を予想していたとしても、きっと、同じことをしただろう。

そうしなければ、両親は救われなかったのだから。


けれど、どうすれば平和に使えたのか。

どうすれば、村を傷つけずに済んだのか──

アーデルには、答えも、時間を巻き戻す術も、思いつかなかった。


「ねえ、お父さん、お母さん……これ、一人じゃ食べきれないの。だから、一緒に食べてくれない?」


そう言って、アーデルはチーズと干し肉を差し出した。


だが、骨がうっすら浮かぶほど痩せた二人は、やんわりとそれを断った。


「それは、みんなの気持ちでしょう? 村を助けてほしいって、願いが込められてる。私たちが食べるわけにはいかないわ」


「うむ。今はまだ、誤解を生むようなことは避けねばならん。村は危うい状況だ。それを忘れるな。気持ちはありがたく受け取る」


「でも……」


アーデルはうつむいた。

痩せた二人の前で、自分だけが貴重な食べ物を口にすることが、罪のように感じられた。

せめて、少しでも“嬉しいこと”として分かち合いたかった。

ただ、それだけだった。


(はぁ、また罪悪感。チーズとか干し肉じゃなくていいよ。みんなと同じ物食べたいよ)


「心配するな。俺もパンを食べてる。これで仕事もがんばれる。それで充分だ」


「そうね。……実はね、私、パンが大好きなの。こうしてまた食べられるようになって、本当に嬉しいわ。アーデルのおかげね」


「……うん。畑が終わったら私も同じ食事にしてね」


「そうね」


両親はいつも、自分より先に、誰かを守ろうとする。

その優しさが、胸に痛いほど沁みてきた。


火床の優しい炎は、三人を淡く照らしていた。

ぱち、ぱち、と薪がはぜる音だけが、静かな部屋に響く。

それは、ささやかな灯りとともに、言葉にできないぬくもりを伝えていた。

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