第六部 その1
1 フランス人の誇り
2037年4月8日。
パリ=シャルル・ド・ゴール空港。
* * *
『リヨンから電車で2時間。わたしはパリにある国際空港,シャルル・ド・ゴール空港に到着しました。キャリーケースが腕にきます。はぁと一息ついて,第2ターミナルを見まわしました。前方の椅子に,一組のカップルがイチャイチャしていました。女の方が「イタリア楽しみ!」と言い,男が「ジルダはかわいいなぁ」なんて腕を回していました。ふと,自分の境遇と重なりました。
『いつからでしょう。わたしが自分の性別に違和感を覚えるようになったのは。両親には何を言われるか怖くて,なかなか打ち明けられませんでした。学校ではキモイだとか悪口を言われました。自分は厄介者なのでしょうか。親不孝者なのでしょうか。
『やがて,自分がトランスジェンダーという特別な存在なのだと知りました。トランスジェンダーとは,心と体の性が違う人のことです。GID(Gender Identity Disorder 性同一性障害)という医学用語の方が馴染みがあるかもしれません。
『いずれにしても,わたしはトランスジェンダーでした。ある統計によれば,世界には7,000万人のGIDの方がいるようです。インターネットで自分と似たような状況の人たちがたくさんいることを知って,慰められました。
『初めてワンピースを着た日のことは忘れられません。学校を卒業してからのことでした。自分のお小遣いで,初めて花柄のワンピースを買ったんです。鏡の前に立ち,服を合わせてたとき,ああ,やっぱり自分は女なんだって感じました。とても心地が良く,嬉しくて何度もワンピースにキスしました。両親は,わたしのそうした様子を見て,「あなたが男の子でも女の子でも,私たちはずっと愛しているわよ」と言ってくれました。父母の優しさに,涙が頬を伝いました。
『会社の人たちは,みんないい人でした。でも時々,興味本位で心無いことを言ってくる人もいました。「本名は何ていうの?」とか「昔の写真を見せてよ」とか,ある人は「今もアレは付いてるの?」なんて言う人もいました。
『そういうことを言われると,やっぱり傷つきます。本名なんてどうでもいいことです。写真にしたって,わたしは見世物なんかじゃありません。下世話なんてもってのほかです! 同情心から「大変だね」と言ってくれる人もいます。でもわたしは自分のことを憐れまないようにしています。堂々と胸を張って生きています。これが最高の自分なんだと思っています。
『今では,同僚たちも自然な仕方で接してくれるようになりました。LGBTに対する理解が進んできたからかもしれません。トランスジェンダーの人たちは特別な人なんかじゃない。みなんと変わらない,普通の人たちです。普通に生きて,普通に仕事をして,普通に余暇を楽しみます。ただ……。
『わたしは天井を見上げました。ターミナルを支える,大魚の骨のような交差した鉄柱が見えます。「ただ,普通の恋愛は夢……」。わたしは吐息しました。わたしも素敵の恋愛がしたい。素敵な男性と巡り会って,ロマンチックな恋がしたい。やっぱりそう思います。できないとは言いません。でも今の社会は,わたしにとってまだまだ窮屈なのです。
『こういうことを考えると,自信がなくなります。わたしはこのまま独り身なのでしょうか。そう考えるとぞっとします。周りの人たちが結婚していくのを見るのは辛いです。取り残されているように感じます。
『誰かが,そう,素敵な誰かが,わたしの手を引っ張って行ってくれないのでしょうか。ついておいでって言ってくれないでしょうか。
『ピローン。携帯に着信がありました。ミシェルからです。「今から日本だね。楽しみ!(顔文字)」というメールでした。嬉しいような,悲しいような,報われないような,複雑な気持ちになりました。友達から始めない? あの時のミシェルの言葉が思い出されました。
『結局友達のまま,これからも進展しないのでしょうか。彼は自分の気持ちを忘れてしまったのでしょうか。わたしは画面を眺めます。彼の心を読めたなら,どんなにかいいでしょう。
『「お客様にご連絡いたします。全日本空輸,日本行き。ボーイング791のご搭乗は──」。時間です。わたしはキャリーバッグのハンドルを掴みます。ちらりと前方のカップルを見ました。
『待ってるのよリリアン。きっと素敵な人に巡りあえるわ。わたしはそのまま,振り返らずに,ゲートに向かって進みました』
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
『「なあ,フランツ。彼女はどうしてメールを返してくれないんだろう」。僕はスマホをスクロールしながら彼に尋ねました。離陸してもう3時間も経つのに,彼女から全然返信が来ないのです。
『そうです。この日,僕たちは彼女と共に日本へ発つことになりました。別便で向かうとはいえ,離陸時間はそう変わらないはずです。でも,待っても待っても,メールの一つもよこしません。怒っているのでしょうか。それとも疲れているのでしょうか。あるいは寝ているのかも?
『フランツの方を見ると,彼はイヤホンをしながら座席で映画を観ていました。「やれっ,そうだっ! いいぞっ,ヒュー!」とかなんとか小声で叫んでいました。
『「なあ!」。僕は彼のイヤホンジャックを引き抜きました。「なんだよ,今いいところなんだぞ」。僕はスマホを見せながら言います。「彼女はメールを返さない」。すると彼はどうでもいいという表情になって,「リリアンか。新しい男でもできたんだろ」とか言ってくるんです。おお,神よ!
『「何だミシェル,やきもちか?」。彼はからかいます。「リリアンは友達」と公言していたのに,ついに恋愛感情が芽生えたのかのかというわけです。「いや,そんなんじゃ……」。僕はあいまいに返事をしました。
『正直,自分の気持ちが分かりませんでした。出会ったときは,なんとかなると思っていましたが,時間がたつと,軽はずみな気持ちでは彼女を幸せにはできないと思えるようになったのです。でも,彼女と一緒にいるようになって,びっくりするほど共通点が多いことにも気付いていました。
『同じようなことに関心があり,同じように物事を考え,同じように動くんです。彼女のはじけた笑顔は,僕のかたくなな心を,だんだんと解きほぐしていくようでした。現れ出たものは何でしょうか。ただの友情でしょうか。それとも……。
『「わからないよ」。僕はフランツに告げました。彼は頷いて,そして僕を小突きます。「ゆっくりでいいぞ。一生のことだからな」。彼の温かい言葉に,どれほど救われたことでしょう。
『「あと,メールが来ないのはなぜか,教えてやろう」。フランツはイヤホンをし直し,シートを倒しました。彼は二本指で“あばよ”のポーズをしながら言うのでした。「機内まで携帯電波は届かない。それが答えだ(笑い)」』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『雲の上まで昇ってくると別世界でした。カザフスタン上空はロマンチックでした。夜空を月と満天の星が照らし,分厚い雲のじゅうたんを浮かび上がらせます。
『「リュシーとは本当に息が合った」。イヤホンから流れるハスキーボイスは,俳優ティーンス・ベリのものです。今年公開の映画「ロンドンの庭で雨宿り」は,話題の恋愛物語なのですが,うっかり見逃していました。彼は明滅する星の一つを眺めながら,ゆっくりと語ります。「近所だったし,幼いころはよく遊んだ。イギリスへ行くたびに,彼女と顔を合わせてた。幼馴染みたいなものだと思うよ。少なくとも僕はそう思ってる」。
『「……だから,今でも信じられない」。彼は悲しげな表情になりました。「何が起こったか理解もできない。彼女も僕と同じように感じてくれてると思ってた。でもね,やっぱり大きかったんだよ」。「大きかったって?」。寄り添う女優エリー・ヴェトラのドレスは,月明かりに照らされて,キラキラと輝いていました。「越えられない壁だった。無理だったんだよ。彼女には,その覚悟ができていなかった。僕たちを隔てる壁は,あまりにも大きかったんだ」。
『「でも今,ロンドンの庭で,新しい恋を見つけたよ」。そして甘美なテーマ曲が流れてきます。「嬉しい」。二人はゆっくりと唇を近づけて……。
『プチン。わたしはモニターを消しました。別に映画に飽きたわけではありません。もう消灯の時間です。わたしは枕を引っ張り出して,目をつぶりました。
『それぞれの想いを乗せたわたしたちの航空機は,赤いストロボライトを点灯させながら,そのまま闇に溶けていったことでしょう』
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
『パリを発つこと13時間。ついにガラス越しに島が見えてきました。「日本だー!」と万歳し,写真をバシバシ撮りました。長い旅路を経て,ようやく日本に到着したのです。フランツに「落ち着け」とたしなめられました。あとでプリントすると,窓ガラスに自分のひっどい顔が亡霊のように映っていました(笑い)』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『ナリタ空港に着くと,異国のかおりがしました。「きゃーミシェル! 見て見て! 天ぷら! ついにサムライの国に来たわ!」。ミシェルと合流後,空港内のうどん屋ではしゃぎすぎました。すみません。「お疲れ,リリアン」。彼もわたしを気遣った直後に,ショーケースにへばりつきました。「なんてこった! 食べ物が──」「そう,飾ってあるのよ!」。ガラス越しのひな壇に,天ぷらうどんやお味噌汁が,整然と並んでいるではありませんか!
『わたしのお腹はグーっと鳴ってしまいました。機内で自分を憂いていたのが嘘のようです。それほど,あのショーケースにはインパクトがありました。ミシェルのお仲間が,食品サンプルというものだと教えてくれました。「冗談でしょ? これが偽物?」。旅行客の食欲を刺激するために,意匠を凝らした造形を用いる。なんて抜け目ない国民でしょう! せっかくなので,見本商品と一緒に記念撮影をしておきました(笑い)』
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
『うどんを食べてから,京都に行きました。日本の文化や伝統が学べる場所だと聞いたからです』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『そこは
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
『驚いたのは,トイレが普段通りあったことでした。お金もいりません。「公衆トイレこちら」の看板が見えたので,恐る恐る入りました。中に男がいたので咄嗟に退避しようとしましたが,なんと男は笑顔で「ハロー」と挨拶してくるのです。思わず「ハロー」と返してしまいました。この時代にトイレが安全なんて信じられない! 使うと思って持ってきた携帯トイレの出番はありませんでした』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『仕事の後,キンカクジでお抹茶をいただきました。正座は難しくて15分も持ちませんでした。でもミシェルは最後まで正座していました。「たかが座るくらいっ」。自分でも不思議でしたが,この頃から,わたしはミシェルのことを本気で恋慕するようになりました。とても頼り甲斐があり,何事にも動じない人物だったのです』
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
『負けん気の強いリリアンが,痺れた脚をさすっている様子。立ち上がろうとしてもたつき,「置いてかないで!」と半泣き状態で腕にすがってくる様子を見,改めて彼女は可愛いと思いました。知れば知るほど,彼女のことを好きになっていく自分がそこにいました』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『抹茶をたててくれた男性に,日本についてインタビューしました。「どうして日本はこれほど安全で素敵な国なのでしょうか?」。彼は姿勢を崩さず,「他者を思いやる心があるからです」と。「人様に迷惑をかけない。一期一会の精神で,精一杯のおもてなしを差し上げる。これが日本人の心です」。合点が行きました。そしてちょっと悲しくなりました。フランスの良い点はどこなのか』
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
『
『「リリアン。どうなんだろう。フランスが日本に優っている所なんてあるんだろうか」。彼女は,「芸術のセンスなら,あるいは上かもしれないわ。絵画とかね」。そういう答えを求めているわけではないと彼女も気付いていたはずです。「そうだね」と言い,そのまま桜を見続けました』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『次の日,ホテルのチェックアウトを済ませてから,タクシーで京都駅に向かいました。「このあたりじゃない?」。フロントガラス越しに,背高のっぽの塔が見えてきました。「京都タワー横の街区にあたしは住んでいます」というメールは助けになりました。わたしたちは運転手にお金を支払い,駅からタワーを見上げました。お団子が2つくっついたような面白い展望台です。エッフェル塔は鉄骨でできているので,無鉄骨建築がとても斬新に感じられました。旅のもう一つの目的がこれで達成できそうです』
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
『僕も出発前に知らされました。リリアンは,例のアジア少女カレンに会う予定だったのです。「美人のお姉さん」と褒められたのが嬉しかったのでしょう。リヨンのカフェでライン友達になっていましたから。日本に行く機会があれば,絶対寄るわと話していたのです』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『信号が青になったので,スクランブル交差点を北上しました。土産物屋や銀行を通り過ぎると小道があり,旅館やバーが並ぶブロックに出くわします。そのブロックの一角に,お目当てのカフェ「フローラル」の看板が見えました』
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
『鈴の音と共にドアをくぐると,「いらっしゃいませ」,エプロンを付けたおさげの少女が出てきました。「大きくなったわねー」。「リリアンさん! それにお兄さんたちも!」。一年半ぶりに見るカレンちゃんです!
『「皆さんが
『「一昨年の旅行は,花蓮の10歳の誕生日を祝うために行いました。色々な文化を取り入れ,豊かな感性を持った人間に成長してくれることを願っています。特にヨーロッパの豊潤な思想は,私たち日本人にとって,極上のパンケーキのようですから」。彼はニコと笑いました』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『「まさか」。彼はケンジの言葉に驚きを禁じ得なかったと述懐しています。わたしも話に加わっていれば,ミシェルと同じ反応をしていたかもしれません。散々「日本は素晴らしい」と内輪で語ってからのケンジの言葉です。2037年のフランスが,日本のお手本であるはずがありません』
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
『もちろんどの国にも良い所があり,フランスを他の国と比較して卑下するつもりはありません。国民性もあります。真似ることがいつでも相応しいとは限りません。僕たちの国には長い歴史があり日本に劣らない数多くの文化を持っています。でもやっぱり,日本は他国よりも安定していると思えてならないのです。
『それでつい言えました。「とんでもない! 日本は,欧州にある多くの国よりはるかに住み心地がよい!」。彼は「ありがとう」と返してから,「皆さん,パンケーキは食べますか?」』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『「わーい,パンケーキだ!」。カレンちゃんと一緒に,わたしもテーブルに戻りました。「すみません。朝のお忙しい時間に」。ミシェルのお仲間が謝ると,ケンジは豪快に笑い,「いいんです。小さな店ですから。それにまだ9時半です」。ケンジは掛け時計を指さしました。「京都駅前地下街も10時からしかやってませんよ。今は皆さんが一番大切なお客さんです」。店前のイーゼル看板に「
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
『やがて,バターのいい匂いがしてきました。「どうぞ」。出されたのは,三段重ねの出来立てパンケーキ,そして紅茶でした。てっぺんにバターとミントの葉がのっています。「パンケーキセットです」。リリアンは目を輝かせて「おいしそう! 久しぶりにまともなカフェの時間が楽しめそうね!」』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『「フランスに修行に行っている間,わたしは皆さんの国から,実に多くのことを学びました」。ケンジはテーブルにつき,話し出します。わたしたち4人は,パンケーキを食しながら,話に耳を傾けました。「最初は戸惑いました。ヨーロッパの人たちとは感性が全然違いました。言葉が通じないだけでなく,フランスの方々はお喋りで,それによって傷つけられたこともありました」。あるあると思いながらわたしは相槌を打ちました。
『「でも,だんだん気付いてきたんです」。ケンジはわたしたちを見ました。「彼らはとても温かい人々なんだと。長くいればいるほど,彼らのことを愛おしく思えるようになってきたんです」。「どんなところでそう思われたんですか?」。ミシェルはケンジに尋ねました。彼はすぐに「フランスの方々にはハートがあります」と返答してきました。「それも能動的なハートが」。どういう意味でしょうか。紅茶を一口飲んでから,その意味を解き明かしてくれました。
『「例えば,そうですね,家族に対する接し方です。フランスの方々は大切に扱うべき人が誰なのか知っています。子どもを愛し,女性を敬い,家族を守ります。日本は規律正しいですが,能動的な愛かというと,お世辞にもそうは言えません」』
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
『そう言われてみれば,この国でレディーファーストをする男性をほとんど見ませんでした。ドアを開けてあげたり,お会計をしてあげたり,ハグしたり,キスしたりしている日本人です。それだけじゃない。熟年の夫婦が肩を並べて歩いている姿もありませんでした。トイレ問題のような大きな揉め事は少ないですが,彼の言う通り,確かに何か足りません。大切な何かが。それはもしかして──』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『「ハートです」。ケンジは言いました。「日本ではルールが重んじられます。それはそれでよいのですが,『人様に迷惑をかけない』だけでは,身近な人間関係,例えば家族関係で問題が起きやすくなります。
『彼は紅茶を一口飲みました。「わたしも妻と15年連れ添っていますが,今でもお互いに意見が合わなかったり,感情的になって無思慮な話し方をしてしまうことがあります。大人同士のけんかですから,たいていどちらにも非があります。やりがちなのは,だんまり戦術です。解決策は解決しようとしない事とでも言いましょうか。とにかく相手が謝ってくれるまで待つ,怒りが過ぎ去るまで待つ。わたしも含め,日本人はこういう風に喧嘩に対処しようとします。
『「黙っていても迷惑をかけていることにはならないかもしれません。危害を加えていないですから。でも,夫婦関係をレベルアップさせるためには,まず行動です。関係を改善するために自分から謝れる。『ごめん。愛しているよ』と言える。こうした熱いハートが,今の日本に最も必要なんです」』
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
『そう言われてハッとしました。現代日本が抱える大きな社会問題は,夫婦の不和です
『ル・モンド紙は昨年,「日本は内側から崩れ去ろうとしている」と述べていました。迷惑をかけないでいようと思うあまり,大切なものを失った国民。それが2037年の日本だったのです』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
──────────
(*) 彼の述べる「夫婦の不和」とは,破局のことであろう。日本の離婚率が高い要因は一つではない。これはあくまでミシェルの個人的な見解である。また,個人レベルで見たときに,別れないことがいつでも正解とは限らない。
『「だから自信を持ってください」。ケンジは立ち上がりました。「あなた方は,宝物を持っているのです。日本にはない,最強の国民性,
Faites pour les autres tout ce que vous voudriez qu'ils fassent pour vous.
(自分にして欲しいと思うことを人にもしましょう)
『ケンジはよく知っています。
『「確かに今はいろいろな問題があるかもしれません。本当に苦しい時です」。ケンジの言葉は今も忘れません。「でも皆さんは,日本にはない国民性がある。フランスは変わることができる。自分を他と比べないで。フランスの良いところをもっともっと引き出すようにするんです」。
『その時,鈴の音が聞こえ,奥さんが帰ってきました。とても上品で愛想の良い人でした。「あー,この方々が外国からの」。「こんにちは」。開店時間のようです。奥さんは,手を振り,「おおきに。ようこそおこしやす」とわたしたちを歓迎してくれました。ケンジは彼女のもとに歩み寄り,何かを囁き,ハグしていました。奥さんは幸せそうに顔をほころばせていました。
──────────
(*) 黄金律(la règle dor)
ラ・ビブルの「マリーの書」7章12節にある言葉。マリーの書は,キリットスの弟子のひとり,マリー・オジェがキリットスの言葉をまとめたもの。有名な言葉に「二人は一体」「隣人愛」などがある。
『ケンジの言いたいことが分かりました。向き直ると,ミシェルと目が合いました。お互い納得できたようでした。なるほど,そういうことだったんです。ミシェルのお仲間はきょとんとしていましたが,わたしたちは,つかえが取れたような気がしていました。
『「ありがとうございました。じゃあね,また来るわ!」。ご両親とカレンちゃんにお礼を言い,わたしたちは退店します。スクランブル交差点を渡り切り,今度こそ京都駅に向かいます。
『「ミシェル,記事が書けそう?」。そう訊くと,彼は笑いながら言ってきました。「もう出来上がったよ」。こうして,わたしたちの日本旅行は,多くの収穫を伴いつつ,無事に終わったのでした』
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
『「ふーむ。実に面白い切り口だ」。ニルスは
『彼は腕を組んでから,「ここまで書けているなら掲載する方向で考えてみようじゃないか。ただ……」。ニルスは眼鏡をクイと上げてから,「どれだけの読者が共感するかな?」と。「大統領選も終盤に差し掛かっている。共和国民は,トイレ問題解決のため政治を変えようとしている。ではどうして,国民に注意を向ける必要があるのか。まあ,今回はこれで良しとするがな」。ニルスはあくびをし,原稿をわきに抱えて立ち上がりました。「安心したまえ,ミシェル。君の記事は,これまで一度だって当たったたことがない。今回もそうだ」。
『ボスの言葉に肩を落としましたが,引きずらないようにしました。久しぶりの記事掲載です。タイトルは「フランス──ハートのある国」です。利己心がこの国を辟易させ,数知れない問題を起こしているというのに,この国を「ハートがある」と評しているのです』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『さらに面白いのは,政治を変えなければ問題はなくならないと考えられていた時期に,主権者である「国民」にスポットを当てていたことです。当時は選挙期間でしたから,こういう書き方をする記者は,ほとんどいませんでした』
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
『出だしはこうです。「我が国は,トイレ問題の渦中にあっても,敵を見失ってはならない。他人を
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『その年,ラ・ニュヴェレ紙の部数は200万ほどありましたから,多くの知識人たちが彼のコラムに目を通したことでしょう。「やったね,ミシェル! 有名人!」。彼のアパートでお祝いをしました。シャンパンを
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
『当時は,この記事の影響について,漠然としか考えていせんでした。「当たり前のことを長々と述べている」という意見もありました。確かに。注目されるような記事ではなかったというのが,率直な感想です。でも,振り返ってみると,まさにその時代にぴったりな記事が書けていました。僕たちはこの後,記事の本当の影響力を知ることになりました』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『パーティーの後,ミシェルがわたしをベランダに招きます。「よく考えた」。彼はわたしの瞳をじっと見て,「リリアン,僕は正直な人間でありたい」と真顔で言ってきました。「記事を書いた本人が,ハートを持ってないなんて言われたくない。この愛が正しいかどうかは分からないけど、本物であることは分かるよ。だからリリアン,……僕と結婚を前提に交際してくれないか?」。
『それを聞き,天にも昇る思いでした。わたしは──お酒も回っていたのですが──何度も何度も万歳して,「デートぉ! デートだぁ!」と踊りまくりました。山頂に辿り着いた登山家のようでした。ついに彼氏をゲットです!』
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
『本当に悩みました。自分は誤った道を進んでいるんじゃないだろうか という気持ちはなかなかぬぐえませんでした。でも,日本に飛んで,なぜかモヤモヤが綺麗になくなっていったんです。自分は良くも悪くも“日本人”でした。ルールに縛られていたんです。
『だからもう立ち止まらない。デートから1年半後。僕は彼女に「結婚してほしい」と告げました』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『彼と腕を組みながら式場に入ります。人生に新しい1ページが加えられるという実感がわきます』
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
『公会堂の鐘の音が僕たちを祝福します。ウェディング・ドレスに身を包んだリリアンは,もう最っ高に綺麗でした。式が進み,「永遠の愛を誓います」と述べて,指輪を交換しました。フランツは心からの祝辞を述べてくれました』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
『多難だったのはここからです。なにせ,トイレット革命の渦中ですから。わたしたちの結婚は,周囲から相当非難されました。親族の中にも,軽蔑してくる人がいました。フランス人ですからね,お喋りなんです(笑い)。革命のほとぼりが冷めるまで,神経の休まるときがありませんでした。それでも,ミシェルと結婚して良かったと思えます。頼もしいパートナーが与えられて、心の底から幸せです』
──リリアン・ベレッタ。通信記者。BBF通信社。
『彼女の言う通り,ストーリーはここからです。結婚はゴールではない。始まりなのです。そして,トイレット革命もここからが正念場です』
──ミシェル・ポアソン。新聞記者。ラ・ニュヴェレ新聞社。
* * *
二人とも結婚おめでとう! また,素晴らしい旅行ができたことにも感謝している。
さて,これから我々は,フランス史に名を残す大統領の誕生を目撃することになる。彼はトイレ問題に剣を投ずるヒーローか,はたまたモンスターに喰い尽くされる無能力者か。丁々発止のトイレ論争についにピリオドが打たれる時が来ようとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます