第4話 裂け目の静寂

俺は、どれだけの時間をこの手紙に費やしているのだろう。正確な時間感覚がもうない。カーテンの隙間から漏れる陽光が、先ほどからまったく角度を変えていないように見える。あるいは、それは俺の錯覚で、実際には夜が明け、また暮れているのかもしれない。


時間すら、俺の”主観”のままに書き換えられていく。それが”この手紙”の作用だとしたら?俺は今日もまた、誠司の手紙を読む。読むというより、なぞる。なぞるというより、沈む。手紙の文章は、既に”意味”ではなく”深度”で認識されている気がする。


ゆっくりと、息を殺して四枚目の便箋に触れる。紙の表面に指が触れた瞬間、鼓動が耳の内側に跳ね返る。


そして、そこにあった文章に、俺は目を疑った。


〔今、君がこの文章を読んでいるのなら、それは私が”語らせた”ことになる。君は、私の思い出を読むのではなく、再生している。君の中で私が息を吹き返し、私の記憶が君の声帯を通じて話し始めている。〕


この一節を読んだ瞬間、喉の奥に、妙なざらつきを感じた。それは紙の味でも埃でもない。言葉が逆流してくる感触だった。

読み進めるほどに、俺は”誰の声”で考えているのか分からなくなっていた。

便箋の余白に書かれていたメモのような断片が、いつの間にか俺の記憶の一部になっている。それは最初から記されていたのか?それとも、俺が読んだから”生まれた”のか?


〔記憶には”裂け目”がある。そこから外界が侵入する。夢、物語、他人の語り。そうして君の中の”私”が育ち始める。〕


誠司の手紙には、彼自身の記憶では説明できない細部がある。例えば、彼女の歩幅。雨の日の階段で、俺がどちらかの足を一段目に置いたか。誠司は”その場”にいなかった。いるはずがない。

だが、手紙は知っている。俺の靴が擦れた音。彼女が小さくため息を漏らした時の間。


その場に”いた者しか見えない角度”から、文章は綴られている。


では誠司は、俺の記憶をどうやって知った?


それとも、俺が今”思い出している”この光景が、すでに手紙によって植え付けられたものだったのか?


〔私は”語る”ことで存在している。存在しているから語れるのではない。だから君に語らせる。君が思い出すそのたび、私は少しずつ”確かな存在”になる。〕


声がする。いや、音ではない。頭の裏側に、沈殿するような感覚。耳の奥で震える文字列が、”俺の思考の輪郭”を少しずつ溶かしていく。


これはもう、”読書”ではない。これは”降霊”だ。


誠司という存在の輪郭が、俺の意識の中で膨張している。だが、そこに誠司”だけ”がいるとは限らない。”彼女”がいる。”私”がいる。そして、”俺”ではない誰かが、そこに立っている。


手紙の文面の中で、ある単語が急に浮かび上がったように目に飛び込んできた。


〔境界〕


そう記されていた。その一文字が、ページの中央で静かに滲んでいた。


現実と記憶。語りと沈黙。俺と誠司。


その境界が、今にも裂けそうだ。


手紙の紙面が震える。違う、俺の手の方だ。


紙が何かを言いたがっている。まだ語られていない記憶が、手紙の裏側に溜まっている。


そのときだった。

便箋の端に、指の痕があった。わずかに滲んだ皮脂の痕。俺のものではない。それは分かる。いや、”見覚えがある”と言ったほうが正確かもしれない。以前にも見た。どこで、とは思い出せない。だが確かに、これは”彼女”の指の形だった気がする。

そんな確証のない確信が、なぜか脳の奥に根を張っていた。そしてその瞬間、俺の指もまた、その痕と同じ位置に重なっていた。


読み進めなければならない。だが読み進めれば、”俺”が少しずつ後退する。”俺ではない語り”が、言葉の内側から顔を覗かせる。


俺はページをめくる。紙が微かに震えている。この震えが、誰のものかはもう分からなかった。


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