第5話 読まれた声

便箋の角に、5つの指の痕があった。


小さい。大人の手ではない。

だがそれは、幼さよりもむしろ精密さを思わせた。慎重に、あたかも”指の腹ではなく思考の先端”で触れたような痕。皮脂の滲み方が異様にくっきりしていて、まるで「誰かが指を置いた」という事実を、証拠として提示するためだけに残したかのようだった。


俺はその痕を見た瞬間、自分の心のどこかが凍りついたのを感じた。


それは--見覚えがある。だが、”誰の指か”は、思い出せない。俺のものではない。誠司のでもない。彼女のものか?その仮定が浮かんだとき、全身の皮膚がざわついた。


俺は無意識に、紙面の上に自分の手を重ねていた。まるで儀式のように。指が一致する。感触が重なる。だがそれは、”なぞっている”のではなかった。”なぞらされていた”のだ。


便箋が、俺の手のひらを通して、俺の記憶に何かを刷り込もうとしている。そんな錯覚が、骨の内側まで染み込んでくる。


ページを裏返したとき、視界に異物が走った。


文字があった。だが、反転していた。


まるで、誰かが便箋の裏側から「鏡文字」で書き込んだように。インクが滲んだのではない。もっと不自然な、だが完璧に整列した文字列。


……いや、これは初めてでじゃない。

あの夜、封筒を開いたとき、確かに視界の端でこの反転した文字列を見た気がする。だがそのときは、まるで夢の断片のように、目を逸らしてしまった。こうして”正面から向き合う”のは、今が初めてだ。まるで文字のほうが、時を選んで姿を現したように。


だが、”俺の字”ではない。しかし”俺が書いた”という感覚がある。その文字列は、本文のどこにも登場しない。なのに意味だけが脳に届いている。


言葉にできない。

だが、その文字が語ってる”何か”が、俺の中の誰かを刺激している。


読んではいけない。

読めば、”俺”が崩れる。

だが読まずにはいられない。


喉の奥で、誰かの息遣いがする。

それは俺のものではない。誠司の声でもない。

声の主はまだ名乗っていない。だが、”語り始めている”。


ページをめくる手が、震えていた。否、紙の方が俺の指を導いている。

文字が俺を読む。俺が語る。俺が語らされる。


〔君がこの手紙を読んでいる事実こそが、私の存在証明だ。君が文字を目にした瞬間、それは”君の内側”から語られたものになる。だから私は語る。君という声帯を通して。〕


鏡文字の意味が、少しずつ、脳に焼き付いていく。

意味ではない。”知覚”として。


そのとき、唐突に、思い出した。


あの階段。雨に濡れた廊下。彼女が見下ろしていた俺。

俺は見ていた。

彼女の背後に、”もう一人”の影があったことを。


誠司ではなかった。

俺でもなかった。


あれは……誰だった?


だが思い出した途端、視界の端に、その「5本の指」が再び見えた。ページの上。今もなお、置かれたままのように。

いや、俺の手がその上にあるのか、向こうの手が俺に重なっているのか、も分からない。


語りが始まった。

俺の声帯を通じて、別の”記憶”が語られ始めている。


俺はまだ、手紙を読んでいるのか?

それとももう、手紙の一部になってしまったのか?

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