第8話
第八話
翌朝、私はヴァレリウス様に指定された、新しい調査用の服に袖を通した。
上品な紺色のワンピースは、動きやすいのに、体のラインを綺麗に見せてくれる。
革のブーツも、驚くほど私の足に馴染んだ。
鏡の前でくるりと回ってみる。
まるで、冒険に出かける物語の主人公にでもなったみたいで、胸がどきどきと高鳴った。
約束の時間に、王宮の西門へ向かうと、そこには既にヴァレリウス様の姿があった。
でも、私は一瞬、彼だと分からなかった。
いつもの、月光を思わせる美しい銀髪は、ありふれた柔らかな茶色に。
心の奥まで見透かすような紫色の瞳は、穏やかな灰緑色に変わっていた。
宮廷魔術師長の威圧感は消え、そこに立っていたのは、聡明で、少し年の離れた学者さん、という雰囲気の男性だった。
「……ヴァレリウス、様?」
「ああ。この姿なら、私が宮廷魔術師長だと気づく者はいないだろう」
彼は、私の驚きを楽しんでいるかのように、口の端を微かに上げた。
いつもより、表情が柔らかく見える。
見慣れない彼の姿に、私の心臓が、また違う種類の音を立てて跳ねた。
「君もだ、アネリーゼ」
彼が、私の髪にそっと触れる。
指先から、くすぐったいような魔力が流れ込み、私の栗色の髪が、光の加減で赤みを帯びた、華やかな赤褐色に変わった。
「これで完璧だ。私の弟子、ということにでもしておこう」
「弟子、ですか」
「何か不満か?」
「いえ! とんでもないです!」
彼の弟子、という響きが、なんだかとても誇らしくて、嬉しかった。
「では、行こうか」
ヴァレリ-ス様は、ごく自然に、私の手を取った。
大きな彼の手が、私の手をすっぽりと包み込む。
「街は人が多い。はぐれないように、しっかり掴んでいろ」
それは、任務のための、合理的な指示。
そう頭では分かっているのに、繋がれた手から伝わる熱に、顔が火照ってしまう。
城下町は、私が想像していた以上の活気に満ち溢れていた。
石畳の道を、人々が行き交い、あちらこちらから威勢のいい呼び込みの声が聞こえる。
焼きたてのパンの香ばしい匂い、スパイスの刺激的な香り、甘い果物の匂い。
すべてが混ざり合って、街全体を陽気な空気で満たしていた。
「わぁ……!」
見るものすべてが珍しくて、私は子供のようにはしゃいでしまう。
そんな私の歩調に合わせて、ヴァレリウス様は、何も言わずにゆっくりと歩いてくれた。
人混みで、よろけた男性がぶつかってきそうになった時。
彼は、さっと私を自分の後ろに庇い、その男性を冷たい視線で縫い止めた。
露店の大道芸人が、私に声をかけてこようとした時も。
彼が、その芸人に向かって、無言の圧力を送っただけで、相手はすごすごと退散していった。
彼は、言葉にはしないけれど、常に私に意識を向け、あらゆることから守ってくれている。
その事実が、くすぐったくて、胸の奥を温かくした。
ふと、一つの露店に、私の足が止まる。
そこでは、キラキラと輝く、真っ赤な林檎飴が売られていた。
子供の頃、お祭りで一度だけ、父に買ってもらったことがある。
甘くて、少し酸っぱくて、夢みたいに美味しいお菓子。
じっと見つめる私に気づいたヴァレリウス様が、私の視線の先を追った。
「……食べたいのか?」
「え? あ、いえ、そんな……!」
「……任務中の糖分補給は、思考能力を維持するために重要だ」
彼は、またそんな彼らしい言い訳をすると、店主から林檎飴を一本買って、私に差し出した。
「ほら」
「い、いいんですか?」
「任務の一環だと言っているだろう」
ぶっきらぼうな口調で、彼はそっぽを向く。
私は、「ありがとうございます」と笑顔でそれを受け取った。
一口かじると、ぱりっとした飴の食感と、林檎の爽やかな甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。
美味しい。
懐かしい味に、自然と笑みがこぼれた。
そんな私を、ヴァレリウス様が、とても優しい目で見つめていたことに、私はまだ気づかなかった。
私たちは、街の雰囲気を楽しみながら、目的の店へと向かった。
『ささやきの杖』。
それが、例の呪いの小鳥を売っているという、魔道具店の名前だ。
店の中は、魔術学院の生徒と思しき若者たちで、かなり混み合っていた。
皆、お目当ては、やはり『幸運を呼ぶ小鳥』のようだ。
「ああ、そこのお兄さんも、彼女にプレゼントかい?」
私たちが小鳥のチャームを手に取ると、店の主人が、人の良さそうな笑みを浮かべて話しかけてきた。
「この小鳥は、今、学院の生徒たちの間で大人気でね! 持っているだけで、魔法の成績が上がるって評判なんだよ!」
「ほう。それは、素晴らしいな」
ヴァレリウス様は、にこりともせずにそう答えると、代金を払って、チャームを一つ購入した。
店の外へ出て、私たちは、人通りの少ない路地裏へと入る。
「さて、アネリーゼ。頼む」
ヴァレリウス様の目が、学者のものではなく、宮廷魔術師長のものに戻っていた。
私は、こくりと頷き、買ってもらったばかりの木彫りの小鳥を、そっと両手で包み込んだ。
ひやり、と、命のない木とは思えない、不気味な冷たさが伝わってくる。
胸元のチャームが、温かい光を放つのを感じながら、私は意識を集中させた。
――視えた。
薄暗い、店の奥の作業部屋。
店の主人が、楽しそうに、鼻歌を歌いながら、小鳥を彫っている。
彼の心から聞こえてくるのは、金儲けのことばかり。
(しめしめ、面白いように売れるぞ)
(これで、当分は遊んで暮らせるな)
けれど、彼は一人ではなかった。
彼の後ろに、まるで影が人の形になったような、黒い人影が立っている。
その人影が、主人の手元に、どす黒い、寄生虫のような魔力を注ぎ込んでいた。
そして、その黒い人影の思考が、直接、私の頭に響いてくる。
(愚かな男よ。金に目がくらみ、自らが何をしているかも理解できぬか)
(だが、好都合だ。若く、才能ある魔術師の卵たちの魔力は、極上の蜜……)
(さあ、もっと集めろ。我が器が、満たされるまで……!)
視界の隅に、作業部屋の奥に置かれた、巨大な黒水晶が映る。
小鳥たちが吸い上げた魔力が、その水晶へと集められ、水晶は不気味な光を放っていた。
そして、最後に視えたのは、希望に満ちた顔で、このチャームを買っていく、一人の男子生徒の姿。
彼の未来が、この呪いによって、無惨に閉ざされていく。
「……っ!」
私は、思わず目を開き、小鳥から手を離した。
なんて、酷いことを。
「ヴァレリウス様……! 店の主人は、利用されているだけです!」
「彼の後ろに、黒い影のような魔術師が……! その人が、店の奥にある黒い水晶に、生徒たちの魔力を集めています!」
私の報告を聞いたヴァレリウス様の灰緑色の瞳が、氷のような輝きを宿した。
「……やはり、寄生型の呪術師か。面倒な」
彼は、私に「ここを動くな」と短く告げると、一人、店の方へと歩いていく。
次の瞬間だった。
店の中から、悲鳴と、ガラスの割れる派手な音が響き渡った。
そして、あの黒い人影が、店の窓を突き破り、逃げ出そうとする。
しかし、ヴァレリウス様の方が、遥かに速かった。
「逃がすか」
彼が指を鳴らすと、地面から、光の茨が、まるで生きているかのように伸びていき、黒い人影を瞬く間に捕らえた。
人影は、もがき、抵抗しようとするが、光の茨は、その邪悪な魔力を吸収し、さらに強く締め付けていく。
やがて、人影は、完全に動きを封じられた。
あっという間の出来事だった。
店の主人も、いつの間にか、魔法のロープで縛り上げられている。
そこに、ギデオン隊長率いる騎士団が、タイミングよく現れた。
「また君の手柄か、ヴァレリウス! 相変わらず、仕事が早すぎて、俺たちの出番がないな!」
「そして、その情報源は、また、この愛らしいお嬢さんなんだろう?」
ギデオン様の言葉を、ヴァレリウス様は、いつものように無視した。
彼は、まっすぐに私の元へ歩いてくると、私の両肩を掴み、怪我がないかを確かめる。
「……無事か、アネリーゼ」
「は、はい。私は、大丈夫です」
「そうか」
彼は、ほっとしたように、小さな息を吐いた。
そして、私の頭を、優しく撫でる。
「君の働きは、完璧だった。呪いの仕組みだけでなく、黒幕の存在まで突き止めるとは。本当に、君は素晴らしいな」
その、どこまでも甘い称賛の言葉に、私の心は、喜びで満たされた。
「さて」
と、彼は言った。
「任務は完了したが、我々の一日は、まだ終わっていない」
「え……?」
私がきょとんとすると、彼は、少しだけ、視線を彷徨わせた。
その、変装した頬が、気のせいか、少しだけ赤く見える。
「君が言っただろう。『デートみたいだ』と」
「その……『でーと』というものについて、昨夜、書物で調べてみた」
「それによると、一連の共同作業の後には、さらなる娯楽活動と、食事の共有が行われるのが通例らしい」
彼は、咳払いを一つする。
「よって、今回の君の完璧な働きに対する報酬として、私が君を、『でーと』に、招待しよう」
まさかの言葉に、私は、完全に固まってしまった。
ヴァレリウス様が、私を、デートに。
「……い、いいのですか?」
「任務の報酬だと言っている。君には、それを受け取る権利がある」
そう言って、彼は、再び私の手を取った。
その手は、もう、任務のためだけではない、確かな熱を帯びているように感じた。
「さあ、行くぞ。まずは、君の好きそうな、花の綺麗な公園がある。そこで、ゆっくり話でもしよう」
天才で、冷徹で、少し不器用な宮廷魔術師様からの、初めての、デートのお誘い。
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