第6話
茶会の喧騒が嘘のように、夜の庭園にはひっそりとした空気が流れていた。
虫の音が心地よく響き、月光が私たちの進む道を白く照らし出している。
ヴァレリウス様と二人、私たちは決戦の地である『星降りの泉』へと向かっていた。
私の体はまだ、あの美しい空色のドレスに包まれたままだ。
場違いな格好であることは分かっているけれど、今は着替えている時間すらなかった。
「……緊張しているか」
隣を歩くヴァレリウス様が、低く尋ねる。
「す、少し……。でも、大丈夫です。ヴァレリウス様が、一緒ですから」
強がってそう答えると、彼はふっと息を漏らした。
笑った、というよりは、呆れたような、それでいてどこか優しい響き。
「無理はするな。私の後ろにいろ。何があっても、君の身の安全は私が保証する」
力強い言葉が、私の不安を溶かしていく。
彼は、私の前に立つと、何やら呪文を唱え始めた。
すると、私たちの体を、まるで夜の闇に溶け込むような、薄い魔力のベールが包み込んだ。
「これで、我々の気配は完全に消えた。犯人に気づかれることなく、接近できる」
これが、高位の魔術師が使う、隠密の魔法。
私は、自分の体が少し透けているように見えるのに驚きながら、彼の後に続いた。
星降りの泉は、庭園の最も奥まった場所にあった。
その名の通り、泉の水面には、空の星々が映り込み、まるで本物の星が水底に沈んでいるかのようにきらきらと輝いている。
水の落ちる音が、心地よいリズムを刻んでいた。
泉の前、月光を浴びて、一人の少女が佇んでいる。
リアーナ・フォン・アルベール。
彼女は、その両手に、禍々しい赤黒い光を放つ『紅涙の首飾り』を握りしめていた。
ゴーン……ゴーン……
遠くの時計塔から、零時を告げる鐘の音が響き渡る。
それを合図に、リアーナが行動を開始した。
「おお、古の盟約に従い、我が声に応えよ!」
彼女が、震える声で呪文を唱え始める。
すると、首飾りの宝玉が、脈打つように、さらに強い光を放ち始めた。
「積年の恨み、百年の悲涙! 今こそ、この地に呪いの鉄槌を!」
びりびりと空気が震える。
首飾りから、濃密な負の魔力が溢れ出し、周囲の草花がみるみるうちに枯れていく。
まずい。呪いが、解放されてしまう。
私が息を呑んだ、その時。
「そこまでだ、リアーナ・フォン・アルベール」
ヴァレリウス様が、隠密の魔法を解き、彼女の前に姿を現した。
突然現れた私たちの姿に、リアーナは「ひっ」と短い悲鳴を上げる。
しかし、彼女はすぐに顔を上げ、憎しみに満ちた瞳で私たちを睨みつけた。
「……宮廷魔術師長! それに、あの時の女……!」
「邪魔をするな! これは、虐げられた我が同胞たちの、正当な復讐なのだ!」
彼女が叫ぶと同時に、首飾りから、黒い濁流のような呪いのエネルギーが、私たちに向かって放たれた。
「危ない!」
私が叫ぶより早く、ヴァレリウス様は私の前に立ち、片手をすっと掲げた。
「愚かな」
彼の唇から、たった一言。
その瞬間、私たちの前に、幾何学模様に輝く、巨大な魔法陣がいくつも展開された。
ドゴォォォン!!
呪いの濁流が、魔法の障壁に激突し、凄まじい衝撃音と閃光が迸る。
けれど、ヴァレリウス様が展開した障壁は、びくともしない。
むしろ、呪いの力を吸収し、無力化しているようだった。
「なっ……! 私の、アルテア王家に伝わる秘術が……!?」
リアーナが、信じられないといった表情で目を見開く。
「児戯に等しいな。そんなもので、私を止められるとでも思ったか」
ヴァレリウス様は、冷ややかに言い放つ。
彼は、障壁を展開したまま、さらに別の呪文を紡ぎ始めた。
その指先から、金色の光の鎖が何本も放たれ、リアーナが持つ首飾りを的確に絡め取っていく。
「くっ……離せ! これは、私たちの希望……!」
リアーナは必死に抵抗するが、ヴァレリウス様の魔法は、あまりにも格が違った。
光の鎖は、あっという間に首飾りの呪力を封じ込め、その輝きを奪っていく。
やがて、禍々しい光が完全に消え去った首飾りは、ころんと地面に落ちた。
全てが終わった。
希望を失ったリアーナは、その場に崩れ落ち、嗚咽を漏らし始めた。
「……うぅ……あぁ……」
「お母様……ごめんなさい……」
その時、茂みの中から、武装した騎士たちが現れた。
先頭に立つのは、やはり、ギデオン隊長だった。
ヴァレリウス様が、あらかじめ連絡していたのだろう。
「見事な手際だな、ヴァレリウス。犯人は確保させてもらう」
騎士たちが、泣き崩れるリアーナの両腕を掴み、連行しようとする。
その時、私は、思わず前に出ていた。
「待ってください!」
私の声に、その場にいた全員の視線が集まる。
ヴァレリウス様も、少し驚いたように私を見ていた。
でも、彼は私を止めなかった。
私は、リアーナの前に、そっとしゃがみこんだ。
「リアーナさん」
「あなたの悲しみは、分かります。故郷を奪われ、家族を失った無念……その気持ちは、竪琴や首飾りに触れて、私にも伝わってきました」
私の言葉に、リアーナは、はっと顔を上げた。
涙に濡れた瞳が、私を捉える。
「……あなたに、何が分かるというの……!」
「全部は分からないかもしれません。でも、あなたが、ただ復讐心だけで動いていたわけではないことも、分かります。あなたは、アルテアの誇りを、取り戻したかった。そうですよね?」
私の問いに、リアーナは再び顔を伏せ、小さく頷いた。
「復讐は、さらなる悲しみしか生みません。あなたのしたことは、許されることではないけれど……あなたのその誇りを思う気持ちまで、誰も奪うことはできないはずです」
「だから、生きて、罪を償ってください。そして、いつか、あなたの手で、違う形で、アルテアの誇りを取り戻してください」
私の言葉に、正解などないのかもしれない。
けれど、彼女の痛みを、少しでも分かち合いたかった。
リアーナは、しばらくの間、ただ泣いていた。
やがて、彼女は騎士たちに促され、立ち上がる。
そして、連れて行かれる直前、私に向かって、小さく、本当に小さく、頭を下げた。
その姿を見送りながら、私は、自分の力が、ただ過去を視るだけのものではないのかもしれないと、初めて思った。
事件が終わり、騎士たちが去った後、泉の前には、私とヴァレリウス様だけが残された。
泉のせせらぎと、虫の音だけが聞こえてくる。
「……見事な活躍だったな、アネリーゼ」
不意に、ヴァレリウス様が口を開いた。
「君は、私の想像を、いつも超えてくる」
「犯人を追い詰めるだけでなく、その心まで救おうとするとは。……それは、私にはない強さだ」
彼は、着ていた礼服の上着を脱ぐと、そっと私の肩にかけてくれた。
まだ彼の体温が残る上着が、夜風で冷えた私の体を温めてくれる。
彼の香りに包まれて、心臓が甘くときめいた。
「私は、君のことを、誇りに思う」
それは、今まで聞いたどんな言葉よりも、甘くて、温かい響きを持っていた。
嬉しくて、涙が滲む。
彼に認められた。ただそれだけで、世界が輝いて見えた。
「ありがとうございます……ヴァレリウス様……」
「礼を言うのは、こちらのほうだ。君がいなければ、この事件は、もっと大きな被害を出していただろう」
彼は、私の手を、優しく取った。
「さあ、帰るぞ。冷えた体を温めて、ゆっくり休むといい。君の働きに対する、当然の報酬だ」
繋がれた手から伝わる、彼の温かさ。
見上げた彼の横顔は、月光を浴びて、神様のように美しかった。
最初の事件は、こうして幕を閉じた。
私は、自分の呪われた力が、誰かを救う力にもなることを知った。
そして、私を信じ、導き、守ってくれる、かけがえのない存在を得た。
この人の隣でなら、私は、もっと強くなれる。
もっと、彼の役に立てるはずだ。
彼の大きな背中を見つめながら、私は、未来への希望に、胸を膨らませていた。
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