【第六章 刃と沈黙の夜】

夜は、不自然に静まっていた。


風が焚き火の炎を掠めても草木は揺れず、虫の翅音も潜む。耳の奥で脈が押し寄せ、引く。それだけが生き物の証だった。


──燃え落ちた村の外れ。


焦げ跡から立つ黒煙が月光を曇らせる。エリアス・ヴェルムントは黒剣を抜き、刃先を賊の首もとへ据えていた。黒い鋼は闇に溶け込み、その芯で赤い脈が淡く拍動する。まるで刃が息をつくような瘴気が腕へ絡みついた。


足下には息絶え損ねた賊がうずくまる。血に濡れた石を掴んだ手が震え、声はかすれる。


「も……もう、やめてくれ……」


エリアスは遠雷を聞くように声を流し、低く答えた。


「お前らが老人と娘を小屋ごと焼いた。帰る家も墓も灰だ。理由は充分だろう」


それでも剣は振り下ろされない。刃先が賊の喉に届く寸前で止まり、肘が痺れる。赤い脈動が激しくなり、鋼の紋へ沿って光が奔った。


〈斬れ〉


男とも女ともつかぬ声が頭の奥で囁く。剣そのものが言葉を得たようだった。


〈斬れば力が満ちる。信頼など捨てたはずだ。恐れるな〉


誘いが血流に溶け、指が痙攣する。刃が自ら腕を動かして首を落とそうとする錯覚。しかし胸の奥で、別の声が重なった。


〈あなたが信頼を失うたびに、その理由を書き残して〉


リリア――銀の瞳と焚き火越しの静かな横顔。彼女が残した白紙の帳面片が脳裏で翻る。エリアスは歯を噛み、剣を下げた。刃が夜気を裂き、赤い光が火花を散らす。


賊は震える目で見上げた。恐怖も後悔も混じる視線。かつて砦で彼に浴びせられた軽蔑とは正反対の感情だった。エリアスは膝をつき、剣を石の上へ置く。赤光が薄れ、瘴気が一歩遠のく。


「お前を斬れば剣は歓ぶ。だが、その力で守るものは何だ。瓦礫か、死者の影か」


賊は嗚咽を漏らす。エリアスは袋から粗布を投げた。


「止血しろ。動けるようになったら東街道へ行け。炊き出しが残っている」


〈斬れ〉剣の声が再び猛る。血の匂いの幻臭が鼻腔を刺した。


「黙れ」エリアスは柄を鷲掴み、低く呟く。「俺の剣だ。誰を斬るかは俺が決める」


刃の脈動が跳ねて、沈んだ。


焚き火が揺れ、小さな炎が橙色の芯を見せる。リリアがいなくなってから火はやけに冷たく思えた。自分の決断を映す他者の目が傍に無いからかもしれない。エリアスは火を見つめ、問うた。


「……俺は誰のために戦っている?」


答えはない。剣も炎も脈打つだけ。思考は三年前の砦へ遡る。横殴りの雨、閉ざされる門、味方の矢、裏切りの烙印。仲間の断末魔。救えぬ自分を受け入れられず、差し出された黒剣へ飛びついた。剣の囁きはあの夜から続く贖罪の鎖だった。


腰袋で硬い感触。旅の途中で拾ったリリアの手帳片――白紙の裏、角が焦げている。エリアスは炭ペンを握り、紙へ文字を刻む。


> この夜、誰も斬らなかった。剣は鈍った。それでも焚き火は消えず、風は静かだった。


墨が乾くと、赤い脈動はさらに静かになった。刃が眠りに落ちたように感じる。火花が弾け、赦しの合図のように夜空へ散った。


* * *


夜半。


村を離れ、山裾の獣道へ踏み入る。焼けた木々が炭の塔のように並び、冷えた露が鎧へ染みる。剣は鞘の内でうずき、赤い線が微かに灯る。エリアスは歩調を緩め、低く問いかけた。


「力が欲しいのか。代価は何だ」


〈信頼〉


「俺に残る信頼は少ないが、まだ零ではない。奪わせはしない」


〈脆いものに縋るな。強さだけが確かだ〉


「脆いのはお前だ。斬る度に言い訳を増やし、紙に書けぬ血をこぼす鋼こそ」


剣は沈黙し、脈動が浅くなる。エリアスは満足げに息を吐き、歩を進めた。


* * *


峠へ差しかかると、倒れた荷馬と折れた車軸の荷車が道を塞いでいた。荷袋の中に乾パンと小さな書簡箱。周囲に血痕はない。誰かが逃げ、荷を捨てざるを得なかったのだろう。


エリアスは乾パンを割り、口へ入れる。硬いが、穀物の甘みが舌に広がる。契約以来、食事は燃料でしかなかった身に久々の味覚。帳面を取り出し、一行だけ書く。


> 粉の甘みを覚えた。剣が眠ったままでも、味は戻るらしい。


車軸を紐で仮補修し、荷車を道の端へ寄せると、王都方面を示す札を立てた。書簡箱を開け、幼い文字の手紙を一枚だけ読む。


〈おとうさん 村がもえました でもみんなでかくれました いつかまたあいにきてください〉


紙をそっと戻し、箱を閉じる。守れなかった命も、誰かが守っている。胸に熱が巡り、剣の赤光がさらに淡くなる。


* * *


明け方、峠の稜線から海が見えた。昨夜の廃村から続く浜辺が薄靄に白く光り、焦げた桟橋が孤影を落とす。浜へ下る途中、砂上の波打際に黒い切り痕が残り、近くの礫に小さな銀片が引っ掛かっていた。


拾い上げる。欠けた鏡の破片。鋭利な端が月を割って映す。彼女の遺物に違いない。辺りを探すが、足跡は波に消えている。エリアスは鏡片を布で包み、帳面へ挟んだ。頁に走り書きする。


> 銀の欠片、浜に残。彼女は近くにいた。まだ追いつける。


海風がページをめくり、白紙が朝光を弾いた。剣は静まり、肩の重さがわずかに軽く感じた。


「強さの定義は……書き直せる」


呟き、黒剣を背に歩き出す。背の帳面が衣越しに揺れ、その重みが新しい道標のようだ。


夜を越え、東の空が黄に染まる。遠い潮匂いの中に銀の記憶を感じながら、剣士は足を速めた。白紙はまだ残り、次の行を待っている。

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