第5話
茶会までの二日間は、まるで嵐のようだった。
ヴァレリウス様が手配してくれた作法の講師は、マダム・デュボワという、小柄で、しかし背筋のぴんと伸びた初老の女性だった。
彼女は元王妃付きの侍女長だったという輝かしい経歴の持ち主で、その指導は的確かつ容赦がなかった。
「アネリーゼ様、背中が曲がっております! ヴァレリウス閣下のパートナーたる者、常に天から糸で吊られているような意識をお持ちなさい!」
「お辞儀の角度が一度深い! それは国王陛下に対する角度です! 公爵夫人には十五度!」
一つ一つの動作を、ミリ単位で修正される。
食事のマナーから、淑女らしい会話術、扇子の使い方まで、覚えることは山のようにあった。
何度もくじけそうになったけれど、そのたびに私を支えてくれたのは、ヴァレリウス様の存在だった。
彼は、私の厳しいレッスンの合間に、必ず顔を出してくれた。
そして、マダム・デュボワの報告を聞くと、私の頭をくしゃりと撫でて、「よくやっている」と褒めてくれるのだ。
その一言と、大きな手の温かい感触だけで、私の疲れは不思議と吹き飛んでいった。
彼が差し入れてくれる甘いお菓子と、彼からの褒め言葉。
それが、私の何よりの原動力だった。
そして、運命の茶会当日。
侍女のリナに手伝ってもらいながら、私はあの空色のドレスに袖を通した。
髪は美しく結い上げられ、きらきらと輝く髪飾りが飾られる。
薄化粧を施され、鏡の前に立った私は、そこにいるのが自分だとは信じられなかった。
まるで、魔法にかけられたお姫様のようだ。
「……本当に、私なのでしょうか」
「ええ、本当に素敵です、アネリーゼ様」
リナが、うっとりとした表情で頷いてくれる。
その時、部屋の扉が開き、ヴァレリウス様が入ってきた。
彼は、今日の茶会のために、いつもの黒いローブではなく、銀糸の刺繍が施された、濃紺の豪奢な礼服を身にまとっていた。
その姿は、まるで物語に出てくる王子様のようで、私は思わず見惚れてしまう。
私の姿を認めたヴァレリウス様は、その紫色の瞳を、ほんの僅かに見開いた。
いつもの冷静沈着な彼からは想像もできない、素の反応。
彼は、一瞬、何かを言いかけて、やめた。
そして、再びいつもの無表情に戻ると、ただ一言、ぽつりと呟いた。
「……美しい」
その直接的な言葉に、私の心臓が大きく、大きく跳ね上がる。
顔が、耳が、首筋まで、一気に熱くなるのが分かった。
「あ……あの……」
「行くぞ。私のそばから、決して離れるな」
照れを隠すように、彼はそう言って、私に腕を差し出した。
私は、まだ高鳴る胸を押さえながら、その腕にそっと自分の手を重ねた。
アルマンド公爵家の庭園は、まさしく地上の楽園だった。
色とりどりの花々が咲き乱れ、甘い香りが風に乗って運ばれてくる。
楽団が奏でる優雅な弦楽の調べ。
純白のテーブルクロスがかけられたテーブルには、宝石のように美しいお菓子や軽食が並んでいる。
着飾った貴族たちが、あちらこちらで楽しげに談笑している。
そこは、私が今まで生きてきた世界とは、全く違う、きらびやかな場所だった。
「おお、ヴァレリウス卿! 君がこのような場に顔を出すとは、珍しいこともあるものだ」
「まあ、隣にいらっしゃるのはどなた? とても可愛らしい方ですわね」
私たちの登場は、当然のように注目を集めた。
普段は決して社交の場に姿を見せない宮廷魔術師長が、見慣れない娘を連れているのだから、当然だろう。
好奇と嫉妬が入り混じった視線に晒され、私は思わず身を固くする。
「気にするな。雑音だ」
ヴァレリウス様が、私の耳元で低く囁いた。
その声と、腕を支える彼の力強い感触が、私を少しだけ大胆にさせてくれる。
私たちは、主催者であるアルマンド公爵夫人に挨拶を済ませると、早速、目標の人物を探した。
「あそこだ」
ヴァレリウス様が、顎で示した先。
そこに、例の侍女、リアーナ・フォン・アルベールの姿があった。
彼女は、主である公爵夫人の傍に控え、甲斐甲斐しく働いている。
肖像画で見た通りの、儚げで美しい少女だ。
しかし、その表情には、深い哀しみの色が浮かんでいるように見えた。
問題は、どうやって彼女に接触し、持ち物に触れるかだ。
「……私が、何かきっかけを作りましょうか?」
「いや、その必要はない。策は考えてある」
ヴァレリウス様はそう言うと、テーブルに置かれたティーカップを一つ手に取った。
「君は、あそこのテーブルで待っていろ。私が合図を送ったら、動け」
そう言って、彼は私から離れ、人混みの中へと消えていく。
私は言われた通り、庭園の隅にあるテーブルで、彼の合図を待った。
数分後、少し離れた場所で、小さな騒ぎが起きた。
若い貴族の男性が、足を滑らせて噴水に落ちたのだ。
「きゃあ!」
「大丈夫か!?」
周囲の注目が、一斉にそちらへと集まる。
その瞬間、ヴァレリウス様から、目配せで合図が送られた。
今だ。
私は、リアーナが新しい紅茶を運んでくるルートを予測し、そちらへ向かって歩き出す。
そして、計算通りに、彼女と「偶然」ぶつかった。
ドン、という衝撃。
「きゃっ!」
リアーナが持っていた銀のティーポットが、大きく傾く。
私は、慌ててそれを支えるふりをした。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」
「い、いえ、こちらこそ……」
その一瞬。
私の指先が、彼女が強く握りしめていたティーポットの取っ手に、確かに触れた。
――流れ込んでくる、ビジョン。
それは、これまでのものとは少し違った。
ティーポットそのものの記憶ではない。
ポットに触れた、リアーナ自身の記憶と感情が、断片的に流れ込んでくる。
(……お母様、お父様……)
(アルテアの誇りを、取り戻さなければ……)
ティーポットを磨く、彼女の悲しい横顔。
盗み出した『紅涙の首飾り』を、胸に抱きしめる姿。
そして、はっきりと聞こえた、彼女の決意。
(……今夜、零時の鐘と共に、星降りの泉で……)
(あの首飾りの真の力を解放し、我らの無念を晴らす……!)
そこまで視えた瞬間、私ははっと我に返った。
リアーナから、慌てて手を離す。
「……本当に、申し訳ありませんでした」
「いえ、お気になさらないでください……」
リアーナは力なく微笑むと、よろよろとした足取りで、主人の元へと戻っていった。
私は、その場に立ち尽くす。
心臓が、早鐘のように鳴っていた。
間違いない。彼女が、犯人だ。
そして、今夜、盗んだ首飾りを使って、何かをしようとしている。
「アネリーゼ」
いつの間にか、ヴァレリウス様が隣に戻ってきていた。
彼の紫色の瞳が、心配そうに私を見つめている。
「顔色が悪い。……視えたのだな?」
私は、小さく、しかし強く頷いた。
「……任務完了だ。長居は無用だ、ここを出る」
ヴァレリウス様は、私の返事を聞くと、即座にそう判断した。
彼は、私の腰を抱き、有無を言わさずその場を離れる。
ちょうどその時、向こうから、あのギデオン隊長が歩いてくるのが見えた。
彼は、ドレスアップした私を見ると、にぱっと太陽のような笑顔を浮かべる。
「やあ、アネリーゼ! まるで花の妖精みたいだ、すごく綺麗だよ!」
「ヴァレリウス、君にはもったいないくらいだ!」
しかし、ヴァレリウス様は、そんな彼を完全に無視した。
私を庇うように自分の腕の中に引き寄せると、一言も発さずに、彼の横を通り過ぎる。
その徹底した無視っぷりは、逆にギデオン様への強い牽制になっているようだった。
庭園を抜け、人目につかない回廊まで来たところで、ヴァレリウス様は足を止めた。
「それで、何を視た」
私は、自分の見たビジョンを、ありのまま彼に伝えた。
リアーナの悲しみと決意。
そして、今夜零時、『星降りの泉』で、首飾りの呪いを解放しようとしていることを。
すべてを聞き終えたヴァレリウス様の瞳が、勝利の輝きを宿した。
彼は、私の両肩を掴む。
「……素晴らしい。完璧な仕事だ、アネリーゼ」
「君は、またしても私の期待を、遥かに上回る結果を出してくれた」
心からの称賛の言葉。
それだけで、私の努力はすべて報われる。
彼は、回廊の窓から、遠くに見える王宮の時計塔を見上げた。
現在の時刻は、午後九時を少し回ったところ。
「……零時まで、あと三時間弱か」
彼の横顔は、これから始まる決戦を前に、緊張感を帯びていた。
「我々は、今から星降りの泉へ向かう。先回りして犯人を待ち伏せ、首飾りを奪還する」
その声には、絶対的な自信が満ちている。
「アネリーゼ。君の本当の力が、今、王国を救おうとしている。誇りに思うといい」
そう言って、彼は、私の頬を優しく撫でた。
「そして、今夜、全てを終わらせる」
星降りの泉での、最終決戦。
それは、私の運命が、また一つ、大きく変わる夜の始まりだった。
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