【第八章 沈黙の書斎】

夜明け前のラウグレイアは、雨あがりの石畳に街灯が橙の雫を散らし、薄い霧を布団のように掛けて眠っている。


塔門の陰からすべり込む三つの影――エリアス・ヴェルムント、リリア、そして若き宰相補佐シルヴェストル・ルーン。濡れた外套が敷石に雫を落とし、吸音布を貼った裏門をくぐる。


「外郭警備は玉座回廊へ再配置させた。黙令に偽装した巡回路図と灯火管制だ。二刻――もう少し正確に言えば八十分は持つ」


低声で言い切るシルヴェストルの手の甲には淡い墨痕が残る。宰相府の緋蝋と王璽を複写し、〈沈黙の冠〉直属の親衛を玉座側へ誘導したばかりの指だ。


目指すのは西翼最深部――王がかつて演説草稿を練り、思想を研いだ私室。


冠を戴いた夜、王自ら封じ、今日まで誰も開けていない“言葉の胎内”である。


湿った階段を降りると、壁の月灯石が青白く脈をうち、地下の空気が肺に重い。突き当たりに艶消しの黒壁、その全面を銀糸の魔導文様が星座のように覆っていた。


「王族の血印に冠の呪詛式が重ねてある。私の官印では撓(たわ)みもしない」


吐息まじりの告白に、悔恨が滲む。沈黙を「力」と賛美してきた自分の無知を、この扉が照らし返している。


リリアは黙って胸元の鏡をかざした。虹の皮膜を孕んだ銀面が文様を映すや、雫の輪郭がひとつ、またひとつ剥がれ落ち、静かな音もなく封印が解ける。


――記憶を代価にする未来視ではない。扉を“未来で誰かが開ける”という確定した意思の残響をなぞるだけ。けれど代償は在った。鏡が淡く震えた瞬間、リリアは雨上がりの石の匂いを取りこぼした。鼻腔に残っていた湿った土の気配が、まるで最初から存在しなかったかのように消える。


扉が内側へ沈む。閉ざされていた空気が、凝縮した紙とインクの酸味を伴って胸を刺した。長いあいだ誰にも触れられなかった言葉の匂いだ。


灯を掲げると、書斎は手術台のように無駄がなく、四壁を埋める書架の背は一冊も傾いでいない。中央の長机、その引き出し一つだけが鍵を拒まず、薄い手帳と黒曜冠を象った真鍮印章を収めていた。


ページを開いた途端、部屋の密度が変わる。細い筆致は震え、ところどころインクが走り染みのように盛り上がっている。


言葉は刃となり同胞を裂いた。


私は雄弁を誇り、飢饉を遅らせた。


沈黙こそ裂けた国を縫う縫合糸――そう信じた。


三行を読み上げるたび、三人の胸が別方向へ軋む。


エリアスは奥歯を噛む。リリアは指を強く組み、鏡の冷えを手のひらに押しつける。シルヴェストルは目を伏せ、印章を握りしめた。


頁を繰るたび、王の「具体の罪」が乾いたナイフのように並ぶ。


● 砂漠遠征を前倒し、水脈が枯渇。三千の農兵が渇死。


● 商会の独占を議場で糾弾、報復で北部穀物取引が停止。


● 言葉で国を動かす王は、言葉で国を縛った。


「……あの夜も、同じ構図だった」


エリアスの低い声。カストール砦の名がついに現れる行を開くと、インクの上に茶色い血痕が乾いていた。


カストール砦後衛、放棄。沈黙は問わず、私も問わず。


握った拳が白く変色し、剣の柄がわずかに応えた。だが刃はまだ眠っている。


机の奥、書見台に差し込まれた細い金属管をシルヴェストルが引き抜く。緋蝋と王璽、その下に小さな私印が重なっている。“声帯”と呼ばれる魔晶筒だ。


印章を当てると管が開き、薄膜の魔晶が淡く発光しながら短い録音を吐き出した。


「沈黙は私を守ったが、国から声を奪った。もしこれを聴く者がいるなら、私の沈黙を断ち切れ。剣を振る者は剣を納め、語る者は私の代わりに語れ」


三人は耳を澄まし、魔晶が粉のように崩れる音まで聴き届けた。塵は机上に散り、灯が揺らいで静寂が戻る。


沈黙を破ったのは紙が擦れるかすかな音。


エリアスが帳面を広げ、炭ペンで太い行を刻む。


王の書斎にて“最後の声”確認。


剣ではなく声で裁く。


インクが乾くと、黒剣の脈が陽炎のように弱まり、赤い光が一呼吸分だけ沈黙した。


リリアは鏡裏の紙片へ素早く三語――声/恐れるな/未来――だけ書き留める。文字を視た途端、弟の子守歌が脳裏からすっと離れ、旋律の輪郭だけが残像になった。彼女は頬を叩き、歩みを止めない。


「水晶管で偽の王命を送っていた。あれを止めれば冠の支配をまず揺らせる」


シルヴェストルが印章を胸に収め、立ち上がる。「嘘の玉座へ通じる管路は東回廊。私が封じ直す。あなたたちは玉座で王の冠に向き合ってくれ」


「冠を砕く前に、王に言葉を返す」


エリアスが鞘を軽く叩き、リリアが無言で頷く。


階段を昇る。巡回鎧の音が近づくたび、シルヴェストルは壁飾りに偽の徽章を掛け、追手を南庭へ誘導する。


「嘘で時間を買うのか」とエリアス。


「声を奪う嘘より、声を返す嘘を選ぶ」


天窓の雲が裂け、灰青の光が尖塔を洗う。夜明けの鐘楼が短い予鈴を撞き、沈黙の宮廷に初めて“始業”を告げた。


リリアはひと呼吸だけ立ち止まり、背後の扉を見やった。手帳の隙間で、いつかの薬草茶のほろ苦さが霧のように消えてゆく。


それでも――彼女の胸で鏡が淡く脈動し、剣の鞘が呼応するように小さく震えた。赦しの種火は確かに灯り、照らす先は玉座の闇だ。


次に語る番は、彼ら自身だった。

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