第18話 人の道理が消えたら

 単騎での旅は、悠可にとって人生初だった。

 巌総領家の、間違ってもお嬢様だったので、ちょっとした外出にも従者か護衛が付いていた。(父が娘に過保護であったから、とも思う。)

 女のなりでは、到底経験出来ない事だ。もしかしたら、今後こういう体験は出来ないかも知れない。なので、1人きりの王都への旅を楽しむ事にした。


 季節は夏の盛りを過ぎていたが、まだまだ日中の暑さは厳しい。

 北の地方の残暑の名残を、軍服の上着を一枚脱いで凌ぐ。

 隊の中では、上着を脱ぐなど風紀違反に該当する為に出来ないが、この旅では自由だ。

 秋の気配は、高く澄んだ空と、絵に描いたかのように真っ白い雲の姿に感じる事ができた。


 南西に街道を下って、最初の宿場町に到着してから、厩のある宿屋に泊まるべく、通りに乗り入れてからは、道行く人に怪我をさせない為に馬から降りて、轡を引きながら歩いていた。


 前回は、北の要塞への赴任の途中に中継地として立ち寄っただけだったので、到着は夜陰に紛れて出発は日の出と共にであった。

 明るいうちから通りを歩くのは初めてだったので、通りの全体を見回しながら、ゆっくり歩いた。前に泊まった宿を記憶を頼りに探しながら歩く。


 北奇国との国交が無くなってからは、この宿場町を通る客は、軍関係の商人ばかりになったのだろう。売られている商品に華やかな物はとても少なく、土産物も見当たらない。生活に必要な物ばかりが並んでいるように感じた。

 交易が途絶えると、たちまち住民の懐具合は厳しくなるのだろう。着いた宿屋の風情が、前回とまるで違っていて、驚かされた。

 宿を間違えたかと、通り過ぎた位だ。間違いに気が付いて道を戻って、宿屋の周囲を見て回って、間違いではないと確信してから、入口へ向かった。


 以前に泊まった時は、日が暮れかかった暗がりだったが、厩に馬は沢山繋がれており、世話する使用人の老人が居た。

 しかし、今日の厩には1頭の馬もおらず、そればかりか厩の荒れ方が酷かった。もちろん、馬の世話人も見当たらない。恐らく、厩を使う事があまり無い為だろう。


「今夜の宿を取りたい。馬を連れているが、預けられるか?」

悠可が宿屋の入口扉をきしませながら開けて入ると、正面のカウンターに、見覚えのある女将が座って、編み物をしていた。

 悠可の声掛けに、女将は愛想よく編み物の手を止めて、向き合った。

「はい。部屋なら空いてますよ。厩はどこでも自由に使ってください。ただ、馬泥棒が出るので、厩番は引き受けません。」

「はあ?」

「馬の番は、しません。人様の馬を守って、家の者が怪我をしちゃ、割に合わないのでね。」

女将は悪びれもせず、そう言い切る。

 悠可は絶句した。

「……では、厩番がいる宿屋は?」

仕方なく、悠可は重ねて聞いてみた。

「他の宿は、もう辞めちまったよ。厩があるのはうちだけですよ。……だから、狙われちゃってね。」

『そういう事か。』

悠可はそれ以上は言わなかった。

「では、厩で一晩泊まるのは、幾らになる?」

「はあ?」

今度は女将が目を丸くした。

「馬と一緒に、私も厩で寝るよ。食事だけ準備して貰えたら、助かる。」

驚きに、女将は目を剥いた。

「馬泥棒が出るんだよ!あんた危ないよ!いくら軍人でも。

 この時間なら、急げば次の宿場に着くから。悪い事は言わないから、次の町へお行き。」

 閑古鳥の鳴く宿屋で、宿泊客にわざわざそんな事を言う。これまでもそうしてきたのだろう。

「御心配、どうも。ただ、軍人が連れた馬を狙う馬鹿の顔を拝んでみたくなってね。人様の馬を盗む行為もどうかと思うが、軍馬に手を出すなら、見過ごせないからね。」

悠可はニヤリと笑った。

「軍馬は、常人には扱えない馬だよ。蹴り殺されないように、守ってやらないと。」


 蜘蛛の巣が張った厩の片隅を、悠可は綺麗に掃除した。

 馬が間違っても蜘蛛を食べてしまわないように、厩の中の蜘蛛の巣を片っ端から取っていった。

 前任の厩番が丁寧な老人だったのを知っている。彼が居た頃は蜘蛛の巣なんかはどこにもなかった。

 厩の中は落ち葉が吹き込んで荒れてはいたが、匂いも無く、ちょっと掃除したら過ごし易そうな空間に早変わりした。

 古い飼葉を丁寧に選別して、いい飼葉を用意した。宿の女将が、果物や新鮮な野菜を差し入れてくれて、馬にとっては御馳走となった。

 女将は手ずから馬に果物をやって、食べる姿を見て喜んだ。

 夕食用に、悠可の食事も準備してくれ、暖かいうちに平らげた。

 

 寝具代わりの寝藁をたっぷりと床に積んで、悠可の寝床が仕上がった。今夜は早々に寝る事にして、馬の手入れをしてやった。

「今夜はお前と共寝だ。何かあったら起こして。」

馬の鼻面を撫でて、丁寧にブラシをかけてやり、背に悠可のフード付き外套を載せてもらった軍馬は、ご機嫌だった。


 秋の気配が濃い季節。日が落ちると気温がぐっと下がるが、真冬用の防寒服を着込めば、今の季節程度はまだ凌げる。身支度して悠可は早々に眠りに着いた。


 馬の不機嫌そうな鼻息で、悠可は目を覚ました。

 まだ宵の口だろうに、足音を忍ばせた数人の気配が宿の敷地内に入って来た。そして、宿の方には向かわず、厩の方に迷いなく向かって来る。

「起こしてくれたね。ありがとう。」

小声で馬に礼を言って、悠可は直ぐに身軽に動けるように、重い防寒服の袖から腕を抜いて、拳に巻き付けておいた布に緩みが無いかを確かめた。(素手で殴っては民間人の顔を傷付けると判断した、悠可の優しさだ。)

『足音は4人。大柄な奴が2人。小柄な奴が2人。1人は特に体重が軽そうだ。』

近付く者達の体格に目星をつけてから、暗がりの中、悠可は身を起こした。

 厩の入口に、大人4人の黒い人影が立った。


 馬が脚を不機嫌に踏み替えては、荒い鼻息をついている。

「よしよし。」

そう言って、胴体をポンポンと軽く叩いて落ち着くように優しく声かけた。そして、馬の手綱を外して、首に掛けて、止めた。

「いい子だ。外に出たら、明るくなってから、迎えに来てね。」

そう声を掛けた。

「ほら、行っていいよ。」

悠可が、馬の胴をポンと叩くと、馬は入口の人影めがけて走り始めた。馬に着せていた外套を、床に落ちる寸前で、受け止めた。

 

 入口では、予想外の馬からの突進を受けて、4人の人影が驚きの声をあげて、飛びのいた。軍馬の突進して来る圧は凄まじい。蹴られれば骨折は免れない。

 

 その隙に、悠可は人影に走り寄り、その勢いのままで、最も体重の軽い奴の顔面に拳をお見舞いし、後ろに弾き飛ばした。次にすぐ脇にいた奴の腹に蹴りを入れた。腹を押さえて前かがみになった顔面に、膝蹴りを下からお見舞いする。そいつはその勢いのまま、後ろに倒れて伸びた。

 残りの2人は、身構えて、向かって来る。

『ラッキー。武器出さない。』

悠可は内心そう思いながら、グッと拳に力を込めた。

 体格は互角。男2人。組み技の体術では、群を抜いて強い悠可は

『よく見ろ。よく見ろ』

無意識に、父の教えを心で唱えた。


 気迫で、悠可が勝った。


「馬が居ねえんじゃ、怪我のし損だ。やめろ。」

入口側寄りの男が、もう1人に声を掛けた。

「仲間やられちまって、頭にこねえのか!!」

もう1人は、心底頭に来ているようだ。

「落ち着け。こいつは軍人だ。素人では勝てん。」

「こっちは2人だ!」

「それでも!!勝てねえよ!!」

「くそ~!!」

その仲間の声が、引き金だったようで。

 諦めきれずに悠可に殴りかかって来た。


 悠可は、手前に突き出された腕を、上体を潜り込ませて掴み、そのまま背中に背負い上げて、壁めがけて投げ飛ばした。

 壁際に置いてあった、飼葉桶数個の中に飛んで行った男は、そのまま伸びた。


 桶数個が粉砕した凄まじい物音で、宿の中に灯りが点いた。点く灯りがどんどん増えていく。


 暗がりに立つ男は、諦めたように溜息をついた。

 気絶した仲間3人を置いて逃げないあたり、義理堅いと言うべきか。


「宿屋の女将が、馬泥棒のせいで客を泊められずに、難儀してるぞ。」

悠可がそう男に言った。

 

 男は鼻で笑った。

「その、馬泥棒の親玉は、ここの女将だよ。」


 その時、手に手灯りを持った女将が、厩に入って来た。手には、柄の長い鎗を持っていた。

「だから、次の町に行けって、言ったじゃないか。」

女将は不機嫌そうに、そう言った。





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