[8月17日 13:00]どちら様?

「へえ! なかなか雰囲気いい所じゃん!」


 耳障りなほどハツラツとした声。店内を見回し、木製のカウンターを手で撫でながら、彼女は一番奥の丸椅子に腰掛けた。


 僕は呆れ顔でその横に座り、ブレンドコーヒーを二つ注文する。


 モダンな内装でジャズが背景に流れる、喫茶店『ハーデン・ベルギア』は、夏期休暇どこ吹く風と言わんばかりに、相変わらずガランとしていた。


 普段通りの光景なのだが、今の僕の心情としては、いっそ混雑してるくらいの方が気が紛れたかもしれない。


 そして、彼女モカがお盆休みで実家に帰省してて今日は来店しない、とかなら助か——


 ——カラン、カランッ。


「レっ!——」


 ——来てしまったか……。


 僕は、ドアベルの鳴る方を一切見なかった。入店したのがモカだというのは、発した一音だけで察しがついていた。そして彼女がそれ以上言葉を続けなかったのは、僕が他の女といる、という事に気付いたからだろう。


 視界の端で動くモカの影は、静かにカウンターの最も入り口側——右奥の席へと着いた。先々週は、そこより二つ近かったはずだが、気を遣って離れたのか、何なのか……。


 僕の左に一人。右に椅子を七つ空けてもう一人。


 モカが普段と異なる大人しい声量で注文するのが、微かに聞こえた。


 ——なんだよ。そんな小声も出せるんじゃないか。


 なんて彼女の新たな側面に、いつもなら突っ込んでいたかもしれない。だが今日は、それどころでは無かった。


「——ねえ、聞いてる?」

「え? あ、ああ、ごめん、聞いてなかった……」


 不機嫌そうに顔を歪ませた美人に覗き込まれて、僕は思わず謝罪していた。そう。顔面は良いのだ、コイツは。


「せっかく麗しいお姉様がアナタの為に時間作って来てあげたっていうのに」

「はいはい、分かってますよ、姉さん﹅﹅﹅


 まるで誰かに説明するかのように、わざと語尾を強調した。


 何を隠そう、真横に座る黒髪セミロングで薄手のゆったりした無地のワンピースを着るコイツは、僕より三つ歳上の姉なのである。決して、断じて、恋人などでは無い。


 だから、俺の右目に怪訝な視線を投げかけ続けるのは、勘弁してもらいたい。


「飛び出すように上京してから、全然連絡を寄越さないし。心配してるのよ?こっちは」

「問題なくやってるから、大丈夫だって」

「そんなわけ無いわ。こんな人が多いだけの薄汚れた街に移り住んで、平気なはず無いでしょう」


 また始まった。くどくどと、都会の悪口、実家の素晴らしさ、ああしてやったのに、こうしてあげるのに、の繰り返し。そのくせ、こちらの意見は全て否定し、聞く耳を持たない。家族揃ってそう。うんざりだ。


 マスターから渡されたカップを、小言を無視して一口で半分ほど飲み下す。姉はと言うと、ガムシロップやコーヒーフレッシュを何個も投入し、土色の水溜まりみたいになったそれを「まあまあね」などと評している。それだけ好き放題に上書きして珈琲の味など分かるものか。


 早いとこ退店しよう。ただでさえ、勝手に着いて来たコイツと一緒にいる所を見られたく無いのに、よりにもよって彼女に知られるなんて。——いや、僕がいつも通りに喫茶店へ寄ったのが間違いか。


 まだ隣でああだこうだ言う姉の話に適当な相槌を返しながら、目線は少しずつかさの減るコーヒーから離さなかった。店内に掛かる音楽が、今はとても遠く感じる。


 こんな様を見て、モカはどう思うだろうか。姉にべったりのシスコン男だと勘違いされるだろうか。何も言い返せない受身な奴だと呆れるだろうか。


 こんな醜態を晒した以上、もう彼女は今までのように接してくれないかもしれない。そう思うと、心がひどく重くなる。


 僕のカップが空になってから数分経ち、ようやく姉もその甘ったるそうな泥水を飲み干した。


 会計しようとした僕を姉は無理やり制し、鞄からスマホを取り出す。「電子決済は無いよ」と告げるとわざとらしく驚いた様子をし始めたので、その口から文句の言葉が出る前に、代わって僕が支払いを済ませた。


「じゃあ先に外で待ってるから」とお釣りを受け取るまでの間に、姉はさっさと退店していた。そこでようやく、一呼吸つけた気がした。


 出口へと向かう足取りが重い。カウンターの端に待ち構えてるモカとは、とてもじゃないが目を合わせられそうに無い。まぁ彼女は席に着いてから一度も顔を向けて来なかったが。


 横を過ぎ去ろうとした時、僕の服の裾が、何かに引っかかる。


 見ると、モカの左手が、つまむようにギュッと握っていた。


 ドキンと心臓が跳ねる音が聞こえた。


「……来週」


 栗色の後頭部から、ただ一言、小さく呟くように放たれた。ただそれだけの事で、僕の顔が綻びそうになる。


「あ、ああ……」


 気の利かない返事しか出来なかったが、それで満足してくれたのか、服は釈放された。


 少し丸めた小さな背中が、なぜだか堪らなく愛おしく思えた。許されるなら、抱き締めたいと望んでしまう程に。


 ——そうだな。また来週。


 たったこれだけのやり取りで、僕の心は軽くなっていた。今日ここに来て良かったと、そう感じていた。なんて単純な奴なんだ、と己の内で自嘲した。


 見えない手に背を押され、僕は店を後にした。


 じっとりとした真夏日の暑さが、どこか心地良かった。

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