第11話
マルティネス侯爵邸での賭けカードゲーム当日。
私は侍女のリナに手伝ってもらい、ヴァレリウス様が予告していた一着に腕を通していた。
鏡の前に立った私は、思わずはっと息を呑む。
そこにいたのは見知らぬ令嬢だった。
深い森の湖を思わせる、エメラルドグリーンのドレスをまとっている。
繊細なレースの胸元、しなやかに広がるスカートのライン。
それは先日のお茶会のドレスとはまた違う。
夜の会合にふさわしい大人びた気品と、どこかミステリアスな魅力を感じさせるデザインだった。
「……本当に、これが私……?」
「ええ、アネリーゼ様。まるで月の女神のようですわ」
リナがうっとりとため息をつく。
そこにヴァレリウス様が部屋へと入ってきた。
今日の彼はいつもの彼ではなかった。
宮廷魔術師長でもなければ茶髪の学者でもない。
艶のある黒髪は後ろで緩く束ねられている。
その瞳は吸い込まれそうなほど深い青色をしていた。
仕立ての良い黒一色の礼服は、彼のすらりとした長身をさらに際立たせる。
その姿はどこか影のある、莫大な資産を持つ若き当主といった風情だった。
彼は私の姿を認めると一瞬だけ動きを止めた。
そして完璧な無表情で一言告げる。
「……悪くない。そのドレスは君の肌の白さを引き立てるな。合格だ」
素直に褒めてくれないのがいかにも彼らしい。
でもその青い瞳の奥がほんの少しだけ熱を帯びたのを私は見逃さなかった。
それだけで私の心は有頂天になる。
「私たちの今夜の身分だ」
と彼は言った。
「私は辺境の領地を持つ莫大な資産家のヴァレン伯爵。君はその妹のアネリーゼ。社交界にはほとんど顔を出さない謎の多い兄妹という設定だ」
「はい、ヴァレンお兄様」
私が少し悪戯っぽくそう呼ぶと、彼は一瞬面食らったような顔をして、それから小さく咳払いをした。
「……それとこれを持っていけ」
彼が私に差し出したのは美しい扇子だった。
象牙の軸に精緻な透かし彫りが施されている。
「緊張したらそれを使え。手持ち無沙汰を紛らわすことができる。小道具は時に最高の盾になる」
どこまでも彼は合理的で、そして優しい。
その心遣いが嬉しくてたまらない。
馬車に乗りマルティネス侯爵の屋敷に着くと、そこはまさしく大人の社交場だった。
重厚な扉、磨き上げられた調度品、そして集まっている人々の腹の探り合いのような会話。
庭園での華やかなお茶会とは全く違う濃密な空気がそこにはあった。
主催者であるマルティネス侯爵は恰幅のいい人の良さそうな顔をしている。
だがその目には常に不安の色が浮かんでいた。
「おお、これはヴァレン伯爵! それにアネリーゼ嬢! よくぞお越しくださいました。お待ちしておりましたぞ」
彼は私たちを大げさなくらいに歓迎した。
ヴァレリウス様が「妹です」と私を紹介すると、侯爵は値踏みをするようないやらしい視線を私に向ける。
その瞬間ヴァレリウス様の纏う空気が絶対零度まで下がった。
侯爵は見えない何かに射竦められたようにひっと悲鳴を上げ、慌てて視線を逸らした。
私たちはゲームが行われる奥のサロンへと案内された。
そこには既に四人の貴族たちがテーブルを囲んでいる。
皆一癖も二癖もありそうな強欲そうな顔ぶれだ。
「さて皆様お揃いですな」
マルティネス侯爵が声を張り上げる。
「今宵も我が家に伝わる『賭博師の隻眼』にかけて、正々堂々ゲームを楽しもうではありませんか!」
彼が恭しく掲げたのは金細工の豪奢なモノクルだった。
レンズがシャンデリアの光を反射して妖しくきらめいている。
ヴァレリウス様は空いていた席に悠然と腰を下ろした。
「私の妹はここに。彼女は私の幸運の女神なのでな」
彼はそう言って私のことを自分の椅子のすぐ後ろに立たせた。
その芝居がかった台詞と、公の場で『幸運の女神』だなんて言われたことが恥ずかしい。
でもそれ以上に嬉しくて私の顔はきっと真っ赤になっていたことだろう。
カードゲームが始まった。
テーブルの上を金貨がまるで川のように流れていく。
貴族たちの欲望と猜疑心が渦を巻く息の詰まるような空間。
私はヴァレリウス様の背中に隠れるように立ちながら必死に機会を窺っていた。
あのモノクルに触れなければ。
ゲームが中盤に差し掛かった頃。
立て続けに大きな勝負に負けたマルティネス侯爵が苛立たしげにモノクルを外した。
「いかんな……どうも今日は調子が悪い」
彼はハンカチでモノクルのレンズをごしごしと拭き始める。
そしてそれをテーブルの隅に無造作に置いた。
今だ。
ヴァレリウス様がちらりと私に視線を送る。
次の瞬間テーブルの向こう側に座っていた一人の貴族が突然派手なくしゃみを連発し始めた。
「へ、へ、へっくしゅん! ぶえっくしょい!!」
周囲の視線が一斉にその貴族へと集まる。
そのほんの一瞬の隙。
私はわざとらしくふらりとよろめいた。
「きゃっ……!」
そして倒れ込む体を支えようとテーブルに手をつく。
その指先が狙い通りマルティネス侯爵が置いたモノクルに触れた。
――閃光。
膨大な記憶が一気になだれ込んでくる。
このモノクルが見てきた数えきれないほどの勝負の記憶。
勝者の歓喜、敗者の絶望。
人の欲望の歴史。
違う。
私が知りたいのはそれじゃない。
意識を集中させる。
呪いの正体を。
そして、視えた。
薄暗い書斎。
マルティネス侯爵の忠実そうな初老の執事がモノクルを手入れしている。
名前はヨハンといったか。
彼は主人の見ていない隙にそのモノクルを寸分違わぬもう一つのモノクルとすり替えていた。
本物は厳重な箱にしまわれ、呪いをかけられた偽物が代わりに用意される。
(……愚かな貴族どもめ)
(賭け事にうつつを抜かし我々使用人を人とも思わぬ強欲の豚ども)
ヨハンの心に渦巻く長年の深い深い怨念。
(お前たちのその幸運、根こそぎ奪い取ってくれるわ)
(この偽りの『隻眼』が見つめる先で勝利の美酒に酔いしれるがいい)
(その一瞬の幸運がお前たちを絶望の淵へと突き落とすのだ……!)
呪いはモノクルをつけた侯爵自身には作用しない。
このモノクルが見つめる先でゲームに勝利した者に取り憑き、その幸運を根こそぎ吸い取るという極めて陰湿な呪いだった。
「……っ!」
私は弾かれたようにモノクルから手を離した。
なんて陰湿で悪質な呪い。
「……大丈夫か、妹よ」
ヴァレリウス様が私の背中にそっと手を当てて支えてくれる。
その声は芝居がかった若き伯爵のもの。
でもその手から伝わる魔力はいつものヴァレリウス様の、優しくて力強いものだった。
私は彼にだけ分かるように小さく頷いた。
するとヴァレリウス様はすっと立ち上がった。
その場の空気が一変する。
「マルティネス侯爵。素晴らしいゲームでした」
「ですが一つ申し上げたいことがある」
「あなたのその『賭博師の隻眼』は偽物ですな」
彼の凛とした声が部屋に響き渡った。
その場にいた全員が凍り付く。
「な、何を馬鹿なことを……! ヴァレン伯爵、それはどういう……」
狼狽える侯爵をヴァレリウス様は冷たい視線で一蹴した。
「あなたがお持ちのそれは呪いをかけられた精巧な偽物。本物はあなたの忠実な執事ヨハンによってどこかへ隠されているはずだ」
「彼はあなた方賭博に狂った貴族を心の底から憎んでいる。そうでしょう?」
ヴァレリウス様の断言。
それはまるで全てを見てきたかのような絶対的な確信に満ちていた。
彼はテーブルの上の偽物のモノクルに指先を向ける。
するとモノクルからどす黒い呪いのオーラが目に見える形で立ち上った。
「これが証拠だ」
もう誰も何も言えなかった。
侯爵が震える声で衛兵を呼ぶ。
引きずられてきた執事のヨハンは最後まで無実を訴えていた。
だがヴァレリウス様がビジョンで視えた本物のモノクルの隠し場所を正確に言い当てると、彼はとうとう全てを自白した。
事件はあまりにも鮮やかに解決した。
貴族たちがあっけにとられ騒然とする中、ヴァレリウス様は私の肩を抱いた。
「妹の気分が優れぬようだ。我々はこれにて失礼する」
彼はそれだけを言い残し私を連れて颯爽とその場を後にした。
王宮へと戻る馬車の中。
彼はもういつもの宮廷魔術師長の顔に戻っていた。
「……完璧だったアネリーゼ」
「蛇の巣のようなあの場所で完璧に役を演じきった。そして事件の複雑な真相を一瞬で見抜いた」
「君の才能は私の予測を常に凌駕する」
最高の褒め言葉。
私は嬉しくて胸がいっぱいになった。
「君はまた大きな功績を挙げた。よって君には特別な報酬が与えられるべきだ」
「明日から三日間君には休暇をやろう。私の執務室にある全ての蔵書を自由に読んでいい。君が好きだと言っていた菓子も好きなだけ用意させる」
「ええっ!? そ、そんな……!」
「君の当然の権利だ。遠慮はいらない」
彼のどこまでも過保護で甘いご褒美。
私はもうどうお礼を言えばいいのかも分からなかった。
ただこの人の役に立てたことが嬉しくて。
この人に褒めてもらえたことが嬉しくて。
私は馬車の中でずっと彼の横顔を見つめていた。
もうこの気持ちがただの尊敬や憧れだけではないことに、とっくに気づいていた。
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