第4話

ヴァレリウス様の腕に抱かれて部屋に戻った私は、そのままベッドに優しく降ろされた。


「……あの、ヴァレリウス様。ありがとうございました」


「当然のことをしたまでだ。君は貴重な情報を引き出した。消耗するのは当たり前だ」


彼はそう言って、私の頬に軽く触れた。

ひんやりとした彼の指先が、火照った肌に心地よい。


「少し眠るといい。体力の回復が最優先だ」


その言葉に従い、私はこくりと頷いた。

確かに、大きな魔力を持つ品に二日連続で触れたせいか、体は鉛のように重い。


彼が部屋を出て行った後、私はベッドに深く体を沈めた。

天蓋の柔らかなレースが、視界の端で優しく揺れている。

こんな贅沢な休息、追放されてからは考えられなかったことだ。


しばらくして、控えめなノックと共に侍女のリナさんが入ってきた。

彼女が運んできたのは、銀のトレイに乗せられた、色とりどりの可愛らしいお菓子と、ポットに入った温かい紅茶だった。


「ヴァレリウス様からの差し入れでございます。『消耗した魔力の回復には、糖分が最も効率的だ』と」


添えられたカードには、彼らしい、角張った美しい文字でそう書かれていた。

合理的な理由をつけているけれど、これが彼なりの優しさなのだと、もう私には分かる。


「ありがとうございます……!」


胸がいっぱいになりながら、私は小さなフルーツタルトを一つ、口に運んだ。

サクサクの生地と、甘酸っぱい果実、そして滑らかなカスタードクリームのハーモニー。

あまりの美味しさに、思わず頬が緩む。


一口食べるごとに、すり減っていた心が、少しずつ満たされていくようだった。

誰かに大切にされるということが、こんなにも温かくて、幸せなことだなんて、私は今まで知らなかった。


十分な休息を取った後、私はヴァレリウス様の執務室へと呼び出された。


彼の執務室は、宮廷魔術師長の研究室も兼ねていた。

部屋の中は、天井まで届く本棚にびっしりと専門書が並び、テーブルの上には用途不明の魔道具や、怪しげな色をした液体が入ったフラスコが置かれている。

空中には、天体の動きを示す魔法の星図が、ゆっくりと回転していた。

まさに、天才魔術師の仕事場、という雰囲気だ。


「体調はもう良いのか、アネリーゼ」


「はい、お気遣いいただき、ありがとうございます。すっかり回復しました」


私が答えると、ヴァレリウス様は満足そうに頷いた。

彼の前には、巨大な水晶玉が置かれ、その中に様々な情報が映し出されている。


「君がもたらした情報をもとに、犯人の割り出しを進めた」


彼はそう言って、水晶玉に映るリストを私に見せる。

そこには、いくつもの名前と、その人物の詳細な情報が記されていた。


「アルテア王家の紋章を持つ者、そして『リアーナ』という名を持つ者。この二つの条件で生存者を洗い出した結果、二人の容疑者が浮上した」


水晶玉に、二人の女性の肖像画が映し出される。


一人は、白髪の、優しそうなおばあさん。

もう一人は、私とさほど歳の変わらない、儚げな美しさを持つ少女だった。


「一人は、リアーナ・ベルツ。王都の片隅で、針子として暮らしている老婆だ。アルテア王国の元侍女だったという記録がある」

「そしてもう一人が、リアーナ・フォン・アルベール。アルテア王家の遠縁にあたる貴族の末裔で、現在は有力貴族であるアルマンド公爵夫人の侍女を務めている」


「侍女……」


「そうだ。王宮に出入りする機会もあり、国宝の保管場所を知ることも可能だろう。犯人は、後者のリアーナである可能性が高い」


ヴァレリウス様は、淡々と結論を述べる。

しかし、と彼は続けた。


「アルマンド公爵夫人は、王妃陛下とも繋がりの深い、気難しい人物だ。彼女に仕える侍女を、我々が直接尋問するのは政治的に悪手となる」


どうすれば……と私が思い悩んでいると、その時だった。


執務室の扉が、ノックもなしに勢いよく開かれた。


「よう、ヴァレリウス! まだそんな気難しい顔で、魔法の研究か?」


現れたのは、騎士団の制服を粋に着こなした、明るい金髪の男性だった。

整った顔立ちに、人好きのする快活な笑顔。

ヴァレリウス様とは対照的な、太陽のような雰囲気を持つ人だ。


「……ギデオン隊長。何の用だ。ノックくらいしたらどうだ」


ヴァレリウス様の声が、あからさまに不機嫌なものになる。


ギデオンと呼ばれた騎士は、そんな彼の様子を気にもせず、大股で部屋に入ってきた。

そして、私の存在に気づくと、ぱちりと大きな目を瞬かせた。


「おや? この可愛らしいお嬢さんは誰だい? ヴァレリウス、君の執務室で女性を見るなんて、雪でも降るんじゃないか?」


彼は面白そうにそう言うと、私に向かってにっこりと微笑みかける。


「初めまして、レディ。俺は王宮騎士団第一部隊隊長の、ギデオン・アークライトだ。よろしく」


「あ、アネリーゼと、申します……」


突然のことに戸惑いながらも、私はかろうじて自己紹介をした。

そんな私を見て、ギデオン様はさらに笑みを深める。


「アネリーゼ、素敵な名前だ。まるで春の花のようだね。こんな埃っぽい場所にいないで、今度俺と、城下町の美味い菓子でも食べに行かないかい?」


その軽薄な、しかし魅力的な誘いに、私の頬がカッと熱くなる。

どう返事をすればいいのか分からず、視線を泳がせることしかできない。


その瞬間、すっと私の前にヴァレリウス様が立った。

まるで、私をギデオン様の視線から隠すように。


「ギデオン隊長。彼女は、君の遊び相手ではない」


その声の冷たさに、部屋の温度が数度下がった気がした。


「俺の助手を、戯れに口説くのはやめてもらおうか。それとも、騎士団の仕事がよほど暇だと見える」


「はは、怖い怖い。そんなに怒るなよ。少し挨拶しただけじゃないか」


ギデオン様は肩をすくめるが、その目は面白そうに細められていた。

明らかに、ヴァレリウス様の反応を楽しんでいる。


「アネリーゼは、国家機密に関わる重要任務の協力者だ。そして、私の完全な庇護下にある。理解したか?」


ヴァレリウス様は、私の肩にそっと手を置いた。

『彼女は俺のものだ』と、言葉にせずとも主張するような、独占欲に満ちた仕草。


その強い眼差しに、さすがのギデオン様も降参したようだ。


「分かった、分かったよ。君がそれほど大切にしている宝物に、もう手出しはしないさ」


彼はひらひらと手を振ると、私にだけ見えるように、こっそりと片目を瞑って見せた。


「じゃあな、アネリーゼ。また会えるといいな」


嵐のようにやって来て、そして嵐のように去っていく。

ギデオン様が去った後も、部屋には気まずい空気が流れていた。


ヴァレリウス様は、まだ少し不機嫌そうに押し黙っている。

そんな彼に、私はどう声をかければいいのか分からない。


やがて、彼は一つため息をつくと、何事もなかったかのように本題に戻った。


「……話を戻す。侍女リアーナに接触する方法だが、一つ、好都合な機会がある」


「機会、ですか?」


「ああ。三日後、アルマンド公爵夫人が主催する、庭園茶会が開かれる。我々もそれに参加し、自然な形でリアーナを観察する」


「ちゃ、茶会!?」


予想外の言葉に、私は素っ頓狂な声を上げた。

茶会といえば、貴族たちの重要な社交場だ。

追放された私が、そんな場所に行けるはずがない。


「で、でも、私にはそのような場にふさわしいドレスもありませんし、作法も……」


狼狽える私に、ヴァレリウス様はこともなげに告げる。


「その心配は無用だ」


彼が指を鳴らすと、執務室の隅にあったカーテンが、ひとりでにさっと開いた。


その向こうに現れたのは、一体のマネキン。

そして、それに着せられた、息を呑むほど美しいドレスだった。


空の青さを溶かし込んだような、繊細なシルクの生地。

胸元や裾には、銀糸で星屑のような刺繍が施されている。

上品で、けれどどこか幻想的な雰囲気を持つ、素晴らしいドレスだ。


「……これは?」


「君が茶会で着る服だ。君の協力がなければ、この事件は解決しない。よって、君が茶会に参加することも、任務に必要な経費だ」


また、合理的な理由をつけている。

でも、こんな素敵なドレスを用意してくれるなんて、明らかに、ただの「経費」で済む話ではない。


「君は、私のパートナーとして参加する。私が常にそばにいる。何も恐れることはない」


パートナー、という言葉が、私の胸に甘く響く。


「……はい」


私は、魔法にかけられたように、こくりと頷いた。


目の前の美しいドレスと、私をどこまでも守り、導いてくれる、冷徹で優しいご主人様。


三日後の茶会で、一体何が起こるのだろう。

期待と不安で、私の心臓は大きく高鳴っていた。


「明日、明後日は、茶会に向けて作法の勉強をしてもらう。講師も手配済みだ」

「完璧にこなせ。私のパートナーが、みっともない姿を晒すことは許さん」


彼の言葉は厳しい。

けれど、その瞳の奥に、私への絶対的な信頼が宿っているのが分かった。


だから、私は、笑顔で答えることができた。


「はい、ヴァレリウス様! お任せください!」


この人の隣に、堂々と立つために。

私は、どんな努力もしてみせる。

そう、心に強く誓った。

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