第10話
あの、初めての『でーと』の翌朝。
私は、ふわふわと、どこか夢見心地な気分で目を覚ました。
頬に残る、ヴァレリウス様の唇の感触。
思い出すだけで、顔から火が出そうになる。
あれは、一体、何だったのだろう。
彼のことだから、「データ収集のため」というのは、きっと本心なのだろうけれど。
(だめだめ、考えちゃ……!)
ぶんぶんと頭を振って、私はベッドから起き上がった。
今日は、どんな顔をして、彼に会えばいいのだろう。
緊張しながら、補佐官室の扉を開ける。
すると、ヴァレリウス様は、既に執務机に向かい、山のような書類を凄まじい速さで処理していた。
その姿は、昨日までの、変装した穏やかな学者の彼ではなく、いつもの、冷徹で完璧な宮廷魔術師長そのものだった。
「おはよう、アネリーゼ」
私の存在に気づいた彼が、顔を上げる。
その表情は、いつもと何も変わらない。
昨日の、あの出来事など、まるで最初からなかったかのように。
「君の生態データを観測する限り、最適な休息が取れたようだな。素晴らしいことだ」
「は、はい……! おはよう、ございます……!」
あまりの通常運転ぶりに、逆に私の心臓が、ぎゅっと締め付けられる。
少しは、意識してくれたりしないのだろうか。
そんな、我ながら身勝手なことを考えてしまう。
そんな私の心の内など、知ってか知らずか、彼は、すっと表情を引き締めた。
「次の調査に取り掛かる前に、処理すべき案件が一つある」
「君の、以前の家族に関する、個人的な管理業務だ」
その言葉に、私の背筋が、ぴんと伸びた。
父と、義姉。
もう、灰にして燃やしてしまった、過去のはずなのに。
「……私の、家族、ですか」
「ああ。君が、最初に濡れ衣を着せられた、あの母親の形見の宝石の件だ」
「私の調査は、完了した」
ヴァレリウス様が、こともなげにそう言うと、執務室の空間に、すっと手をかざした。
すると、目の前の空間に、魔法の光が像を結ぶ。
それは、まるで、記憶を覗き見ているかのような、鮮明な映像だった。
そこに映し出されたのは、私の義姉、コーデリア。
彼女が、城下の、いかがわしい雰囲気の商人と、密会している場面だった。
そして、彼女が商人に渡していたのは、間違いなく、私から取り上げた、母の形見のサファイアのブローチ。
『本当に、いい値で買い取ってくれるのでしょうね?』
『もちろんですとも、お嬢様。これほどの逸品、裏のルートでさばけば、大金になりますぜ』
映像には、二人の、下品な会話まではっきりと記録されていた。
それだけではない。
別の映像には、父が、その取引の報告を、商人から受けている場面まで映っていた。
父は、全てを知っていたのだ。
知っていて、私を、家から追い出すために、義姉の嘘に、乗ったのだ。
「……ひどい」
涙が、ぽろぽろと零れ落ちた。
分かっていたことだ。
でも、こうして、紛れもない証拠として突きつけられると、心の奥が、鋭く痛んだ。
私の、家族の絆は、こんなにも、脆くて、醜いものだったなんて。
「……どう、なさるおつもりですか」
震える声で尋ねる私に、ヴァレリウス様は、氷のように冷たい声で答えた。
「『どうする』ではない。『どうしたか』だ」
「え……?」
「昨夜、君を部屋に送り届けた後、これらの証拠一式を、王国の司法省、並びに、貴族評議会の議長へ、即時転送しておいた」
「同時に、匿名の情報提供という形で、宝石商の組合にも、贓物取引の情報を流しておいた」
彼の言葉に、私は、息を呑んだ。
仕事が、早すぎる。
「その結果、今朝の時点で、君の父親は、監督不行き届きと、詐欺幇助の罪で、爵位を剥奪された。ベルクマン伯爵家は、取り潰しだ」
「君の義姉、コーデリアは、窃盗及び偽証罪で逮捕。宝石商も、贓物売買の罪で、既に拘束されている」
それは、あまりにも、鮮やかな、結末だった。
私が、何年も苦しめられてきた元凶が、たった一晩で、すべて、社会的に抹殺されたのだ。
長年、私の心に、重くのしかかっていた、黒い靄が、すっと晴れていくような感覚。
「あ……あ……」
涙が、止まらなかった。
それは、もう、悲しみの涙ではなかった。
やっと、自由になれた。
その、安堵の涙だった。
そんな私に、ヴァレリウス様が、そっと近づいてくる。
彼は、何も言わずに、清潔なハンカチを、私の手に握らせた。
「長期的なストレス要因が排除されたことによる、正常な情動反応だ。流れる涙は、君の心を浄化するだろう」
彼の、どこまでも合理的な慰めが、今は、心地よかった。
そして、彼は、私の心に、何よりも深く響く言葉をくれた。
「君は、もう、ベルクマン家の人間ではない。アネリーゼだ」
「私の、誇るべき、最高の助手だ」
「君の名は、地に落ちた家名によってではなく、君自身の、輝かしい功績によって、定義される」
彼は、私に、新しい居場所だけではなく、新しい、私自身を、与えてくれたのだ。
この恩は、一生かかっても、返しきれない。
「ありがとうございます……ヴァレリウス様……っ」
「礼には及ばない。君の能力を、最大限に発揮させるための、環境整備の一環だ」
「……それと、困難な情報を処理した、君への報酬として、特別な昼食を手配しておいた。あの、丘の上のカフェの、甘い焼き菓子だ。君は、確か、あれを好んでいただろう」
どこまでも、彼は、私を甘やかしてくれる。
その、不器用で、けれど、誰よりも優しいやり方で。
私が、ようやく落ち着きを取り戻し、美味しいお菓子で心を満たした後。
ヴァレリウス様は、すっかり、いつもの宮廷魔術師長の顔に戻っていた。
「さて。邪魔な雑念が消えたところで、次の仕事だ」
彼が、私の前に置いたのは、また新たな、事件の報告書だった。
「今度は、貴族間の、賭けカードゲームが舞台だ」
「複数の裕福な貴族たちが、夜な夜な集まっては、高額なレートでゲームに興じているらしいのだが、そこで、奇妙なことが起きている」
報告書によると、ゲームの勝者たちが、立て続けに、不運な事故に見舞われているという。
階段から落ちて大怪我をしたり、所有する絵画が、原因不明の火事で燃えてしまったり。
「主催者であるマルティネス侯爵は、自分が代々受け継いできた、『賭博師の隻眼』という魔道具のモノクルが、何者かによって、呪いをかけられたのではないかと、疑っている」
「公にすれば、醜聞になる。そこで、私に、内密に、呪いの調査を依頼してきた、というわけだ」
「呪われた、モノクル……」
「ああ。勝者に不幸をもたらす呪い、か。古典的だが、厄介なタイプだ」
ヴァレリウス様は、面白そうに、口元を歪めた。
「我々は、その呪われたモノクルを、直接、鑑定する必要がある」
「幸い、明後日の夜、侯爵の屋敷で、また、カードゲームの会合が開かれる。我々も、それに参加する」
「参加、ですか。でも、どうやって……」
「侯爵には、話を通してある。我々は、彼の、遠縁の、裕福な親戚という触れ込みで、潜入する」
また、お忍びでの調査。
私の胸が、期待に、小さく高鳴った。
「貴族の夜会にふさわしい、衣装が必要になるな」
ヴァレリウス様が、意味ありげに、私を見る。
その瞳が、少しだけ、楽しそうだ。
「……心配するな。抜かりはない。君に、最高のドレスを用意させてある」
やっぱり。
彼は、もう、すっかり、私をドレスアップさせるのが、好きになっているのではないだろうか。
そう思うと、可笑しくて、愛おしくて、たまらない。
「今度は、君から、『でーとみたいだ』などと、言ってみるがいい」
彼が、悪戯っぽく、私の耳元で囁いた。
その、思いがけない言葉に、私の顔が、また、真っ赤に染め上がる。
過去の呪縛から、完全に解き放たれた私。
目の前には、新しい事件と、そして、私をからかって楽しんでいる、大好きな人がいる。
これ以上の幸せが、この世にあるのだろうか。
私は、これから始まる、新たな冒険に、胸を躍らせていた。
もう、何も、怖くはない。
この人が、そばにいてくれるのだから。
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