第16話
私を抱きかかえたまま、ヴァレリウス様は禁足地である『王家の眠る谷』に降り立った。
百年間、人の侵入を拒み続けた場所。ごつごつとした岩が剥き出しになり、枯れた木々がまるで亡霊のように天に手を伸ばしている。吹く風は冷たく、どこか物悲しい音を立てていた。
「……すごい、場所ですね」
彼の腕の中から、私は呟いた。
普通の人間なら、この不気味な雰囲気に足がすくんでしまうだろう。でも不思議と、私は少しも怖くなかった。この世界で一番強くて優しい腕の中にいる限り、きっとどんな場所だって安全なのだから。
「ああ。谷全体が古代アルテア王家の強力な結界で守られている。許可なく立ち入った者は方向感覚を失い、永遠にこの谷を彷徨うことになる」
ヴァレリウス様は、私をそっと地面に降ろした。そして私の手を取り、その指を優しく絡める。
「だが、心配はいらない。私がそばにいる」
その一言だけで、私の心は温かい光で満たされた。
私たちは二人で、谷の奥へと一歩、足を踏み入れた。目の前には、巨大な岩壁が行く手を阻むかのようにそびえ立っている。私が花の記憶の中で視た、秘密の入り口があるはずの場所だ。
「ここか……。確かに、強力な封印の魔力を感じる」
ヴァレリウス様が岩壁に手をかざす。彼の指先から淡い紫色の光が放たれ、岩壁にかけられた見えない魔法の術式を探っているようだった。
「どうやら、物理的な鍵ではないらしいな。特定の『言葉』と、それに呼応する『魔力』がなければこの扉は開かない」
「言葉……。それなら、私、知っています」
私は花の記憶の中で王妃様が詠っていた古の言葉を、必死に思い出した。それは現代の言葉とは全く違う、音楽のように美しい響きを持つ言葉だった。
私がおそるおそるその呪文を口にすると、ヴァレリウス様は驚いたように私を見た。
「……素晴らしいな、アネリーゼ。君は花の記憶から、古代語の呪文まで完璧に引き出したのか」
「いえ、ただ聞こえた通りに……」
「それが、他の誰にもできないことなのだ」
彼はそう言うと、私の肩にそっと手を置いた。
「君が言葉を。私が魔力を。……我々の最初の共同作業だ」
彼の言葉に、私はこくりと力強く頷いた。そしてもう一度、深く息を吸い込む。
私が古の呪文をゆっくりと詠い始めると、それに合わせるようにヴァレリウス様が片手を岩壁に突き出した。彼の掌から、膨大で、それでいて極めて精密に制御された魔力が奔流となって岩壁に注ぎ込まれていく。
すると、何もないはずの岩壁の表面に、金色の光で美しい月の紋章が浮かび上がった。紋章は脈打つように輝きを増していく。
ゴゴゴゴゴ……!
やがて重々しい音と共に、巨大な岩壁がゆっくりと左右に開いていった。その奥には、地下へと続く長い長い石の階段が現れる。
「……開いた」
「ああ。見事だったぞ、アネリーゼ」
ヴァレリウス様は、私の頭をくしゃりと撫でた。その最高の褒め言葉と優しい手の感触に、私の心は有頂天になる。この人と一緒なら、きっとどんな困難だって乗り越えられる。
私たちは二人で手を取り合って、地下へと続く階段をゆっくりと降りていった。
階段の壁には等間隔で魔力を帯びた水晶が埋め込まれており、それが通路全体を青白く照らしている。空気はひんやりとしているけれど、淀んではいない。古代の魔法が、この場所を清浄に保ち続けているのだろう。
しばらく進むと、私たちは一つの広大な空間に出た。
ドーム状の高い天井。その壁一面に、巨大なフレスコ画が描かれていた。それは、アルテア王国の歴史的な場面を描いたものらしかった。
しかし、その部屋の中央で道はぷっつりと途切れていた。先に進むための扉も通路も見当たらない。
「どうやら、ここが最初の試練のようだな」
ヴァレリウス様が、面白そうに目を細めた。
「このフレスコ画が鍵になっているのだろう。だが、ただの絵ではない。極めて高度な記憶投影の魔法がかけられている」
「記憶投影……?」
「ああ。描かれているのは、公式の歴史。だが、その絵に込められた本当の記憶……すなわち、歴史の『真実』を見抜かなければ、先へは進めない。そういう仕掛けだ」
歴史の真実。それを見抜く力。
それは、まさに私のための試練だった。
「アネリーゼ。君の出番だ」
ヴァレリウス様の信頼に満ちた声に、私は力強く頷いた。
私は、壁に描かれた一枚のフレスコ画の前に立つ。それはアルテア王国の王が、隣国の王と友好条約を結んでいる場面だった。しかし私が以前、歴史書で読んだ記録では、この条約はアルテア側が一方的に破ったことになっている。それが我が国との大きな戦争の引き金になった、と。
私は深呼吸を一つして、その冷たい壁画にそっと手を触れた。
――その瞬間、ビジョンが流れ込んでくる。
公式の歴史の記憶。条約を破り、大義を失い、滅びへと向かっていく愚かな王の姿。
だが、その偽りの記憶のさらに奥底。もっと深い場所に、隠された本当の記憶があった。
――薄暗い謁見の間。
アルテア王は隣国の使者と向き合っている。彼は真摯な表情で、友好を望むと語っていた。
しかし隣国の使者は、その人の良さそうな笑みの裏で、どす黒い企みを隠していた。
彼が差し出した条約の羊皮紙。それに王が署名をしようとした、その瞬間。使者が懐から小さな黒い宝石を取り出し、それを巧みに羊皮紙にかざした。
(しめしめ……。この『偽りの言霊石』を使えば、どんな誠実な言葉も呪われた裏切りの契約にすり替わる)
(これで、アルテア王国を侵略する大義名分が手に入るわ……!)
使者の卑劣な心の声。
王は何も知らずに、その呪われた条約に署名をしてしまう。そして、そのたった一つの偽りの署名が、彼の国を地獄へと突き落としていく。
「……っ!」
私は壁画から手を離した。
なんて卑劣な罠。歴史はこんなふうに捻じ曲げられていたんだ。
「ヴァレリウス様……。条約はアルテアが破ったのではありません。隣国が、魔法の道具を使ってアルテア王を騙したんです……!」
私が視たままの真実を告げると、目の前のフレスコ画がにわかに光を放ち始めた。描かれていた絵が、まるで陽炎のように揺らめき、そして現れたのは全く別の絵だった。
隣国の使者が『偽りの言霊石』をかざす場面。そして、その卑劣な罠に気づくことなく署名をしてしまう、アルテア王の悲痛な姿。
歴史の真実が、そこに現れたのだ。
次の瞬間、私たちの目の前の何もないはずの壁が、音もなくせり上がっていった。その奥には、さらに地下へと続く新しい通路が現れていた。
「……君は、本当に素晴らしいな。アネリーゼ」
ヴァレリウス様が、心からの感嘆の声を漏らした。
「君はただ過去を視ているだけではない。歪められた歴史の真実を、あるべき姿に修復しているのだ。それはもはや、ただのサイコメトリーという言葉では言い表せない。神にも等しい力だ」
最高の褒め言葉。私は嬉しくて、そして少しだけ照れくさくて俯いてしまう。
「君のその尊い力を使った消耗は激しいはずだ。すぐに回復措置を講じる必要がある」
彼はまたそんな合理的な理由をつけて、懐から小さなベルベットの袋を取り出した。中に入っていたのは、キラキラと輝く宝石のような美しい飴玉だった。
「魔力を高純度で結晶化させた特別な菓子だ。私の非常用の備蓄だが、君に与えよう。これも任務の必要経費だ」
私はそのキラキラと輝く一粒を口に含んだ。優しい花の蜜のような甘さが口いっぱいに広がり、疲れた体にすっと力が戻ってくるようだった。
「さあ、行こう。次の試練が我々を待っている」
ヴァレリウス様は、私の手を再び強く握った。
その温かくて大きな手。この人と一緒なら、きっとこの先にどんな謎が待ち受けていても大丈夫。
私は彼の手をぎゅっと握り返した。
歴史の闇に葬られた王家の谷。その最深部へと、私たちはさらに歩を進めていく。
この先に『銀の揺り籠』が本当に眠っているのだろうか。
期待と、ほんの少しの緊張を胸に抱きながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます