[8月31日 13:00]夏の終わりの夏語り
昭和レトロな雰囲気も感じられる店内。落ち着いたジャズ・ミュージックが耳をくすぐり、香ばしい珈琲豆の匂いが鼻を抜ける。
この『ハーデン・ベルギア』に通い始めてから、早二ヶ月が過ぎていた。
初めて来た時はまだ梅雨が明けたばかりの頃だったが、気付けば暦上は夏の終わりである。
明日から九月。それも月曜日。新学期を待ち侘びる学生も多い事だろう。あるいは今頃課題に追われているか。
——社会人になってから、夏らしい事、してないな……。
ブラック企業スタートだった事も後押ししたのか、季節感を楽しむ余裕など長いこと忘れていたように思える。
「やっほー、レン!」
ドアベルの音すら押し退けるほどに元気ハツラツな声が飛び込んでくる。ついでに僕の思案も吹き飛ばされた。
「モカの暑苦しさは、秋でも冬でも変わらなそうだな……」
カップに口を付けながら、ボソリと。
「むむ、今の悪口じゃない?」
「気のせいだよ」
怪訝な顔を向ける彼女を無視し、アイスラテを注文する。それに応えるようにモカがチョコチップ・スコーンを二つ頼む。
秋を先取りしたような栗色の髪は肩につき、整った睫毛は大きな瞳を際立たせる。それに反比例した小ぶりな鼻と唇は、しかしバランス良く収まっている。いつ見てもモデル顔負けな美貌。まさに『黙っていれば美人』というやつだ。
肩丸出しで
彼女は店内をテクテクと進むと、カウンター席の入り口から数えて四席目に着いた。二人の間には、椅子が五つ。
「あれ。また一つ近付いた?」
「誕生日を祝ってもらった分ね! ま、そのあとのゴタゴタでチャラにしようか悩んだけど」
そう言いながら意地の悪い視線を向ける彼女に、思わず苦い顔をしてしまった。お盆休み最終日の事を掘り起こされるのは、ばつが悪い。
ここは話題を変えねば。
「そ、そういえば今日は八月の最終日だよな」
「言われてみれば確かに!」
——よし、食いついた。
「モカは今年、何か夏らしい事やれたか?」
「夏らしい、って……答えに困る質問だなぁ」
「なんでだよ」
「だってさぁ……じゃあ、レンの想像する夏らしさって何?」
「え? そりゃあ海に行ったり、花火見たり——」
「出た出た出た出た!」
ボリュームを上げながらの四連発。瞑目して首を振り、さらに両手を持ち上げての「呆れてますよ」アピールも欠かさない徹底っぷりである。
「そう言うと思ったもん! The・夏!って感じのやつ!」
「悪いのかよ」
「悪いっ!」
——マジかよ。断言しやがったコイツ。
「じゃあ逆に訊くけど、レンはこの夏、そういうのやったの?」
「いや……」
「やるとしたら一人で行く?」
「……友達とか、誘うかな……」
「なら集まりやすいのは何曜日よ?」
「そりゃ当然、日曜……あっ」
言い掛けて、ようやく察した。
「私もレンも、毎週日曜日はココに居たんだから、行ってるはず無いでしょっ!」
ドン、とモカが木板を叩き、グラスの水面が大きく揺れた。
「ごもっともです……はい……」
「分かればよろしいっ!」
彼女は腕組みし、わざと聞こえる大きさで鼻を鳴らした。
「あーあ。ホントは私だってお祭りとか行きたかったのになぁ」
「え、行けば良かったじゃん」
「レンを誘おうと思ってたの! 誕生日の翌週!」
ちょうど姉と喫茶店に来てた日だ。自ら地雷を踏む羽目になるとは——
「——ん? 誘おうとした……?」
「そうっ!」
「誰を?」
「レンをっ!」
「何に?」
「夏祭りにっ!」
——それは、デートと言うやつでは……?
僕は頭を抱え、カウンターに突っ伏した。火照る顔面と、にやけそうになる口元を隠したかったからだ。
それと同時に、後悔やら申し訳無さやらが襲い掛かってきた。僕を誘おうと決心した日に、その相手が見知らぬ女性と二人でいた——モカの視点で見れば、それがどれほど残酷な事か、想像もつかない。
「…………ごめん」
絞り出せた言葉は、それだけだった。
「なんで今更謝ってるのよ。あっ! まさかやっぱり——」
「いや、姉なのは本当だから!」
「じゃあ何の謝罪よ」
「その、何と言うか……とにかく、ごめん」
想いを踏み
「……いいわよ。もう過ぎた事だし」
責めるでも哀しむでも無い、澄んだ声色を——
「けど、私の浴衣姿を見るチャンスを失うなんて、勿体無いわねぇ」
打って変わり、モカはニヤリと怪しい笑みを浮かべた。
「は? 浴衣?」
「そうよ。お祭りと言えば、当然じゃない!」
そう答え、細い腰に両の手を当てて見せた。
——モカの、浴衣姿……。
つい、想像する。
何色が似合うだろうか。ベーシックな青系? いや、彼女の性格ならオレンジなどの明るいカラーかも。絵柄は花か、金魚か、無地寄りも悪くない。その腰を帯で包み、浴衣の上からでも分かる胸の膨らみ、腿から足首に掛けて布越しに透ける曲線……。
——ぐっ、見たかった……!
目の前に実在する彼女の身体にそのイメージを重ね、歯噛みする。
「なんなら海に出掛けて、セクシーな水着をお披露目しても良かったかもなぁ」
モカは身を捻り、組んだ腕でニット越しでも分かる柔らかな双丘を下から押し、わずかに揺らした。
「みず……ぎ……」
王道のビキニスタイルか。肩紐……チューブトップ……布面積は……谷間をくっきり覗かせて……。下は際どいハイレグ? パレオを巻いた格好も大人っぽさが増して良いかもしれない。水を浴び、髪も四肢も濡らして——。
——何を妄想してんだ、バカっ!
「マスター、勘定を!」
僕は鞭で打たれたかのように立ち上がり、大慌てで支払いを済ませる。
「レンったら、顔真っ赤〜!」
ケラケラと笑う彼女を無視した。このまま付き合って長居したら、
やや前傾姿勢で、歩幅を狭めて、出口を目指す。
モカは小悪魔のような表情をして席を立つと、その顔を通り過ぎようとする僕の片耳へと寄せ——
「また今度、ね」
甘えるような小声。微かに感じた吐息。
「あ、ああ……」
気の利かない返事しか出来なかった。むしろ片手で股間を覆う方に意識が優先されていた。
ペンギンに追い抜かされそうな歩調で扉に辿り着き、肩越しに後ろを向くと、彼女は普段通り明るさ満点なニッコリ笑顔で大きく手を振っていた。
——これもまた、夏らしさ、か……。
意味不明な事を心中で独りごち、僕は残暑厳し過ぎる八月末の空の下へと出た。
その後、すれ違う人から不審に思われながら、老人のような体勢で必死にトイレを探したのは言うまでも無い。
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