[8月24日 13:00]言い訳

 ジャズの音色が喫茶『ハーデン・ベルギア』を包んでいる。焙煎されたコーヒー豆の豊かな香ばしさと、砂糖と小麦の甘く柔らかな香気。相も変わらず秋の暮れかと錯覚しそうなほど空調が効いている。奥の厨房では、マスターが手際良くアイスカフェラテを作っている最中だった。


 カウンター席には、僕とモカ。


「あの……モカ……?」


 右向く僕が、声量に気を付けながら呼び掛ける。彼女の小さな小さな横顔——目を固く閉ざし、ツンと顎を上げた様子は、言うまでもなく不機嫌なことを主張していた。


 二人の間に、空席が八つ——すなわち、互いに端と端に座っている状態である。


 僕より後から入店したモカは、入り口そばの席にドカッと腰を下ろして以来、ただの一言も発していなかった。


「……モカさーん?」


 途端、刺すような眼光と、への字口を向けられた。おそらく、さん付けした事に対する無言の抗議だろう。……と言っても、顔立ちのせいで怖いよりも可愛いが勝るが。


 だが、このまま何も話が進まないのは、こちらとしては非常に困るわけで……。


 僕は諦め、聞かれない程度に小さく溜め息。


「マスター。モカにチョコチップ・スコーンも」

「レンにチョコチップ・スコーンを」


 ようやく重い口を開いたかと思ったら、焼き菓子のお返し注文だった。てっきり今日は全部僕に払わせる気かと思っていたが、この妙な奢り合いを続ける意思はあるようで、少しホッとした。


 ダークグレーのシャツの上、薄手で白いカーディガンの前を開けて、袖に通した両腕を卓上で組み、デニムのホットパンツから伸びる生脚を交差させている。


 言わずもがな、「この間のことで怒ってますよ」アピールに違いない。


「あー……モカ。先週の事なんだけど、」


 僕の語り出しに、彼女の眉がピクリと反応する。


「一緒に居たのは、僕の姉だ。追い払ってもついて来るもんだから——」

「それで、喫茶店まで連れて来た、と」


 モカは姿勢を変えず、台詞だけ奪っていった。


「にしては、ずいぶん親しげだったわね?」

「親しげも何も、そりゃ一応姉弟だし」

「……そっか。そうよね」


 なんだか的外れな詰め方をしたモカは、誤魔化すようにストローでグラスの中の氷をかき混ぜた。


「だから、僕に悪気があったわけじゃ無いんだ」


 言ってから、なんで浮気がバレたかのような弁明をしてるのか、自分でも謎だった。だがとにかく、彼女の疑念を晴らしたかった。


「……じゃあ、レンの恋人とかじゃないのね?」

「当然だ」


 ——あんなのが彼女だったら、ゾッとする。


 世間一般から見れば、あの姉と付き合いたい人間の方が多いかもしれないが、長年共に過ごした僕にとっては、ありえない話だった。


「——それに、お盆休みでこっちに来てただけだ。当分あんな事は無いよ」

「ふぅん……」


 素っ気ない返事をしたモカの濃いブラウンの瞳は、グラスの奥底へと向けられていた。


「……また他の人と来たりとか、しない?」

「しないよ」

「その逆で、急に来なくなったりとか——」

「絶対に無い」


 自身でも驚くほど、強く否定していた。僕にとって、この喫茶店での彼女とのささやかな語らいは、知らぬ間に大切なひと時になっていた。


「そっか。良かった」


 そう言って、彼女は僕に微笑みかけた。それは、優しく、穏やかで、それでいて、触れると壊れてしまいそうな危うさを孕んだ——そんな、初めて見せた表情。


「そうだよねぇ! レンに彼女なんているわけ無いよねぇ!」


 途端、いつもの調子に戻りやがった。


「あくまでアレが姉だっただけで、僕に恋人が居ないと決まったわけじゃ——」

「毎週日曜のお昼に喫茶店へ来るような暇人さんだもん、いるわけ無い無い!」


 つい矮小なプライドで強がってみせたが、それは反論できない。


 ——ん? でもそれはモカにも当てはまるんじゃないか……?


 すぐそう思い至ったが、口にはしなかった。


 もし彼女に、実は恋人がいる、と告げられた時、僕はそれを受け止めきれるだろうか。いない、と真っ直ぐ言われた時、僕はなんと切り出すべきなんだろうか。そのどちらに対しても、返せる手札をまだ持っていなかった。


 両脚を振り子のように揺らし、太陽のように明るい笑顔を浮かべるモカ。それをまだ、今の関係性のまま、見ていたかった。


 こういうのを、友達以上恋人未満、と言うのだろうか。……いや、週一でお茶するだけの仲を友達と呼んでいいのか?


「マスター、お会計っ!」という声と電子決済の音で、僕の思案は寸断された。


 踊るように軽やかな足取りで扉の前に立ち、彼女がこちらへ向き直る。


「レン、また来週ね!」

「ああ。またな、モカ」


 手に握ったままのスマホを振る。その下に吊られ、揺れるものを見て、ドキリと心臓が鳴る。


 モカの誕生日に僕が贈った、マグカップのストラップ。それが付いたままになっている事が、何故かたまらなく嬉しかった。


 残暑の厳しい陽光の中へと彼女が溶けていった後も、僕の視線はもう誰もいないその空間に、まだ釘付けになっていた。

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