第9話 記憶の対決
夕影町跡地からの帰り道、アキラの携帯が鳴った。
氷室からだった。
「大変なことが起きました。すぐに図書館に来てください」
声が切迫している。
「何があったんです」
「黒崎が脱走しました。そして——」
電話の向こうで、爆発音が聞こえた。
「図書館が襲撃されています」
*
図書館に着くと、建物の一部が黒い霧に包まれていた。
警察が周囲を封鎖し、職員たちが避難している。カオリの姿を見つけ、アキラは駆け寄った。
「何が起きてるんです」
「黒崎が、禁じられた技術を使ったのよ」
カオリは震えていた。
「『記憶侵食』。自分の記憶を武器に変えて、他者の記憶を喰らう。でも、それは使用者自身も破壊する」
玲奈が息を呑んだ。
「まさか、自分の命と引き換えに」
「ええ。最後の復讐のつもりでしょう」
氷室が近づいてきた。制服が破れ、額から血が流れている。
「黒崎は最上階にいます。そして、人質を取っている」
「人質?」
「新任の職員です。まだ二十歳の」
アキラは決意を固めた。
「行きます」
「待って」
玲奈がアキラの腕を掴んだ。
「私も一緒に行く」
「危険だ」
「だからこそよ。私には、夕影町の記憶がある。黒崎の父が何をしたか、その真実を知っている。それが武器になる」
氷室も頷いた。
「私も同行します。記憶犯罪対策局として、これは私の責任でもある」
三人は、黒い霧の中へ入っていった。
*
霧の中は、現実と記憶が混在する異空間だった。
図書館の廊下を歩いているはずなのに、時折、別の風景が重なる。黒崎の記憶が、現実を侵食している。
幼い黒崎が、父親に褒められている光景。
優秀な成績で、父を喜ばせる少年時代。
そして、父の期待に応えようと、必死に努力する青年時代。
「哀れね」
玲奈がつぶやいた。
「愛されたくて、認められたくて。でも、愛していた父は幻想だった」
階段を上ると、記憶の密度が濃くなった。
今度は、黒崎が館長に就任した日の記憶。父の後を継ぎ、記憶図書館を守ると誓う姿。
しかし、その誇らしげな顔が、次の瞬間、歪んだ。
夕影町の真実を知った瞬間の記憶が、重なったのだ。
「うわあああああ!」
黒崎の絶叫が、空間を震わせた。
最上階に着くと、そこは完全に記憶の世界と化していた。
中央に黒崎が立っている。その姿は、もはや人間とは呼べなかった。記憶の黒い触手が、体から無数に伸びている。
そして、その触手に捕らわれた若い職員が、意識を失って浮いていた。
「来たか」
黒崎の声は、複数の音が重なったように聞こえた。
「私の最後の舞台に、ようこそ」
「解放しろ」
アキラが叫んだ。
「その人に罪はない」
「罪?」
黒崎は笑った。狂気の笑い。
「私にも罪はなかった。ただ、父を愛していただけだ。なのに、すべてを奪われた」
触手が襲いかかってきた。
アキラたちは散開して避ける。しかし、触手は執拗に追ってくる。
「これは、私の憎しみの記憶だ」
黒崎が叫ぶ。
「五十年間、積み重なった嘘。それを守るために犯した罪。すべてが無意味だったと知った絶望」
触手がアキラを捉えた。
瞬間、黒崎の記憶が流れ込んでくる。
父への愛。期待に応えたい一心で、どんな汚れ仕事も引き受けた。夕影町の生存者を追跡し、口を封じた。すべては、父の名誉のため。
しかし、その父は、三万人を実験動物として扱った男だった。
アキラは、黒崎の痛みを感じた。愛するがゆえの過ち。その重さに、押しつぶされそうになる。
「アキラ!」
玲奈の声で、意識が戻った。
玲奈が、夕影町の記憶を展開していた。しかし、それは憎しみの記憶ではなかった。
楽しかった日々。友達との思い出。家族の温もり。
失われたものへの悲しみはある。でも、それ以上に、生きていた証としての輝きがある。
「これが、私たちの記憶」
玲奈の記憶が、黒崎の憎しみと対峙した。
光と闇。希望と絶望。愛と憎しみ。
二つの記憶が、激しくぶつかり合う。
「なぜだ」
黒崎が苦しそうに言った。
「なぜ、お前たちは憎まない。すべてを奪われたのに」
「憎んだこともあった」
玲奈は静かに答えた。
「でも、憎しみからは何も生まれない。それに気づくのに、五十年かかったけど」
氷室が前に出た。
「黒崎さん、まだやり直せます」
「やり直す?」
黒崎は自嘲した。
「私は、罪のない人を殺した。父のために、嘘のために」
「だからこそ」
アキラが言った。
「真実と向き合い、償うことができる。死んで逃げるのは、また新しい嘘だ」
黒崎の動きが止まった。
触手が震え、力を失い始める。
そして——
黒崎は膝をついた。触手が消え、人質の職員がゆっくりと床に降りてくる。
「私は……私は……」
黒崎は泣いていた。初めて見せる、人間らしい涙。
父への愛も、犯した罪も、すべて本物だった。
だからこそ、向き合わなければならない。
逃げずに、生きて、償わなければならない。
黒い霧が晴れていった。
窓から差し込む夕陽が、すべてを赤く染めている。
長い一日が、終わろうとしていた。
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