第9話

ヴァレリウス様に手を引かれるまま、私は、呆然とした頭で彼の後をついていった。


でーと。


宮廷魔術師長である彼が、私を、でーとに。


あまりに現実離れした響きに、頭がふわふわする。

これはきっと、任務の延長線上にある、何か特殊な調査活動の一環なのだ。

そう自分に言い聞かせなければ、高鳴る心臓が、口から飛び出してしまいそうだった。


彼に連れてこられたのは、城下町の中心にある、大きな公園だった。

色とりどりの花が咲き誇る花壇や、きらきらと光を反射する大きな池があり、多くの町の人々が、思い思いの時間を過ごしている。

家族連れの楽しげな笑い声や、恋人たちの甘い囁きが、心地よい喧騒となって、あたりを包んでいた。


私たちは、池のほとりにある、一つのベンチに腰を下ろした。

ヴァレリウス様は、まだ、私の手を離してはくれなかった。


「さて」


彼は、どこからか、一冊の小さな手帳を取り出した。


「私の調査によれば、『でーと』の初期段階においては、相互理解を深めるための、穏やかな会話が推奨されている。まずは、それから始めるとしよう」


「は、はい……」


彼が、あまりにも真面目な顔で言うものだから、私は緊張しながらも、こくりと頷く。

すると彼は、手帳をぱらぱらとめくり、最初の質問を投げかけてきた。


「第一問。君が最も好む色は何だ? また、その色が、他の色よりも客観的に優れている点を、論理的に述べよ」


「……へ?」


予想の斜め上を行く質問に、私はぽかんとしてしまう。

好きな色に、論理的な理由?


「え、ええと……私は、空の色、水色が好きです。晴れた日の空を見ていると、なんだか、心が明るくなって、希望が湧いてくるような気がして……」

「客観的に優れている点、というのは、その……すみません、分かりません……」


私がしどろもどろに答えると、ヴァレリウス様は、ふむ、と頷きながら、手帳に何かを書き込んでいる。


「なるほど。『希望』という、主観的な感情に価値を見出す、と。興味深いデータだ」


彼は、次のページをめくった。


「第二問。紅茶を最も美味しく感じる、最適な温度は何度だと考える?」

「第三問。君自身の長所を三つ挙げ、それぞれについて、具体的な実績を伴う根拠を示せ」


次々と繰り出される、まるで学術的な聞き取り調査のような質問。

けれど、不思議と、嫌な気はしなかった。

むしろ、彼が、私のことを真剣に知ろうとしてくれていることが、くすぐったくて、嬉しい。


私は、一つ一つの質問に、一生懸命、自分の言葉で答えていった。

そのたびに、ヴァレリウス様は、真剣な顔でメモを取り、「合理的ではないが、興味深い」「その発想は、私にはなかった」などと、ぶつぶつ呟いている。


そんな、少しちぐはぐな会話が、なんだか可笑しくて、私は、いつの間にか自然と笑顔になっていた。


その時だった。

近くで遊んでいた子供たちのボールが、私たちの足元に転がってきた。

そして、ボールが跳ねた勢いで、池の水がぱしゃりと跳ね、私の新しいワンピースの裾を濡らしてしまった。


「あ……!」


「あ! ご、ごめんなさい!」


ボールを追いかけてきた子供たちが、顔を真っ青にして固まっている。

高価そうな服を着た私たちに、水をかけてしまったのだ。

きっと、厳しい大人に叱られると、怯えているのだろう。


「大丈夫よ。少し濡れただけだから、気にしないで」


私が笑顔でそう言おうとした、その瞬間。


ヴァレリウス様が、すっと立ち上がった。

変装していても隠しきれない、宮廷魔術師長の威圧感が、辺りに張り詰める。


けれど、彼がしたのは、子供たちを叱りつけることではなかった。

彼は、私の濡れたドレスの裾に向かって、指先を、とん、と軽く弾いた。


すると、彼の指先から、小さな光の粒が生まれ、濡れた部分を優しく包み込む。

次の瞬間には、染みも、濡れた跡も、すべてが綺麗に消え去っていた。

まるで、最初から何もなかったかのように。


「……君たちのボールの軌道には、三度の誤差があった。あの角度から、更に五度内側を狙えば、このような事態は避けられたはずだ。今後の参考にするといい」


彼は、子供たちに、淡々とした事実だけを告げた。

そして、すぐに私の方を振り返る。


「アネリーゼ。怪我はないか?」


その一連の流れが、あまりにも彼らしくて、私は、思わず、ふふっと笑ってしまった。


「大丈夫です、ヴァレリウス様。ありがとうございます」


「そうか。ならばいい」


彼は、私の笑顔を見て、少しだけ、ばつの悪そうな顔をした。

その表情が、たまらなく愛おしく思えた。


「……調査を再開する」


彼は、再びベンチに腰を下ろすと、手帳を開いた。


「私の調査によれば、『でーと』では、親愛の情を示すため、贈り物を交換する、という工程が含まれることが多いらしい」


そう宣言すると、彼は、私を連れて、公園に隣接する市場へと向かった。

活気のある市場を歩きながら、彼は、私が何に興味を示すかを、じっと観察しているようだった。


私の目は、ある一つの露店に、釘付けになった。

そこには、職人が手作りしたという、美しいオルゴールが、いくつも並べられていた。

その中の一つ、小さな星の飾りがついたオルゴールが、特に私の心を惹きつけた。

店主がネジを巻くと、澄んだ、優しい音色が流れ出す。


いいなあ。素敵だなあ。

でも、こんな高価なもの、私には分不相応だ。

私は、名残惜しさを感じながらも、その店を後にした。


次に、私の足が止まったのは、一軒の古本屋の前だった。

店の前に並べられた本の中に、一冊の絵本を見つけた。

それは、私が幼い頃に大好きだった、『星の涙と月の舟』というお話。

美しい挿絵と共に、優しい言葉で綴られた、愛の物語だ。

追放される前の、幸せだった頃を思い出して、胸がきゅんとなる。


ヴァレリウス様は、私がそれらの店で足を止めたのを、黙って見ていた。


そして、市場を一周した後、彼は、私の前に、一つの包みを差し出した。


「これを、君に」


「……え?」


包みを開けると、中から出てきたのは、あの、古本屋にあった絵本だった。


「どうして……? オルゴールの方が、高価で、贈り物としては、ふさわしいのでは……」


「価値は、価格だけで決まるものではない。君の表情を観察した結果、より高い水準の、持続的な幸福感をもたらすのは、こちらであると判断した」

「これは、論理的な帰結だ」


彼は、そう言って、またそっぽを向いてしまう。

彼は、見ていてくれたのだ。

私が、本当に欲しかったものを。

ただ高価なものを与えるのではなく、私の心を、ちゃんと見て、選んでくれた。

そのことが、どんな高価な贈り物よりも、私を幸せな気持ちにさせた。


「……ありがとうございます、ヴァレリウス様! 大切にします!」


心の底からの感謝を伝えると、彼は「ああ」と短く答え、その耳を、また少しだけ赤く染めていた。


「さて、最終段階だ」

と、ヴァレリウス様は言った。


「成功した『でーと』の締めくくりは、心地よい環境での、食事の共有であると結論付けられている」


彼が選んだのは、城下町を見下ろす、小高い丘の上に立つ、一軒の小さなカフェだった。

窓からは、夕日に染まる街並みが一望できる、景色の良い店だ。

私たちは、窓際の席に座り、美味しい食事と、穏やかな時間を共にした。


もう、彼からの質問はなかった。

代わりに、私が、彼に質問をする番だった。


「ヴァレリウス様は、研究以外に、何か好きなことはあるのですか?」


私の問いに、彼は、しばらく考え込んでしまった。


「……好きなこと、か。考えたこともなかったな」

「だが……複雑に絡み合った事象が、一本の美しい数式に収束する瞬間は、心地よいと感じる」


彼は、そう言うと、ふと、私に視線を向けた。


「君が、その力を使う瞬間も、それに似ている」


「え……?」


「混沌とした過去の記憶の中から、君だけが、真実という一点の光を見つけ出す。……その様は、見ていて、飽きない」


それは、今までで、一番ロマンチックな、彼の言葉だった。

私は、何も言えなくなり、ただ、顔を赤くするばかりだった。


楽しい時間は、あっという間に過ぎていく。

カフェを出る頃には、空には、一番星が輝いていた。

私たちは、まだ変装を解かないまま、王宮への道を、ゆっくりと歩く。

繋がれたままの、彼の手が、とても温かい。


王宮の門が見えてきたところで、彼が、ふと足を止めた。


「アネリーゼ」


「はい」


「本日の『でーと』は、論理的に、極めて有意義な活動であったと結論付ける。私の収集したデータも、高い満足度を示している」


彼の真面目な口調に、私は、もう笑ってしまっていた。


「はい。私も、とても、楽しかったです。本当に、ありがとうございました」


「そうか。それは、良かった」

彼は、満足そうに頷く。

そして、真剣な眼差しで、私を見つめた。


「だが、一つだけ、書物からは、結論を得られなかった項目がある」

「こればかりは、実践による、データの収集が必要不可欠だ」


「え……? 実践、ですか?」


私が聞き返すより早く、彼は、私の顔を、そっと、両手で包み込んだ。

変装した、灰緑色の瞳が、すぐ間近に迫る。


そして、彼は、私の額に、優しく、唇を寄せた。


ちゅ、と、柔らかな感触。


私の頭は、完全に、真っ白になった。

思考が、停止する。


彼は、ゆっくりと顔を離すと、珍しく、その頬を、僅かに赤らめていた。


「……データ、取得完了」

「……また、行おう。君の、今後の、継続的な功績に対する、定期的な報酬として、だ」


そう言って、彼は、完全に固まってしまった私の手を、再び引いた。


天才で、冷徹で、合理主義者の宮廷魔術師様が、私に、キスをした。

そして、次のデートの、約束までしてくれた。


それが、全て、報酬のためだなんて、もう、信じてあげられない。

私の心臓は、今にも、張り裂けてしまいそうだった。

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