仕事魔法

第6話 畑と試みる者

ぬかるんだ村道を、三つの足音がゆっくりと進んでいた。


アーデルの肩には、ミーナの腕がそっと添えられている。その前を、ヴァルトが無言のまま歩いていく。

雨はまだまない。アーデルの髪から、ぽたぽたとしずくが落ちていた。


麻布のスカートは脚に張りつき、歩くたびに重く引きずられる。

その重さは、れた布のせいだけではなかった。


ようやく家にたどり着くと、ヴァルトが黙って戸を開けた。

冷えた空気が、湿った塊となって三人を迎える。


火床に薪をくべる。

やがて火がぱち、と小さく音を立ててともった。

それは、ようやく訪れたぬくもりの合図だった。


「……俺は外にいる。アーデルが落ち着いたら呼んでくれ」


そう言って、ヴァルトは戸を閉めた。

ぴしゃりという音とともに、室内に滞留していた冷気がじっとりと広がった。


アーデルの足元には、ぽつりと黒い水の輪ができていた。


ミーナは肩掛けを外し、冷たい布を娘の髪に巻いた。

アーデルはわずかに肩をすくめたが、それ以上は動かなかった。


ミーナはすぐに動き出す。椅子の下、棚の隙間、針箱の後ろ――くたびれた毛布、古いタオル、縫いかけのひざ掛け。ありったけの布を火のそばに運び、干し草の上に重ねていく。

そして、アーデルの前にしゃがんだ。


「アーデル、ごめんね。濡れたままじゃ……冷えちゃうから」


声は優しかったが、手つきには迷いがなかった。

ミーナはワンピースに手をかけ、冷えきった麻布を手早く脱がせていく。

腕を抜かせ、肩を滑らせる。ぽと、ぽと、と床に雫が落ちた。


──現れたのは、信じられないほど細くなった身体だった。


火床の淡い光が、その背中を照らし出す。

肩の骨が浮き、背筋のラインが削られたように見えた。

肋骨あばらぼねが、呼吸のたびにわずかに動いている。

腹の皮はだは、張りつめたようにきゅっと締まっていた。

数日前までは、もう少し丸みがあったはずだった。


「アーデル……」


ミーナは震える娘の背をでながら、つぶやいた。


「……こんなに、痩せてた?」


その声もまた、震えていた。


どれだけ近くにいたのに。どれだけ見ていたのに。

まったく気づけなかった。そのことが、胸を締めつけた。

ミーナは娘をきつく抱きしめた。

自分を責めるように、肩を抱き寄せる。


アーデルの肌は、冷たいというより、命の熱を抜かれたようだった。

ミーナは、震える指で濡れた体に布を当てていく。

泥に染まった膝。冷たい背中。最後に頭を、そっと包み込んだ。


火の前へ。


アーデルは、なすがままにされていた。

けれど、ふと自分の腕に目を落とす。


……おかしい。


こんなに細かっただろうか? 

もっとふっくらしていたはずだ。

母の手が触れるたびに安心した、あの感触があったはずだった。


今、そこにあるのは、違う。


手首を指でつかんでみる。……すっぽりと回った。驚くほど、あっさりと。


「……なんで?」


かすれた声が、炎の揺らめきのなかに吸い込まれていった。


そのとき、ヴァルトの声が戸の外から聞こえた。


「いいか、入るぞ」


ぎぃ──戸がきしんで開く。

ヴァルトが外套がいとうを脱ぎながら入ってくる。

その裾から、水滴が、滴り落ちていた。


「誰も畑には気づいてない。……だが、明日あしたは騒ぎになるな」


火床の火がふっと揺れ、アーデルの体を照らす。

その痩せた肩に、ヴァルトの目が止まった。


「……その体、どうしたんだ」


声が低く、変わった。


アーデルは、ほんの少し遅れて口を開いた。


「……魔法、使ったら……ものすごく、お腹が減って」


言葉はぽつりと落ちた。火床の炎が、それを静かにむ。

ミーナは黙って棚からパンと、しまっておいた、とっておきのチーズを取り出した。


「食べて。今すぐに。もう無理しなくていい。誰かのためじゃなくて、自分のために」


皿を差し出す手が、かすかに震えていた。


アーデルはうなずき、パンをつかんだ。鍋に残ったスープにつけ、ひとかじり。咀嚼そしゃくする。


──その瞬間、驚いた。


身体の奥が、飢えていた。止まらない。

満たされる気配がない。干上がった井戸が水を飲み込むように。


(……やっぱり、魔法って、すごく力を使うんだ)


みながら、アーデルは思う。


「明日、どうするか。いや……どうなるか、だな」


ヴァルトの声は、火の音にかき消されそうだった。

その声には、誇りも、自慢もなかった。


それは“予感”ではない。

“警告”だった。


──“異常”。


一晩で、畑を一面やり終える。

本来なら牛四頭でも十日かかる。木のくわなら三十日。

それを、娘一人ひとりがやった。


普通じゃない。だからこそ、人は欲しがる。


「……労働奉仕しなくて済むなら」


誰かがそうささやくだけで、村は変わってしまう。

ヴァルトにはわかっていた。これは恩寵おんちょうではない。


「魔法が……こんな、消耗するなんてな」


痩せた娘の姿を見ながら、ヴァルトはぽつりとつぶやいた。


「魔法ってのは、出なきゃ終わりのはずだ。めまいとか、立ちくらみとか、それだけのはずが……痩せるなんて、聞いたことがない」


その声は低く、重かった。

“もう一度使えば、持たない”

確信が、胸の奥を締めつける。


「……ねえ。これからは、ちゃんと、なんでも話して」


アーデルは、口の中のふやけたパンをゆっくりとんだ。

火の影が揺れるなか、じっとふたりを見つめる。


「わたしも話す。だから、おとうさんも、おかあさんも……ね」


ふたりは目を伏せ、しばらくしてから、静かにうなずいた。


沈黙は長かった。

でも、その沈黙のなかには、語られなかった言葉も、ゆるしきれなかった時間も、すべて包まれていた。

火のぬくもりだけが、それをつなぎとめていた。


「それから……ふたりとも、食べて。お願い」


ヴァルトは、かすかに笑った。

「……ああ。後でな」


アーデルは、まっすぐに言った。

「……うそは、なし」


アーデルの声は、鋭くも、あたたかかった。


一瞬、ヴァルトがたじろぐ。

次の瞬間、ミーナがそっと声をかけた。


「食べましょう、ヴァルト。今日きょうは……神さまからの、素晴らしい“恩寵”があったのだから」

ミーナはその言葉を、祈るように口にした。

でも、それがどれほど自分への言い聞かせだったか、彼女はよく知っていた。

娘の力を、恩寵と呼ぶしかないことが、もうすでに苦しかった。

それでも、こうして火を囲める奇跡に、感謝せずにはいられなかった。


「……ああ、そうだな。恩寵だ。いわいだ」


ヴァルトはミーナの言葉の“二重の意味”を、静かに受け取った。

家族の無事。そして、アーデルの力を受け入れるという決意。

黙って、スープにパンを浸す。

口に運びながら、彼は火を見つめていた。

静かな食事だった。だが、それぞれに思いが巡った。

ほんの数日前までは、ただの娘だった。

今はもう、家の中に“異常”の気配がある。


喉を通る温もりとは裏腹に、胸の内が冷えていく。明日、村人たちは畑を見る。そのとき、誰が何を言い出すのか。

考えるなと思っても、思考は勝手に未来へと走っていく。

そして、その先に浮かぶ光景が、どうしても──怖かった。


(……でも、なんでわたしは倒れなかったんだろうヨハンの小石とは比べものにならない……はずなのに助祭様の“火”よりも、すごかった、と思う……何が違ったの? イメージ? 覚悟? それとも──機械を……“知ってた”から?)


火床の火が、ぱち、と小さくはぜた。


そのわずかな音に、三人の耳がふと傾く。

火はまだ燃えていた。夜も、まだ終わってはいなかった。


けれど──明日が、来る。


村は、確かに変わる。

誰もが、まだその言葉を持たずにいたが、肌の底で、骨の奥で、何かが動き出しているのを感じていた。


炎は揺れながら、何も語らず、ただ、三人を照らし続けていた。



*


翌朝──。


朝露が地表に残る、薄くかすんだ時刻。

けれど、ヴァルトの畑の前には、すでに何人もの村人が集まっていた。


「……おい、これ、本当に一晩でやったのか?」

「なんでヴァルトの畑だけ、こんなに土が起きてんだよ……」

昨日きのうまで、固いままだっただろ。鍬も入らないくらいだったのに……」

「馬鹿言うな。どう見ても、十日はかけた跡だ……丁寧すぎる。牛でも、こんなふうには掘れねえ」


畑を囲む声は、徐々に騒ぎへと変わっていく。


アーデル、ヴァルト、ミーナは既に、家に押しかけられた村人に、釈明のために畑に立たされていた。

多くの村人に囲まれていて、まるで見世物のようだった。


(なんで畑耕しただけで”釈明”なの。何も悪いことしてないでしょ)


そのただ中に、村長むらおさがゆっくりと現れた。

無言のまま、畑の中央に立ち、土の深さをじっと見つめる。


「……“返り子”の魔法、か」


その呟きが風に溶けたとき、ざわめきの質が変わった。


村の誰もが、アーデルが魔法に挑み続けていることを知っていた。

「農民の子に、できるはずがない。ましてや、バルバロイが──」

そんな目で、誰もが見ていた。

だが──。


「村が、救われるかもしれん……」


村長のの声には、歓喜とも畏れともつかぬ響きが混ざっていた。


「やはり……やはり、森の返り子だったのだ」


マティアスがぽつりと呟く。

精霊の祭事を司ってきた男の瞳には、確信とも熱狂ともつかぬ光が宿っていた。


だが、その熱に水を差すように、一人の男が前に出る。


「待て。その畑は、本当に“恩寵”なのか?」


それは、教会に忠実な青年──村寄むらよりのアンドレだった。

頬の傷が。彼の険しい顔に一層凄味を持たせていた。

彼はアーデルに視線を向けたまま、慎重に言葉を選ぶ。


アンドレは続けた。

「……あるいは、“試みる者”に与えられる徴。軽々に神の業と定めるべきではない」


一瞬、空気に緊張が走った。


(”試みる者”か……またみんな知ってる単語。私だけ置いてけぼり。もう慣れたよ)


だが、その隙間を突くように、前に出てきた男がいた。


「なあ、教えてくれよ。アーデル、お前、どうやってやったんだ?」


村寄の一人、カスパだった。

アーデルは率直過ぎる彼のことがあまり好きではなかった。

軽薄そうな感情を隠そうともしない彼の声に、他の村人たちも呼応する。


「魔法か? 本当に使えたのか?」

「どんな魔法だ? やり方教えてくれよ」


(やり方? 簡単だよ。トラクターの図鑑見て、動いてる動画でも見ればいい。最後に神様のお尻を叩いてスタート──はい、みんながんばれー。……なんて。はは、私も笑っちゃうよ


「うちの畑も頼む!奇跡を起こせるなら、もう一度やってくれ!」


「待て!」


──ざわめきの渦が膨らむ中で、再びアンドレの声が割って入る。


(あれ? アンドレさんて、実は味方?)


彼の声は低く、だが明確だった。


「百歩譲って“恩寵”だとしても──“奇跡”は、神に仕える者にしか定められん。言葉を間違えるな」


アンドレの一言で、場の熱がすっと冷えた。


(がっかり。教会の教え的な解釈の話か。”試みる者”、”恩寵”、”奇跡” 何が違うの。たぶん”試みる者”は悪い意味だよね。……そうだ!)


「ねぇお母さん、ちょっと」


アーデルは、ミーナの袖を引いた。わからない単語の時は、ミーナに聞くことで話についていこうとしたのだ。

耳打ちしたミーナは、快くアーデルに教えた。


(へぇ、ざっくり”神に成り代わろうとする人間”──サタンとか? あと"恩寵”は信徒が言って許される恵み、”奇跡”は聖職者だけが決めるすごい恵み、って感じ? だから”勝手に奇跡と言うな”ってことか)


アーデルは、アンドレの言葉を聞きながら、心の中で整理していく。


(なんでかなー。ただ魔法少女に……家族でパンを食べたかっただけなのに、よりによってサタンとは……サンタがパンを持ってくればこんなことしなかったよ)


村人たちは口ごもり、互いを牽制し合うようになった。

誰でも最初に大変な耕起から開放されたい。


だが、その沈黙を破ったのは、思いがけぬ人物だった。


「アーデル!俺の畑も頼む!なあ、俺たち友達だろ? 算術みたいに……タダでやってくれよ!」


レオンだった。

合理主義を信じ、理屈で村を回そうとする彼が──今、その現実を動かす力に強く惹かれていた。


けれど――


「……無理。できない」


アーデルは、短くそう告げた。

その言葉は、まるで冷たい水を浴びせられたように、場の空気を凍らせた。


(だって……家族のためにがんばっただけだし、痩せるし。これでレオンの引き受けたら歯止めかからないじゃん。全部の畑やったら骨だけになるよ。変わっちゃったね、レオン)


彼女はレオンの目に、粘りつくような執着と渇望が灯っているのを悟っていた。


──"欲望"だ。


表面には理屈や友情の顔を貼っている。

けれど、その奥にあるのは、もっと素朴で、もっと露骨なものだった。


そこに一歩、前に出た影があった。

ヴァルトだ。


「いいか。これは……命を削る力なんだ」


その声は低く、だが雷鳴のように響いた。


「娘が、どれほど痩せているか、見えていないのか? これを続ければ──娘は、死ぬぞ」


(お父さんありがとう。そう、魔法で死ぬ……あれ? どこかで聞いたフレーズ)


沈黙。

全員が息を止めたような時間が、そこに生まれた。

だが、レオンは食い下がった。


「でもよ……あの広さを耕して、普通に歩いてるじゃん。

まだ、俺の畑くらい──できるはずだろ? 

“タダでやってくれる”って……約束したよな?」


その言葉に、アーデルの胸が締めつけられる。


(レオン……良い人だと思ってたのに。欲望って、ここまで人を変えるの……?)


「その約束は、算術の話。畑は……別だよ」


アーデルの声は、淡く、それでもはっきりと届いた。


「ぐっ……」


レオンは唇を噛み、視線をそらした。

アーデルは静かに思う。


(そうか、みんな、年貢のことで頭がいっぱいなんだ。……無理もないよね。それに──修道院の畑を先に耕さないといけないから)


(……でも、それでも)


朝の仕事の言いつけが終わり、ようやく騒ぎを聞きつけたヨハンとイルゼが畑に駆けつけてきた。

人垣の隙間をすり抜けて、ふたりはアーデルと畑を見上げる。


「アーデル!すごいね!この畑全部魔法で? これって──”奇跡”だよね!」


イルゼが目を輝かせて駆け寄ってきた。


(イルゼ!だめ、それ言っちゃだめ……!)


アーデルは思わず手を振って止めようとした。けれど、イルゼはその手をぱしっと掴み、にっこりと笑った。


「尊敬しちゃう。ただの人じゃなかったんだね」


その言葉に、アーデルの胸がきゅっと締めつけられた。

静かな声が背後から差し込んだ。


「イルゼ。それは“奇跡”ではない」


アンドレだった。柔らかいが、否を含んだ声音だった。


「“奇跡”かどうかを定めるのは司教様のお役目だ。我々はまだ、それが何であるか見定めている最中なのだよ」


イルゼはきょとんと目を見開き、気まずそうにアーデルの顔を見た。


(ほらね……やっぱり“奇跡”は禁止ワードだった。ついさっき覚えたばっかりだけど)


「でも、アーデルはすごいよ!本当に魔法を使えるんだもん!」


「アーデル、やったな。俺に続いて二番目の魔法使いだ」

ヨハンが笑って肩を叩いてくる。


「そ、そうだね……。ものしりヨハンのおかげだよ」

アーデルは苦笑しながら答えた。けれどその笑みの奥、言葉にならない重いものが、静かに沈んでいた。


「今度はアーデルが教える番だ。俺にも、畑魔法を教えてくれよ」

ヨハンは屈託なく笑って言う。


(……ほら来た。やっぱり、こうなるよね)


「……うまく、教えられないの。ごめんね」

アーデルは、言葉を探しながら口にした。


(『ぼくアデえもん、未来から来たんだ。じゃじゃーん!トラクターこううんきー!』……そんなの、言えるわけないじゃん)


「偶然、なんとなく……耕すイメージが浮かんできただけで。

どう伝えたらいいのか、わからないんだ」


ヨハンは肩を落としていた。


あれほど両親に「嘘をつかないで」と言った自分を呪った。誠実な振りをして、欺瞞をしていた。

本当のことは言えない。けれど嘘もつけない。

ただ、自分にしか届かない力に、誰かを巻き込むことだけは──どうしてもできなかった。


(まいったよ……たぶん魔法って、「機械のしくみをちゃんと理解していること」が大事なんだ。それに加えて、「できる」と思い込む気持ち──当たり前のように信じること。ヨハンはイルゼと違って、ほんとうに“自分にもできる”って信じてた。だから、うまくいくと思ってたのかもね。)


カスパが怒り混じりに口を開いた。


「で、結局どうすんだ? ヴァルトのとこだけ独り占めか? 村を助ける気はあるのか?」


その言葉に、周囲の空気がざらついた。

疲れと苛立ちと、どこかに渦巻く不安。それらが、誰かを責める理由を探していた。


「そうだよ、そこんとこはっきりしろよ」


村人のひとりが声をあげると、他の者たちも、それに釣られるようにうなずいた。


「だな。事と次第によっちゃあ、なぁ?」


カスパの言葉にアンドレは眉をひそめた。

声のトーンは冗談めいていたが、目の奥には違う色があった。

緊張が、場を覆い始めていた。


ヴァルトが一歩前に出て、声を荒げた。

「“事と次第”ってどういう意味だ? 魔法だろうが鉄器のクワだろうが、家の仕事をしただけの子だぞ。子どもにこれ以上、何をさせようっていうんだ。こんなに痩せながらがんばっただけなんだぞ!」


その叫びは、かすかに震えていた。

怒りだけでなく、恐れと、そして罪の意識が混ざっていた。

責められているのは、娘ではなく、自分自身かもしれなかった。


アーデルは、そんな父の腕をそっと引いた。


「……お父さん、落ち着いて。いいんだよ。たぶん食べれば戻るから」


声は小さかったが、その穏やかさが、わずかに空気を静めた。

けれど、言葉の意味は、別の形で拾われる。


レオンが顔を上げ、言葉を切り取った。


「じゃあ、何か食べたらやってくれるのか? そういう理屈だよな?」


その声には、好奇心と、焦りと、利用の気配が混ざっていた。

アーデルの言葉は、意思表明ではなかった。

ただの体調のこと──けれどそれすら、もはや“契約”として聞き取られていた。


(あっちゃーそういう流れになるのかー。口が滑ったよ。でも……今年の税はがんばっても無理くらい重いんだ……なんとかしてあげたいよ……)


「お父さん、私、食べればなんとかできるかも」

アーデルは、静かに言った。

その瞬間、部屋の空気が変わった。

小さな宣言が、大人たちの胸に“都合のいい希望”として沈んでいくのがわかった。


(あれ待って、食べれば戻るよね? 魔法って回復するもので、悪魔的な何かが体を削るヤツじゃない……はず。そんな非科学的なことない!魔法だし!……)


「だがな……」

ヴァルトは言葉を詰まらせた。

彼も、アーデルの力がどれほどのものか、まだわからなかった。

過保護にするつもりはないが、村全ての畑を引き受けるなど、いかに娘の力があっても無理だろう。


「ともかく、必要な物を言ってくれ。それで解決できるなら村が助かるんだ」


レオンは食いつくが、マティアスが口を挟んだ。


「待て、レオン。お前さん、”自分だけ先に”と言っておったが、急に村全体の話になったな。

”返り子”を都合のいいように使おうとするでない」


(え、”森の精霊が人の形で現れた”って意味? ありがとう、お母さん。そして、ありがた迷惑だよ、マティアスさん……ふらっと転生して来ただけの、通りすがりの中身二〇歳のただの転生者だよ)


「それは最初の話。今は村全体の話だ。もう個人がどうこうの話じゃないんだよ。ですよね? 村長。突っ立ってないでなんか言ってくださいよ。どうします?」


村人たちは、既に遠巻きに見ていた村長に視線を向けた。


村長は、静かに畑を見つめていた。


「……アーデル。お前の力で、村を救ってくれんか」


村長はゆっくり振り向き、その言葉は、静かに響いた。


「ヴァルト、頼む」


ヴァルトは頭を掻いた。

一言でも間違えたらパニックが起きる状態であることはわかりきっていた。

だが、どう言ってもパニックが避けられないこともわかっていた。


「アーデル、まず聞くが、何を食べればできそうだ? あくまで聞くだけだ」


大勢の村人が、静まり返ってアーデルを見つめている。


(うーん……前世のママから厳しく、雑な栄養指導されたんだよね。太っちゃいけないって。だから……うわー最悪。私、太ろうとしている!効率よく太ろうとしてるよ!)


「優先順位が高い順に、はちみつとか甘い物、チーズ、バターとか脂っぽいもの。肉とかもあったらいいな」


(うわーうわーみんな呆れてるー!考えてることわかるよ。『魔法が欲しければおいしい物よこせって言ってる』って言ってるでしょ、ややこしいけど)


「次に消化が良い……白い小麦粉の料理とか……野菜は……ないほうが……でもジャガイモとか埋まってる野菜はだいじょうぶ……」


(カロリー順で言えばそういうことなんだよ。私だってこんなこと言いたくないよ!みんな貴重品だって知ってるよ!)


「あとは、よく煮てドロドロになった食べ物、かな……ゴメンね。でもある物でいいから」


「……」


全員が静まり返った。

これまで懸命に村に馴染もうとしていたアーデルが、魔法の代償に高級品ばかりを求めたことが、村人たちにとっては衝撃だった。


その沈黙を破ったのは、カスパだった。


「チーズはある!待ってろ!」


叫ぶと同時に、彼は家に向かって駆け出した。

――“それを渡せば、耕起をやってもらえる”。彼は、そう結論づけたのだ。


その瞬間、場の空気が一気に弾け飛んだ。


「え? ちょっと、ちょっと待って!」


カスパの動きを合図に、群衆は怒涛のように動き出した。

まるで堰を切ったように、老若男女が一斉に家々へと雪崩れ込んでいく。


「走れ!出遅れたら耕してもらえねぇぞ!」

「ジャガイモ残ってたよな!どこだ!出してくれ!」

「バァちゃん、隠してるの全部出して!早く来て!」


誰が先に“契約”を取り付けるか。

誰が一番乗りで“アーデルの奇跡”を得られるか。

全員が同じことを考えていた。


「ちょっと!誰もやるって言ってない!待ってー!」


アーデルが痩せた小さな身体で叫ぶが、誰も聞いていなかった。

耳に届いていたが、踏みとどまって、もし出遅れたら大損してしまう。

ここはいかに先行するかのゲームに参加するしかないのだった。


「ねぇ、お願い、まだ決めてないのに……。聞いてよ……」


この場に残ったのは、アーデルとその両親、村長、アンドレ、マティアスだけだった。

あとはヨハンとイルゼ。幼い子どもたちは、何も知らず、畑のふかふかの土を踏んで遊んでいた。


「どうして……こんな」


アーデルは自分の声が、まるで火の粉のように空中で消えていくのを感じた。

誰にも届いていない。届いていても、聞こえないふりをされている。


静けさは戻っていた。けれど、それは平穏ではなく、ただ“何も決めたくない”者たちの沈黙だった。



アンドレは村長に、わざと聞かせるように語りかけた。


「なあ──これが“恩寵”か? “返り子”の恵みと呼ぶに、ふさわしいか?」


その声は静かだったが、土に染み入るように重かった。

マティアスの目がゆっくりとアンドレを見据える。だが、何も言わない。

村長もまた、苦々しげに口を閉ざしていた。


「無秩序な欲望の発露に見えるのは、俺だけか?」


アンドレの声は静かだった。

だが、その低さがかえって、場に冷えた緊張を生んだ。


「霊性ではなく、損得で駆ける者どもに与えられた力を、神の恵みと呼ぶのか?」


彼の視線は、騒ぎ立てる村人たちに向けられていた。

かつての信仰が、ただの手段に堕ちていくのを、彼は誰よりも敏感に感じ取っていた。


「……わからん」


長く沈黙していたマティアスが、ぽつりと呟いた。


「だが、森の返り子が村に現れたというのなら、村が乱れるのも定めかもしれぬ」


その言葉には、どこか諦念に似た響きがあった。

自然の流れに抗わぬ者としての彼の視点は、対立の熱を帯びる空気のなかで、逆に異質だった。


「定めだと?」


アンドレの目がわずかに鋭くなる。

理の言葉が、感情の縁に触れはじめていた。


「だったら最初に沈むのは、お前の信じる“森”かもな」


アンドレが言い放った刹那、二人の間に張り詰めた空気が走った。

それは剣ではなかったが、剣よりも鋭く、言葉の斬り合いだった。


その緊張を断ち切るように、ヴァルトが低くうなる。


「……止めに行く。これ以上、アーデルを好きにさせん」


ヴァルトの声には、理屈も信仰もなかった。

あるのはただ、父としての感情だけだった。


「俺も行こう」

アンドレが即座に応じた。

「祭りが始まっちまう前にな。その子は望んでいないんだろ」


「ミーナも来てくれ」


短く言い放ったヴァルトに、ミーナは一度だけ強くうなずく。


「わかった。あの人たち、きっとまだ話せばわかるから」


三人は、村のざわめきのほうへと駆け出した。

その背に夜風が巻きつき、火床の火の影が揺れた。


その場に、アーデルだけが取り残された。


ひとり。静かに。


「はは……アーデル、すっかり人気者だな」


ヨハンが言った。

その声はどこか軽かったが、笑っていたわけではなかった。

気まずさを隠すための軽口に、ほんのわずか、同情が滲んでいた。


彼の目には見えていた。

アーデルが、祝われるべき存在ではなく、

奪い合われる“資源”になりはじめていることを。

イルゼもまた、アーデルをじっと見つめていた。

その表情には、崇拝と困惑がないまぜになっていた。


「アーデル、さん……“神さまのかけら”みたい。すごい力だね」


その声は、純粋な驚きと、憧れの混じったものだった。

けれど、アーデルの胸には、まるで責めるように突き刺さった。


「ちがうって、ちがうってば……!」


反射的に首を振る。声がわずかに裏返った。

誰も彼女を責めてはいない。

だが、誰も彼女の本当の気持ちも、言葉にしてくれなかった。


「私は……ただ……」


言葉が喉の奥で絡まる。

言わなきゃ。わかってほしい。でも、伝わらない。


「お父さんとお母さんが、パンも食べられなかったから……なんとかしてあげたかっただけで……!」


子どもたちは黙って聞いていた。

否定も、肯定もしないその沈黙が、かえって重かった。


ヨハンは目を逸らし、イルゼは唇を噛んでいた。

誰かが笑ってくれればよかった。からかってくれてもよかった。

でも、そうならなかった。


「それだけなのに……どうして、みんな……」


ぽつりと漏れたその声には、すでに言い訳の響きすらない。

ただ、願いの抜け殻のようだった。


畑の端で遊ぶ幼い子どもたちの笑い声が、

まだ汚れていない空気を切り裂くように、空に舞っていく。


アーデルはその声に背を向けた。

何も言わず、ただ、風の中に立っていた。



そして、後世語られる「狂乱の宴」が始まろうとしていた。


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