第3話
ふかふかの羽根布団の感触に、私はゆっくりと意識を浮上させた。
窓から差し込む朝の光が、部屋を優しく照らしている。
昨日までの、地下室のひんやりとした薄闇が嘘のようだ。
あまりに心地よい目覚めに、一瞬、昨日の出来事すべてが夢だったのではないかと思ってしまう。
けれど、胸元で淡い光を放つ守護のチャームが、それが紛れもない現実だと教えてくれた。
『君の力は、私にとって必要な力だ』
ヴァレリウス様の言葉が、胸の奥で温かく響く。
自己肯定感の低さは、そう簡単にはなくならない。
でも、彼の言葉を思い出すだけで、ほんの少しだけ、自分を認めてあげられるような気がした。
コンコン、と控えめなノックの音。
「アネリーゼ様、朝の準備に参りました」
扉の外から聞こえたのは、若い女性の声だった。
私が「どうぞ」と答えると、一人の侍女が丁寧なお辞儀と共に部屋に入ってくる。
「おはようございます、アネリーゼ様。宮廷魔術師長様より、お世話を申し付かっております、リナと申します」
リナと名乗った彼女は、てきぱきとした動きで身支度の準備を始めた。
用意されたのは、昨日クローゼットで見たものとは違う、新しい服。
淡い水色のワンピースは、私の髪の色に合わせて選んでくれたのだろうか。
「ヴァレリウス様が……?」
「はい。アネリーゼ様が不自由なく過ごせるよう、万全を期すようにと。……閣下が、特定個人の身の回りについて、これほど細やかに指示をされるのは初めてのことで、侍女たちの間でも大変な話題になっております」
リナはそう言って、少し悪戯っぽく微笑んだ。
その言葉に、私の顔にまた熱が集まるのが分かる。
ヴァレリウス様は、本当に私のことを気にかけてくれているんだ。
身支度を終え、鏡の前に立つと、そこには見違えるような自分がいた。
みすぼらしい作業着をまとっていた昨日までの私とは、別人みたいだ。
「とてもお似合いです、アネリーゼ様」
「あ、ありがとう……」
褒められ慣れていない私は、どう反応していいか分からず、俯いてしまう。
そんな私に、リナはくすりと笑った。
朝食を終えた頃、ヴァレリウス様が部屋を訪れた。
「準備はできたか、アネリーゼ」
彼は部屋に入ってくるなり、私の姿を上から下まで一瞥する。
その射貫くような視線に、心臓がどきりと跳ねた。
「……その色、君によく似合っている」
ぼそりと呟かれた言葉は、褒め言葉のはずなのに、どこか命令口調だ。
彼らしい、と思った。
「ありがとうございます……」
「行くぞ」
ヴァレリウス様は、私に片腕を差し出した。
貴族の男性が女性をエスコートする時の、正式な作法。
戸惑いながらも、私はおそるおそる、彼の腕に自分の手を添えた。
がっしりとした腕の感触と、彼から香る爽やかなミントの匂いに、緊張で体が強張る。
二人で向かったのは、王宮の中枢にある『大書庫』だった。
そこは、王国の歴史と知識のすべてが眠る場所。
天井まで届く本棚が迷路のように連なり、古い紙とインクの匂いが満ちている。
高い窓から差し込む光が、空気中を舞う埃をキラキラと照らしていた。
学術官や研究者たちが、物音一つ立てないように、ひっそりと書物を読みふけっている。
私たちは、その奥にある『特別資料室』を目指した。
そこには、特に重要な歴史的資料や、魔術的な価値を持つ文献が保管されているという。
しかし、資料室の扉の前で、私たちは一人の男に阻まれた。
「これはこれは、ヴァレリウス宮廷魔術師長。このような場所へ、一体どのようなご用向きで?」
ねちっこい口調で話しかけてきたのは、この大書庫の管理責任者である、グラマン子爵だった。
恰幅のいい体に、いかにも意地が悪そうな細い目が特徴の人物だ。
「国王陛下の勅命による、緊急の調査だ。特別資料室に保管されている『星詠みの竪琴』を閲覧させてもらう」
ヴァレリウス様は、感情の乗らない声で端的に用件を告げる。
しかし、グラマン子爵は、わざとらしくため息をついてみせた。
「はて、そのような話は聞いておりませんが……。それに、そちらの娘は? まさか、そのような下女を、神聖な資料室に立ち入らせるおつもりではありますまいな」
子爵の侮蔑に満ちた視線が、私を突き刺す。
下女、という言葉に、私の心臓が冷たくなるのを感じた。
そうだ。貴族社会から追放された私は、もう令嬢ではない。
彼の目には、私はただの召使いにしか見えないのだろう。
私が俯いてしまったのを見て、子爵は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
だが、その笑みは、次の瞬間には凍り付くことになる。
「グラマン子爵」
ヴァレリウス様の呼びかけに、空気が張り詰めた。
声のトーンは変わらない。
だが、その声には、絶対零度の冷気が宿っていた。
「君は今、国王陛下の勅命に対して、異を唱えた。そう解釈していいのか?」
「ひっ……! い、いえ、滅相もございません!」
「この国の安全保障に関わる、最重要任務だ。それを、君個人の判断で妨害するというのなら、その旨を報告書に明記させてもらうが」
「め、明確に妨害などとは、一言も……!」
「そうか。では、今すぐ扉を開けろ」
有無を言わせぬ命令。
グラマン子爵は、顔を真っ青にして何度も頷くと、震える手で鍵を取り出し、慌てて資料室の扉を開けた。
ヴァレリウス様は、そんな彼には一瞥もくれず、私の手を引いて中へと入る。
圧倒的な力で、私を守ってくれた。
それが、どうしようもなく、私の胸をときめかせた。
特別資料室の中は、外よりもさらに厳重な雰囲気が漂っていた。
いくつもの魔法的な結界が、貴重な資料を守っている。
その中央に、ガラスケースに収められた一挺の竪琴が安置されていた。
古びた木製の竪琴。
しかし、その表面には、螺鈿細工で精緻な星空が描かれている。
『星詠みの竪琴』。
滅びたアルテア王国の、最後の王妃が愛用したと伝えられる遺品だ。
ヴァレリウス様は、ガラスケースにかけられた封印の術式を、指先一つでいとも簡単に解いてみせる。
「アネリーゼ。これから、これに触れてもらう」
「はい……」
「『紅涙の首飾り』よりも、強い記憶が流れ込んでくる可能性がある。だが、心配はいらない。君がもらったチャームが、激しい魔力の奔流から君を守るだろう」
彼はそう言って、私の肩にそっと手を置いた。
昨日と同じ、温かくて心強い魔力が流れ込んでくる。
「私もそばにいる。恐れることはない」
その言葉に、私はこくりと頷いた。
大丈夫。この人がいれば、きっと大丈夫だ。
私は深呼吸を一つして、震える指を、そっと竪琴の弦に触れさせた。
その瞬間。
轟音と共に、膨大な記憶の濁流が、私の意識を飲み込んだ。
――陽気な音楽。人々の楽しげな笑い声。
――美しい王妃様が、この竪琴を優しく爪弾いている。
――次の瞬間、燃え盛る王城。兵士たちの怒号と、人々の悲鳴。
――血と炎の中で、王妃様は竪琴を抱きしめ、涙を流していた。
喜びと悲しみ、愛と憎しみ。
アルテア王国の栄光と滅びの記憶が、私の中で嵐のように吹き荒れる。
苦しい。
でも、負けられない。
ヴァレリウス様の役に立つんだ。
私は必死に意識を集中させ、犯人に繋がる手がかりを探す。
『……リアーナ……』
竪琴の記憶の奥底から、王妃様の悲痛な声が聞こえた。
それは、彼女が最後まで守ろうとした、愛する娘の名前。
そして、視えた。
黒いローブの人物が、この資料室で、竪琴の前に跪いている姿。
それは、盗みに入る前のこと。
まるで、亡き王妃を偲ぶように、祈りを捧げている。
その人物の袖口に、私は一つの紋章を見た。
『涙を流す星』。
それは、アルテア王家の紋章。
「……っ!」
ビジョンが途切れ、私ははっと息を吸い込んだ。
体中の力が抜けて、後ろによろめく。
その体を、ヴァレリウス様の強い腕が、しっかりと支えてくれた。
「アネリーゼ! しっかりしろ!」
彼の声が、少しだけ上ずっている。
初めて聞く、彼の焦った声だった。
「だ、大丈夫です……ヴァレリウス様……」
「顔色が真っ白だ。無理をさせたか……」
彼はそう言うと、どこからか取り出した水を、私の口元へと運んでくれた。
彼の腕に支えられながら、私はこくこくと水を飲む。
「視えました……」
少し落ち着きを取り戻した私は、彼に告げた。
「犯人と同じ、黒いローブの人物が……この竪琴の前で、祈りを捧げていました」
「それから、紋章が……涙を流す星の紋章が、その人の袖口に」
「そして、名前が……『リアーナ』という名前が、聞こえました」
私の報告を聞き、ヴァレリウス様の瞳が鋭く光った。
「リアーナ……。アルテア王家の王女の名前だ。そして、王家の紋章……。間違いない。犯人は、滅びたアルテア王家の生き残りか、その関係者だ」
彼は、私の頭を、大きな手で優しく撫でた。
「よくやった、アネリーゼ。君のおかげで、犯人の正体に大きく近づいた。最高の成果だ」
その手つきは、まるで壊れ物を扱うように、とても優しかった。
褒められた嬉しさと、彼の優しい感触に、私の胸は甘く痺れる。
「今日はもう休め。これ以上の無理はさせられない」
「君は、私が思っていた以上に、大きな成果を上げてくれた。ゆっくり休む権利がある」
彼はそう言うと、私を軽々と横抱きにした。
「きゃっ……!?」
「ヴァレリウス様!? わ、私、歩けます!」
「黙って運ばれていればいい。これは、君の素晴らしい働きに対する、私からの褒美だ」
有無を言わせぬ口調でそう言うと、彼は私を抱いたまま、悠然と資料室を後にした。
すれ違う人々が、驚愕の表情で私たちを見ているけれど、もう気にならなかった。
彼の腕の中は、不思議なほど安心できる。
この人のそばにいれば、私はもっと強くなれる。
忌まわしいだけだと思っていたこの力で、彼の役に立てる。
確かな手応えと、胸に宿った温かい感情を抱きしめながら、私は彼の胸にそっと顔を埋めた。
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