第15話 声の正体

レイカは懐かしい声の出処でどころを探そうと、反射的に振り向いた。

だが、その声は一瞬のうちに、別の無数の音にかき消されてしまった。


母親のような柔らかな声で誰かの名前を呼ぶ響き。

遠くで上がる子どもの笑い声。

銃声が鳴った直後、破片が地面に落ちていく乾いた音。

古びた教会の鐘が風に揺られて鳴る、低く重たい波動。

誰かがひそやかに祈るときの、唇と息のさざめき。

波が岸の砂をさらっていくときの、ざらついた引き波の音。


それらは互いに混ざり合い、**同じ旋律**の中へ吸い込まれていく。

潮の満ち引きのように音の輪郭りんかくは絶えず変形し、境界線は溶けて消えた。

どこまでが人の声で、どこからが環境音なのか、その区別はもう意味を持たなくなっている。


---


> 「音源を特定できません。……これは人間の音声記録、重力波、空間振動――それらが混ざり、変換され、いま“音”として現れているようです。」


ソラの説明は正確だが、いつもよりほんのわずかに間が長い。

そのわずかな沈黙に、機械的な存在にあるはずのない“ためらい”を感じた。


混ざり合う層――それは、この響きがひとつの発信源から生まれているわけではないことを意味する。

世界中の記憶、過ぎ去ったはずの出来事、終わりを迎えた瞬間の残響。

そうしたすべてが、時空の歪みに引き寄せられ、絡まり合い、ひとつの「音」として姿を得ているのだ。


---


足元の空間がふっと揺らぎ、そこに砂利道じゃりみちが浮かび上がった。

見覚えがある――海辺の防波堤ぼうはていへと続く、あの細い道だ。

踏みしめれば小石がこすれ、足音の粒が空気の中に跳ねる。

しかしその感覚すらも、現実というより記憶の中の質感に近い。


前方に、ひとりの背中が見える。

背は高くない。少し猫背で、片手には古びた金属製の工具箱。

歩幅は大きくないのに、どうしても追いつけない。

距離は変わらず、むしろ遠くへ引き延ばされていくようだ。


「待って……」

声を発した瞬間、その響きは水面に落ちた石のように波紋を広げ、

景色の端をゆっくりと歪ませた。

そこから、再びあの旋律がにじみ出す。


今度は、曖昧あいまいさを一切持たない、はっきりとした発音で。


――レイカ。


胸の奥が詰まり、視界がかすかに揺らぐ。

偶然ではない。この響きは、明らかに私を指している。

しかも、その声色を、私は知っている。

何百回も聞き、何度も呼ばれ、もう二度と耳にすることはないと思っていた声。


---


前に見えていた背中が、ゆっくりと振り返った。

光の粒子がその輪郭をなぞり、少しずつ顔の形をみ上げていく。

頬の線、目の奥に刻まれた優しいしわ――まるで今まで眠っていたすべての記憶が、一気に蘇るかのようだった。

その正確さは、むしろ現実以上に鮮明で、見つめるほどに息が苦しくなる。


そこに立っていたのは――亡くなった父だった。


空気が一瞬、完全に止まる。

周囲の音は遠のき、風も波も存在を失ったかのように沈黙する。

目の前のその姿だけが、圧倒的な実在感をもって浮かび上がっていた。


「……久しぶり。お父さん」


その言葉が空気を震わせた瞬間、旋律はひとつの和音へと変化した。

和音は深く、柔らかく、しかしどこかあらががたちからを秘めて、胸の奥を満たしていった。

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