第12話

マルティネス侯爵邸での一件から一夜が明けた。


今日から三日間、私はヴァレリウス様から特別な休暇をいただいている。


昨日までの緊張感が嘘のように、私の心は羽根のように軽かった。


朝、自分の部屋として与えられている補佐官室の扉を開けると、そこには既に、信じられない光景が広がっていた。


部屋の中央にあるテーブルの上に、昨日私が好きだと言っていた、あの丘の上のカフェの焼き菓子が、山のように積まれていたのだ。


色とりどりのフルーツタルトに、艶やかなチョコレートケーキ、ふわふわのシフォンケーキ。


甘い香りが部屋いっぱいに満ちている。


「……これは」


呆然と立ち尽くす私に、執務室の扉を開けたヴァレリウス様が、こともなげに告げた。


「君の功績に対する、当然の報酬だ。遠慮はいらない。三日間で、全て食べきれなくても問題はない。保存の魔法はかけてある」


「ありがとうございます……! でも、こんなに沢山……!」


「君の脳が、糖分を欲しているというデータが出ている。効率的な休息のためには、欲求を即座に満たすのが最も合理的だ」


また、彼らしい言い訳。


でも、その不器用な優しさが、私の胸を温かくする。


彼は、自分の執務室の扉を、大きく開け放った。


そこは、彼の研究室も兼ねた、王国の頭脳とも言うべき場所。


普通なら、私のような者が、足を踏み入れることすら許されない聖域だ。


「休暇中は、私の書庫も自由に使っていい。君の知的好奇心を満たすこともまた、有効な休息の一環だからな」


そう言って、彼は私に背を向け、いつもの執務机へと戻っていく。


まるで、自分の宝物庫の鍵を、無造作に私に手渡すかのように。


その、絶対的な信頼が、嬉しくて、少しだけくすぐったい。


私は、わくわくする心を抑えきれず、彼の広大な執務室兼書庫へと、一歩、足を踏み入れた。


古い羊皮紙と、インクの匂い。


壁一面、それどころか天井まで届きそうな本棚が、迷路のように入り組んで並んでいる。


その全てに、人類の叡智とも呼べるべき、貴重な書物がびっしりと詰まっていた。


空中には、魔法で映し出された天球儀が、ゆっくりと自転している。


テーブルの上には、怪しげな光を放つ魔道具や、用途不明の水晶が、整然と並べられていた。


まさに、天才魔術師の仕事場。


その空気に、私は、ごくりと唾を飲み込んだ。


ほとんどは、私には到底理解できないような、高度な魔術理論や、古代言語で書かれた専門書のようだった。


それでも、ただ、その背表紙を眺めているだけで、胸が高鳴る。


本棚の間を、ゆっくりと歩いていく。


ふと、部屋の片隅にある、少し小さな本棚に、私の目が留まった。


そこには、難しい専門書ではなく、王国の歴史書や、地理に関する本、そして、意外なことに、有名な詩人の詩集などが、何冊か並べられていた。


「あら……」


冷徹で合理主義者の彼が、詩集を読むなんて。


その、思いがけない発見に、私の心臓が、きゅんと音を立てた。


彼の、誰も知らない一面を、垣間見てしまったような気がして、頬が熱くなる。


その中で、私は、一冊の、ひときわ古びた本を見つけた。


革の表紙は擦り切れ、題名は、ほとんど消えかかっている。


『アルテア王国盛衰史・異聞』


かろうじて読み取れたその題名に、私は、はっとした。


アルテア王国。


それは、私が最初にヴァレリウス様と関わるきっかけになった、『紅涙の首飾り』の故郷。


百数年前に、この国に滅ぼされた、悲劇の王国だ。


興味を惹かれ、私は、その本を、そっと手に取った。


その瞬間。


私の指先から、ビジョンが、流れ込んできた。


意図せず発動してしまったサイコメトリー。


でも、胸元で、ヴァレリウス様からいただいた守護のチャームが、温かい光を放ち、いつもなら襲ってくるはずの激しい頭痛から、私を守ってくれる。


流れ込んでくるのは、痛みではなく、ただ、鮮明な映像と、感情の断片。


――視えたのは、薄暗い書斎。


一人の、年老いた歴史学者が、羽ペンを走らせている。


彼が、この本の著者なのだろう。


けれど、彼の表情は、苦悩に満ちていた。


彼の背後には、顔の見えない、威圧的な影が、いくつも立っている。


『いいか、先生。余計なことは、書くでないぞ』


『アルテアの王家は、自らの驕りによって滅んだ。民を顧みぬ、愚かな王族だった、とな』


『真実など、どうでもよいのだ。我らにとって、都合の良い歴史こそが、後世に残すべき、唯一の歴史なのだからな』


脅迫。


歴史の、改竄。


著者は、震える手で、権力者たちの言いなりに、嘘の歴史を書き連ねていく。


その瞳からは、学者としての誇りを踏みにじられた、無念の涙が、一筋、こぼれ落ちた。


そして、最後に、彼の心の叫びが、私の頭の中に、直接響いてきた。


(……許してくれ。私には、抗う力がなかった)


(だが、いつか、誰かが、この嘘に気づいてくれることを、願う)


(アルテア王家の真実は……その、正当な血筋の証は……)


(……『銀の揺り籠』に、眠る……)


そこで、ビジョンは、ぷつりと途切れた。


私は、はっと我に返り、本から手を離した。


体中の血の気が、引いていくような感覚。


今、私は、とんでもないものを、視てしまったのではないだろうか。


歴史が、捻じ曲げられていた。


そして、『銀の揺り籠』という、謎の言葉。


これは、ただ事ではない。


すぐに、ヴァレリウス様に、報告しなければ。


でも、今日は、せっかくいただいた、私のための休暇なのだ。


これ以上、彼に、面倒事を持ち込んでしまっていいのだろうか。


私が、本を抱きしめたまま、難しい顔で固まっていると、ふわりと、爽やかなミントの香りがした。


いつの間にか、ヴァレリウス様が、私の隣に立っていた。


「どうした。休暇だというのに、そんな深刻な顔で、研究とは。感心だが、それは、私の定めた『効率的な休息』の定義からは、逸脱している」


彼は、またそんな理屈をこねながら、私の手に、温かいティーカップを、そっと握らせてくれた。


優しい花の香りがする、カモミールのハーブティーだ。


「ヴァレリウス様……」


「君の表情には、『極めて重要な情報を発見したが、報告を躊躇している』と、明確に書いてある。論理的ではないな。その躊躇は、時間の無駄だ」


彼は、私の心の奥まで、完全にお見通しだった。


「言ってみろ、アネリーゼ。君の発見は、私にとって、そして、この王国にとって、常に最高の福音だ」


その、絶対的な信頼を込めた言葉に、私の迷いは、消え去った。


私は、こくりと頷くと、今しがた視たばかりのビジョンについて、彼に、ありのままを伝えた。


アルテア王国の歴史が、意図的に改竄されていたこと。


そして、著者が遺した、『銀の揺り籠』という、謎のキーワード。


私の報告を、ヴァレリウス様は、黙って聞いていた。


そして、全てを聞き終えると、彼の美しい紫色の瞳が、すっと細められ、鋭い光を宿した。


その光は、新たな謎という獲物を見つけた、狩人の光。


「……そうか。休暇中にまで、君は、新たな功績を上げてしまうのか」


彼は、呆れたように、それでいて、どこか楽しそうに、ため息をついた。


「本当に、君という存在は、私の予測と論理的思考を、いつも、いとも容易く超えてくる。……素晴らしいな、アネリーゼ」


そう言って、彼は、大きな手で、私の頭を、優しく、くしゃりと撫でた。


その手つきが、たまらなく優しくて、私の心臓が、甘く、高鳴る。


「君は、また一つ、この国に巣食う、巨大な陰謀の尻尾を、掴んだのかもしれないな」


「い、陰謀、ですか……?」


「ああ。歴史の改竄は、いつの時代も、最も根深い、権力犯罪の一つだ。そして、『銀の揺り籠』……」


ヴァレリウス様は、そこで、言葉を切ると、少しだけ、考え込むような素振りを見せた。


「それは、アルテア王家にのみ、代々伝わるとされた、伝説上の秘宝の名だ。正当な王位継承者だけが、その在処を知ると言われている。だが、百年以上前の戦争で、王国と共に、完全に失われたとされていた……少なくとも、公式の記録では、な」


歴史の闇に葬られた、王家の秘宝。


どうやら、私たちは、とんでもない謎の、入り口に、立ってしまったようだ。


「……だが、心配は無用だ」


ヴァレリウス様は、そう言って、私の手を、そっと取った。


彼の、ひんやりとした、けれど、力強い指先が、私の指に絡まる。


「君という、最高の鍵が、今、私の手の中にあるのだからな。どんなに古びて、錆びついた歴史の扉でも、こじ開けてみせよう」


その言葉は、絶対的な自信に満ちていた。


この人と一緒なら、きっと、どんな謎だって、解き明かせる。


そう、確信できた。


「さて」と、彼は言った。


「この、興味深い謎の調査は、明日からの、新たな任務としよう。君の休暇は、今日まで、有効だ」


「え、でも……」


「これは、決定事項だ。そして、君の完璧な働きに対する、報酬の前払いとして、私からも、一つ、提案がある」


ヴァレリウス様は、そう言うと、魔法で、どこからか、一冊の絵本を取り出した。


それは、以前、彼が、城下町の『でーと』の時に、私にプレゼントしてくれた、『星の涙と月の舟』だった。


「……書物の調査によれば、心地よい物語の共有は、精神の安定に、極めて高い効果をもたらすらしい」


彼は、少しだけ、視線を彷徨わせながら、そう言った。


「よって、君が、この休暇の残りを、心穏やかに過ごすため、私が、君に、これを読んでやろう。……これも、君の能力を、常に最高の状態に保つための、合理的な措置の一環だ」


まさかの提案に、私は、目をぱちくりとさせる。


彼が、私に、絵本を、読んでくれる?


その光景を想像しただけで、顔が、カッと熱くなる。


私が、何かを言う前に、彼は、私の手を引いて、書庫の隅にある、座り心地の良さそうな、大きなソファへと、私を導いた。


そして、ごく自然に、私を、彼のすぐ隣に、座らせる。


肩と肩が、触れ合うほどの距離。


彼の体温と、爽やかな香りに、心臓が、今にも、破裂してしまいそうだった。


彼は、そんな私の様子には、気づかないふりをして、絵本の、最初のページを開いた。


そして、その、低くて、心地よい声で、ゆっくりと、物語を、紡ぎ始める。


「むかし、むかし、あるところに……」


彼の声に耳を傾けながら、私は、そっと、彼の肩に、頭を預けた。


休暇の終わり。


それは、新たな事件の始まりであり、そして、世界で一番、甘くて、優しい時間の、始まりでもあった。

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