【第七章 雨宿りの再会、赦しの種火】
海沿いで互いの足取りを見失ってから三日が過ぎた。峠の雲は夜ごと雨を吐き、北へ延びる街道は泥の河と化している。黒剣の浪人エリアス・ヴェルムントは石切り場跡の廃村へ入り、屋根の残った納屋を見つけて火打ち石を鳴らした。湿った薪は手強く、朱い芯が生まれるまで指先が痺れる。煙が立つたび剣の鞘が脈を打ち〈抜け〉と囁くが、今日は抜かない。膝上の帳面には「剣を抜かず、誰かを守った夜」という一行が乾いたまま残っている。それを確かめることが、刃の誘惑を抑える楔だった。
火が弾けた刹那、外で蹄が水をはねた。胸甲に王家の百合紋を刻んだ追跡兵が二騎、泥道を駆け抜ける。
「黒剣と銀髪の旅人を捜索せよ――黙令だ」
「理由は問うな、報告だけでいい」
沈黙の冠が直接下す“黙令”。警鐘が胸で鳴る。エリアスは火を覆う毛布を引き寄せたが、その戸口に――
* * *
雨をまとった銀髪の旅人が立っていた。鏡を胸に抱える手が微かに震える。焚き火に映る黒剣の輪郭――潮夜の浜辺で遠く見守ってくれた男。その姿にリリアは息をのんだ。
「納屋に入る前に弦を緩めろ。抜かずに済むなら火を分ける」
エリアスの低い声に、追跡兵は視線を交わし弓弦を緩めた。
「黙令には“生かして連行せよ”ともある」
リリアは鏡面についた雫を拭い、王都の石廊の残映を伏せる。
「その黙令を書いた人は、王が自由ではないと感じているのでしょう」
兵士は眉をひそめたが剣先を下げた。
「夜明けまで火を貸せ――話すことがある」
* * *
湿った薪が赤く膨らみ、納屋の闇に橙色の息を吹き込む。追跡兵――名を〈ハインリヒ伍長〉と名乗った男は胸当てを外し、火に手をかざして語り始めた。
「王都は腐りかけた骨のように軋んでいる。《沈黙の冠》が王の声を奪ってから半年。議会は三つに割れた。
“継承派”は王の弟の即位を叫び、“独裁派”は冠ごと玉座を封じて軍政を敷こうとしている。
……そして《宰相補佐シルヴェストル閣下》だ。彼だけが『声を取り戻す策がある。だがその鍵を持つ者が外にいる』と断言した」
ハインリヒは黒剣へ、一瞬の怯えを映す。
「その“鍵”が、呪いを帯びた刃と、未来を映す鏡。
――同じ呪いを宿す二つが揃えば、負の連鎖に歯止めが掛かる。
何を指すのか、私にもわからん。だが閣下は『剣を抜かず鏡を割らずに連れて来い』と私令を下された。黙令より重く、名前より沈んだ命令だ」
エリアスは火花が剣鞘を撫でる音に耳を澄ませた。
「宰相補佐がなぜそこまで?」
「王が沈黙に呑まれる前夜、閣下はこう言われたらしい。
『祝福と呪いは表裏。両者を重ねてこそ道が開く』と。
王都では“宰相が王を操ろうとしている”と噂する者もいる。しかし私は見た。
――王宮の塔で、王が声なきまま涙を流すのを。
あの方を前にして、閣下の眼差しは剣より痛かった」
火がぱちりと弾ける。リリアは鏡を抱え直し、炎に映る己の瞳を見つめた。
「その歯止めが本当に存在するか、確かめたい」
ハインリヒは深く頷き、膝をつく。
「夜明けと共に私は王都へ引き返す。あなた方は裏門〈銀の跳ね橋〉へ回ってほしい。門番には私が手筈を伝える。剣を抜かずに来い――それがシルヴェストル閣下の言伝えだ」
エリアスは帳面をひらき、炎の明滅に一行を刻む。
《剣を抜かず、鏡を割らず、王都へ向かう夜》
黒剣の脈動がかすかに静まり、火と雨と鼓動が同じ拍を打った。王都の闇に灯る種火は小さい。けれど、その光は確かに二人の足下へ道を描いている――。
* * *
深夜。雨は糸に変わり、納屋の火は安定する。ハインリヒは交代で見張りを立てながら仮眠をとり、二人は無言で炎を見守った。鼻歌の残響が火音に紛れ、リリアの肩がかすかに震える。旋律が胸骨を叩き、消えかけの記憶へ火花を散らした。
「剣を抜かず、王都へ行けるかしら」
「抜くことが祝福になる時もある。だが抜かずに勝つ道を先に探す」
「なら、私も視えない未来を信じる」
雲が裂け、塔の尖端が白む。壊れた鐘楼が遠くで一度だけ鳴いた――実際の音か残響か。夜明け前、追跡兵たちは馬を引き王都へ戻ると告げ去っていった。黙令の裏に潜むものを彼らも判じかねたまま。
雨粒が雫へ変わるころ、二人は荷をまとめる。剣士は黒刃を背に、未来視の少女は鏡を胸に。帳面と手帳が互いの呼吸に合わせて揺れる。
「行こう。王の声も、失われた声も取り戻しに」
「鏡も剣も帳面も――呪いを祝福に変えられるはず」
泥道を踏み出す背後で雫が石を叩き、橙色の種火がぱちりと灯った。弟の名も砦の仲間の顔も朧だが、火と歌と雨が二つの鼓動を同じ拍で結びつける。峠の先には沈黙の王都ラウグレイア。雲間から朝光がこぼれ、尖塔の影を金に染めた。赦しの種火は小さい。それでも確かに、王冠の闇を裂く炬火へ育つ燃料はそろった。
二人の影が薄桃の夜明けに溶け込み、王都へ伸びていった。
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