第16話 渦のほとり

「……本当に、お父さんなの?」


その言葉が唇を離れるまでに、胸の奥で何度も形を変えた。

確かめたい衝動と、答えを聞くことへの恐れが同時に喉をふさぎ、吐息のようなかほそさでしか外に出てこなかった。


父は、ただ微笑んだ。

その笑みは、幼い夜、熱で眠れない私の背を静かにさすってくれたときのものと同じだった。

けれど輪郭は時折ふわりと揺らぎ、光の粒が肌から剥がれ落ちるように空気へ散っていく。

実体があるのか、あるいはただの映像なのか――判断はつかなかった。


「……ここに、どうして?」


問いかけても、答えはない。

代わりに父は背を向け、砂利道をゆっくりと歩き始めた。

肩越しに一度だけこちらを振り返り、右手でやわらかく手招きする。

それは言葉を持たない「ついて来なさい」という合図だった。


> 「警告。レイカ、周囲の座標が不安定です。あれは――」

「……わかってる。ソラ、黙って」


父の歩幅は一定なのに、追いつこうとすると距離が保たれる。

まるで足元の地面そのものが、彼との距離を調整しているかのようだ。


道の両脇では、風景が幾層にも重なっては剥がれた。

小学校の教室で机に刻んだ傷、見覚えのない戦場での閃光、海に沈む街並み、白いカーテンの揺れる病室――

それらが呼吸と同じテンポで入れ替わり、世界の境界線は完全に曖昧になっていく。


やがて、防波堤の端にたどり着いた。

だがその先にあるべき海は、もはや存在しなかった。

代わりに無数の光のおびが、天と地の区別もなく渦を巻き、ゆっくりと中心へ吸い込まれている。

低く波のような音が地の奥から響き、胸骨きょうこつを内側から震わせる。


父が振り向く。

光の粒子がその輪郭をなぞり、眼差しに柔らかな影を落とす。

そして口を開いた――その声は、旋律に溶け込みながらも、確かに父だけの響きを保っていた。


「……時間は、もうあまり残っていない」


そう言いながら、父は懐から小さな金属片を取り出し、両手で差し出した。

表面には細かな傷が刻まれ、中央には見覚えのあるマーク――

かつて父が夜ごと作業台で組み上げていた時計の、部品の一部だった。


「レイカ、これを……。そうすれば――」


言葉の続きを飲み込むように、世界が裂けた。

防波堤そのものが縦に断ち割られ、渦を巻く光が一気に押し寄せる。

父の姿が激しく揺らぎ、やがて細かな粒子となって宙に散っていった。


「お父さん!!」


> 「レイカ、離れてください! ここは崩れます!」


掴み取ろうと伸ばした指先には、もう温もりはなかった。

残っていたのは、冷たく固い金属片の感触だけだった。

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