第4話 妻は倫理が薄い戦術マニア


「も、申し訳、ございませんっ……!」

 勢いよく頭を下げた。顔を、上げることができない。

 夫であるアルバンに、私が戦術に対して興味があることがバレた。淑女としてあってはならない失態だ。

 これまでは、行き遅れ令嬢として悠々と、あの甘い両親の元で好き勝手趣味に溺れていれば良かったが、今はもう、状況が違う。

 辺境伯夫人として、きちんと振る舞わねばならなかったというのに、失態だ。

「……君が、以前、王都のアカデミーに戦術論文を送っていたのは知っているよ。エックハルト教授宛だったね? 僕も読んだよ。教授は、古いタイプのご老人だからね。君の名前だけでゴミ箱に捨てていたから、申し訳ないけど、勝手に回収させて貰った」

「え、は、えっ……? う、嘘でしょう?」

「残念だけど、本当のことだ。筆者が女性だからって、ただそれだけの理由で君の理論は一瞥もされなかった」

「いえそうではなく。あっ、あの、あれはっ、わ、わ、わ、私がまだ、確か、十三? 十二? そのくらいの時のことなのですがっ」

「えっ、気になるのはそこなの? えっと、その当時は僕も、まだアカデミーに在籍はしていたから」

「あの、すみません。今更なのですが、アルバン様、お幾つですか?」

「二十五だよ。君の三つ上。何歳だと思っていたの? まあ、老けている自覚はあるけどさ……。」

「すっ、すみませんっ!」

 驚いた。

 余りにも大きいし、がっしりしているし、見た目の印象からして、既にとっくのとうに肉体は完成しています、という雰囲気だったので、三十前後とばかり思い込んでいた。

「君は若く見えるタイプだし、余計そう思うかもしれないけど、この通り、目つき悪くて辛気臭い顔してるからさ。ほら、若くても周囲から舐められなくて済むって利点はあるし、そこは有利ではあるんだけど……いや、やめよう。話を戻すね?」

「あっ、はい」

「世間的には、確かに淑女が戦略的な知識を得るのは慎みがないとされているけど、僕はそうは思わない。むしろ、なんで現代社会において、淑女は無知であればあるほど良い、って風潮なのか……。少なくとも、僕は君が好きだ。これが大前提。だから、君がもし頭カラッポでも問題は無いけど、でも、もし、君が僕とお喋りするのが嫌じゃないなら、知識と知性に基づいた実りある会話が出来るなら、その方が楽しいんじゃないかなって思うよ」

 真っ直ぐに、真摯な瞳で言われてしまって、つい、顔が熱くなってしまう。

 何を隠そう、私は、知的な男性に弱い。

 これまでの人生で、一度も恋をしなかったという訳ではない。

 この人が好きかも知れない、という場面は何度かあって、しかして相手は大半が知識人だった。

 ごく稀に、調査で領地を訪れる学者さんに対してのそれが多く、淡い恋心を覚えてはいたが、彼らは揃って妻帯者であったので「なんだかこのヒト、ちょっと好きかも」以上に至ることがなかった。

 恋、というよりは憧れに近い感情であったのかも知れない。

 が。

 目の前のこの、物凄く大柄な、顔の半分に痛ましい傷のある、アルバン・フリートホーフという男性は、既に私の夫なのである。

 こ、困った。

 マッドサイエンティストなのに。

 変態なのに。

 好き、かも知れない……!

 どう考えても私より優秀で強くて賢い。頭が良い。知識がある。世紀の発見をなんでもないことのように語るし、妻が頭でっかちでも気にしないどころか、知識を得ることを推奨してくれる。

 思い掛けず、この縁談、これ以上ないほどの好条件だったのでは?

「まあ、本音を言うと……僕、頭の悪い女、嫌いなんだよね……会話するだけでイライラするからさ。その点、ツェツィーリア、君は賢いから話していて楽しいよ。だから、君をつ、つっ、妻に迎えられて、本当に嬉しいよっ……!」

 また息が荒い。

 なんで。どうして。

 どこに興奮する要素があったの?

 もしやこの人、妻という単語だけで興奮するようになってしまっているのでは?

 しかも発言からして、ちょっと、いやかなり捻くれているし、シンプルに性格が悪そう。

 ……やっぱり、そこまで好きじゃないかも知れない。

「まさか、君がこんな風に、僕なんかとお喋りしてくれるなんてっ……! 夢みたいだ……! 泣いて嫌がられたり、最悪、顔合わせの瞬間に気絶されるかもって思っていたんだけど、ぼ、僕たち、もう、仲良しだよねっ……!?」

「まだ仲良くはなっていません。ですが、出来る限り友好的な関係を構築したいとは願っております」

「外交官のような回答だね」

「恐縮です」

「クールな君も素敵だ……!」

「駄目だなこれ。なに言っても駄目だ。はい。すみません。アルバン様、お話の続きなのですが」

「うん? どうしたの?」

 本人はニコニコしているつもりなのだろうが、顔の傷のせいなのか、アルバンの微笑みは不気味なニタニタ笑いにしか見えない。辛うじて雰囲気や口調で機嫌が良いのだと判断出来るが、なかなかに分かりにくい。なんなら顔は普通に怖い。

「ガルムは、人間や家畜を襲うことで、血液などの体液から憑代の水分補給をしている、という線もあるのでは……?」

 我慢出来なかった。

 よくよく考えてみれば、数多くの人間が襲われる、ということは、恐らく比率から言って、火属性魔法の使い手ばかりが狙い撃ちされている訳ではあるまい。

 被害者数が多い以上、そこには何らかの理由があると考えるべきだろう。

「……確かに。詳しく聞かせてくれる?」

「聞き齧った程度なのですが、以前、ガルムに襲われた人が、顔を食べられてしまった、という話があることを思い出したんです。他にも、家畜が襲われたという話も聞きますし。その場合、被害の多くは牛や豚など大型の家畜なので、そちらは魔力がほぼ無いにも関わらず捕食されるというのなら、純粋に水分の確保のためなのではないかと」

「なるほど……こっちではガルムは主に山や森にしか出ないから、思い付かなかった。でも、それだと疑問が残る。水分量の確保が目的で家畜を襲うのなら、果樹など水分量が多く狩りのリスクが少ない植物を襲わないのは何故なのか」

 なんだか、アルバンなら意見を言っても大丈夫なんじゃないかな、という気持ちになって、調子に乗ってしまったのだけど、本人も真剣な表情で考証に入っているので、安心した。

 ごく自然に、議論を再開してくれる。

 会話が成立する。

 素直に、楽しい、と思う。

「うぅん、それは、確かにそうですね」

「一旦整理しよう。あくまでも推論だけど、恐らく、ガルムの狩りには大まかに二つのパターンがあって、まず一つ目は魔力を得るために人間や他の魔獣を襲うパターン。そしてもう一つが、ごく僅か、微量の魔力しか持たない牛や豚など大型畜産動物を襲うパターン。問題となるのは後者だけど、確認するのは難しいね」

「はい。ですが、ガルムがこの辺境伯領では人里近くに出ないというのも初耳です。地域や群れによって差があるのでは?」

「ありそうだね。僕たち人間が認識できていないだけで、分布地域によって亜種が居る可能性もあるし」

 うーん。

 二人で唸る。

 もう少しで分かりそうなのに、分からないのがもどかしい。あと一歩、あと一手、何かがあれば有力な仮説が立てられるのに。

 恐らく、アルバンも同じことを思っていたのだろう。

「……提案なんだけど」

 腕組みをして黙り込んで、それから、囁くように言った。

 悪巧みをする子供が、内緒話をする時の密やかさで。

「魔力を全く持たない生き物に対して、ガルムがどんな反応をするか実験、してみない……?」

 チラチラッ、なんて感じで、アルバンが私に視線を向けてくる。

「と、いいますと?」

「今からこの瓶の蓋を開けて、どうなるか検証する」

「え……それは……。」

 私が襲われたら死ぬのでは?

 いや、待てよ。

 もしかして、私が襲われるか否かが検証になるのか!

「確かに、私には魔力が全くないので、ガルムが襲う様子がなければ、植物のようなものとしてスルーされる……?」

「そうなるんじゃないかなと思って」

「なるほど。私が襲われたら、攻撃対象が動物か植物か、または魔力の有無で相手を襲って水分ないしはそれ以外の要素を奪おうとしていることが実証されますね」

 ガルムは一見すると狼の姿に見えるが、しかし、その実体がただの水なのだとしたら、眼球も視神経も存在せず、我々人間のことは魔力で感知している可能性が高いだろう。

 危険は少ない……ような気がする。

「ええと、私が襲われるか否かで検証が可能であることは理解しました。ですが、私より先にアルバン様が襲われた場合、わからないのでは?」

「僕は魔力が強すぎるから、ガルムには襲われないんだ。何もしなくても、近くに行くだけで逃げられるくらいだからね」

「そ、そうなんですね」

 獰猛とされる魔獣でさえも尻尾を巻いて逃げてゆく、だと……?

 どれだけ強いんだろうか、この人。

「それと、この部屋の中でなら、もし君がガルムに襲われても、確実に対処出来るよ。怖いかも知れないけど、君のことは僕が絶対に守るから」

 嘘を吐いている様子も、見栄を張っている様子もない。気負いも緊張も見られない。

 桁外れに自分が強いことを、この人は理解しているのだ。

「やってみましょう」

「ありがとう! それじゃあ、僕は部屋の隅に立っているから、ツェツィーリアが瓶の蓋を開けてくれる?」

「私が開けるんですか」

「うん。僕が開けると、解き放った瞬間にガルムが死ぬ気で抵抗してくるだろうから、実験にならないし……。」

「合理的な理由からでしたか。なら仕方ないですね。開けます」

「勇敢なツェツィーリアも素敵だ……!」

「開けますよ?」

 アルバンがまた恍惚としたヤバい目で息を荒くし始めているため、瓶の蓋に指を掛ける。

 暗にさっさと部屋の隅っこまで行ってください。距離を取って、私に近寄らないで。というのを遠回しに伝えたつもりなのだが、ご理解頂けたかは不明である。

 会話してみて分かったが、アルバンは私よりも頭が良いし、かなりの研究者気質だ。身体的にも強健なのだろうし、加えて、伝説級の魔力保有量を鑑みるに、弱点らしい弱点がない人物と言えよう。顔の傷跡のみが唯一の瑕疵であることを考えれば、本来なら玉座を充分に狙えるポテンシャルがある。

 最初から、私に対して、私が理解できるレベルでの会話を投げ掛けてきてくれている時点で、全てが私より優秀だ。

 ハァハァしなければ。

 興奮すると会話が成立せず勝手に私に対して息を荒くしてしまうので、それで全てが台無しになっている。

 余りにも残念過ぎる人だ。

「わかった……僕が腕を上げて合図したら、瓶の蓋をあけてね……。」

 とぼとぼ歩いて、背中を丸めながら部屋の隅っこに向かうアルバンは、わかりやすくがっかりしている。

 くそっ、なんなんだこの男は。

 いちいち人懐こくてかわいいのだが?

 いけない。相手はマッドサイエンティストの変態だというのに、私はこの夫が既にかなり好きなのではないか。

 なんとなく悔しい。

「いいよー」

 小声で、部屋の隅っこ、棚の角の隙間にひっそりぴったりフィットするかのように収まったアルバンの姿を見て笑いそうになってしまった。

 なんでその隙間にわざわざムギュっと入ったの?

 この局面でどうでも良いことが気になってしまう。気が散る。

 どうにか「ンンッ!」と鼻から息を漏らすくらいに留めて堪えるが、今のは危なかった。淑女にあるまじき大爆笑をしてしまうところだった。

 アルバンからも見えるように頷いて、意を決して瓶の蓋に手を掛かる。

 瓶は蓋もガラス製で、魔法効果が付与されているもののようだった。蓋はやや堅かったものの、一人で開けることが出来た。

 開けた途端にガルムが飛び出してくるだろうと身構えていたが、そうはならなかった。

 そっと瓶の蓋を横に置く。

 黙って、息を殺して見守っていると、揺れもないのに瓶の中の水が波打ち始めた。

 水が、うねる。

 形を変えて、それは瓶の中からぬるりと抜け出して、狼の形を成してゆく。鼻先から、口、目、耳。頭部から順に、音もなく変化して、瓶の中の一滴も残さず、大きな狼の姿を見せた。

 ガルムは真っ直ぐに、部屋の隅に立つアルバンを見ていた。視線を合わせてはまた逸らし、なんの気はないふりをしながらも、明らかに警戒していた。

 すぐ隣に居る、私を無視して。

「……。」

 アルバンを警戒する余りに、私の存在に気が付いていないのか。

 わからない。

 黙ったままアルバンを見ると、例のぎこちなく不気味な微笑みで頷いた。

 おそるおそる、そっと、指先を伸ばす。

 アルバンの方を向いたまま立ち止まるその背中の、毛皮を模した水面に触れる。

「……素晴らしい」

 低い声が、心からの感嘆の言葉を吐き出すのが、静かな室内に響いた。

 美しい水の狼は、私の手に触れられても、反応を示さない。もっと深く触れたら、と、手首までを沈めてみると、そこでやっと、ガルムは私が生命体であることに気が付いた。

 目にあたる場所が私の方を向く。

 けれど、それは、突然、頭の上に木の葉が落ちてきて、なんの木だろうかと確かめる時のようなものだった。

 ガルムは魔力と水の塊である筈なのに、触れても、痺れたりはしない。私の体に影響がない。ただ冷たい水の感触だけがある。

 不思議なことに、私は、恐ろしい魔獣であるはずのガルムを、怖いとは思わなかった。

 ーー抱き付いてみようか?

 そう思って、膝を床に着けて、抱擁しようとした時だった。


「はい、じゃあ終了ってことで」


 物凄く不機嫌そうに、アルバンが魔法を行使した。

 目に見えない球体に囚われたように、ガルムの体が、憑依体である水が宙空に浮かび上がる。狼の形が崩れ、水の球に変化する。そのまま水球は瓶の真上に移動し、中へと注ぎ込まれた。

 すかさず瓶の蓋が勝手に動き、素早く、実に迅速な動きで封がされた。

「ツェツィーリア、協力してくれてありがとう。とても為になる実験だったよ。これで、ガルムは魔力の有無で獲物を見定めていることがわかったね。次はそのうち、牛か豚を買ってきて、ガルムの水分量を半分まで減らした状態で実験してみよう」

 ビリビリと、肌を刺すような痛みと痺れがある。

 これはガルムのせいではない。

 アルバンの魔力によるものだ。

「あ、お、怒っています、か……?」

「んんっ……ごめん。少しね。僕より先になんでガルムなんかにハグするの、って思っちゃった。面白くなくて」

 指摘すると、アルバンがひとつ、咳払いをして、近寄ってきた。

 肌を刺すような痛みと痺れが薄まってゆく。

 なるほど、彼の持つ強い魔力が少しでも漏れ出すと、こんな風になるのか。

 今はもう、制御を取り戻したのだろう。

 これまでなぜ、強い魔力を持つ人物と同じ空間に居ると体調を崩しやすかったのか、やっとわかった。

 人間からは常に、多少なりとも魔力が漏れ出ているのだろう。だから、私に対して相手が敵意を持っていたり、嫌悪感を抱いていたりすると、こうして肌を刺すような痛みや不快感となって届くのだ。

 先程までアルバンの手を取っていても平気だったのは、彼には私に対する敵意がなく、かつ、尋常ではなく緻密な魔力制御をこなしているからだろう。

 その場に座り込んだまま、立ち上がることが出来ない。

「怖かった?」

 静かに、彼は私の前に立った。

 見上げながら、問いに答える。

「はい」

「ガルムよりも、僕が怖い?」

「怖くないと言えば、嘘になります。ですが、ガルムは、どんな人間よりも、怖くありませんでした」

「そっか。君はこの世で唯一、ガルムと共生できる人間かも知れないね」

 差し出された手を取る。

 そっと立たせてくれる。

「疲れちゃったかな?」

「いいえ。大丈夫です」

「なら、次は庭を案内するね。それで、今思い付いたんだけど、護身用に君の寝室にガルムの瓶を置いておくのはどうかな? 不埒者が来たら割るだけで侵入者を皆殺しにしてくれるよ」

 雑談の一環として、フランクな感じで物騒な極まりない提案をしてきた。

 こちらをリラックスさせようとしてくれているのは分かるが、話題のチョイスが壊滅的だ。

 いえ、私に対してはかなり的確だし、こういう話、楽しいので大好きではあるのですが。

「それだと、屋敷内に居る人間が、私とアルバン様以外全滅してしまいます。最終手段として考慮するにしても、ガルムの回収を安全に行えるのはアルバン様だけなので、実用に耐えないかと」

「現状だとそうだね。でも、もっと研究を進めて、敵に対してガルムが好む魔力の要素を付着させたり、使用人たちに対して君のように狩りの対象から外れさせる方法も編み出せたら便利かなとは思うんだけど……やっぱり、そこまで漕ぎ着けるには何年もかかるだろうから、もどかしいね」

「でしたら、防衛用ではなく、追撃用にする方が良いのでは? ガルムが好むのは水属性魔法と分かっているのですし、敵方に対して水属性魔法の魔力を付着させるようにする、ないしはガルムが優先的に排除しようとする火属性魔法を付与しておけば、こちら側の人的被害を出さずに敵に損害を与えられるのでは?」

「いいね。それ、採用」

 即刻採用されてしまった。

 我ながら、自軍の損耗を減らし敵軍により大きな打撃を与えるという目的のみを追求しており、幾らなんでも人道に反するのではないかというラインだが、それでいいのか辺境伯領。

 なんなら微妙にアルバンの目がキラキラしているので「あっ、この人、本気でやる気だ」と分かってしまったので居た堪れない。

 ……第三者からすると、アルバンと私の組み合わせ、余りにも凶悪過ぎるのでは?

 ある意味、怪物みたいな容姿で怪物並みに強い男と、思想に倫理が薄くて見た目が墓地の幽霊か妖婦のような女で、お似合いではあるかも知れない。

 などと、ろくでもないことを考えつつ、エスコートされてのんびりまったり、物騒な戦略案を詰めながら庭へと向かった。


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