第13話 静止する世界

時計の針が、ほんの一瞬――ためらった。

まるで進むことを忘れたかのように、細い金属の先端が空気の中で凍りついた。


観測室の中央で、レイカ・アマリリスは息を呑む。

指先が冷たくなり、胸の奥で心臓の鼓動こどうだけが異様に大きく響く。


周囲の空気は変わらない。壁も、機器も、窓の外の風景も、何ひとつ動きを止めてはいない――

それでも、彼女の感覚のどこかが告げていた。

世界そのものが、止まりかけていると。


「今……止まった?」

無意識に漏れた声は、自分の耳にすら遠く聞こえた。


レイカは視線をモニターに移す。

時刻表示の数字がわずかに揺れ、秒針の進み方が不規則になっている。

0.98秒、1.02秒、0.91秒――。

本来なら均等に進んでいくはずの“秒”が、溶けたり膨らんだりしていた。


> 「単位時間の整合性が失われています」

> ソラの機械的な声が背後から届く。

> 「……これは中心点の接近です」


---


**中心点**。


そこでは、すべての過去と未来が交差し、混ざり、区別を失う。


人が望んで向かうことも、避けることもできない。

向こうからやって来るのだ。

いつか必ず、すべての者に訪れる“時の臨界”として。


---


その予兆が、街を侵していた。

観測室の窓越しに見える通りから、ざわめきが消えていく。

自動車のエンジン音も、人の足音も、窓枠をかすめる風の音すらも――

まるで吸い取られるように薄れ、やがて無音の膜に包まれた。


しかし、完全な静寂ではなかった。

その空白の奥で、たったひとつの音が息づいていた。


あの旋律。

どこから響いてくるのか分からない。

空間からではなく、**時間の底から滲み出す**ような、ゆるやかな音の流れ。

耳で聴くというより、皮膚の下で“感じる”音だった。


---


レイカは計測器に目をやる。

数値はまだ進んでいる――はずだった。

だが、その進み方は崩れていく。


負の値を示す時刻。

存在しない時間。

真っ白な空欄だけが返される計測データ。


未来は、もう予測できない。

過去も、呼び出すことはできない。

世界はただ「今」という一点に引き伸ばされ、そこに押し込められていた。


---


そのとき――遠くで光が揺れた。

最初は錯覚かと思った。

だが、瞬きしても消えない。


それは、人影のようでいて、人ではない“何か”。

輪郭りんかくは曖昧で、大きさも距離も、時間の前後すら判別できない。

けれど、その存在は確かにレイカを**見ていた**。


彼女は一歩も動かず、ただ見つめ返す。

喉が渇く。言葉が出ない。


やっと絞り出した声は、ささやきに近かった。

「……待っているのね」


---


その瞬間、旋律が再び膨らみ、世界をおおった。

音は、空間を満たすのではなく、**時間の皮膚を撫でるように**広がっていく。


それは終わりの音ではない。

むしろ、**次の時刻を迎えるための、深い呼吸**なのだ。

静止していた空気が、ほんのわずかに動く。


世界はまだ、息をしている。

そして、次の一瞬を迎える準備をしていた。

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