ファントム、協力する1

 朝5時。灰島平太は、寸分の狂いもないペースでアスファルトを蹴っていた。心拍数は安定し、呼吸も穏やか。完璧にコントロールされた、彼だけの静かな時間。


  ――のはずだった。


「おはようございます! 灰島さん!」


「……おはよう、玲奈さん」


 いつもは一人で走るランニングコースだが、たまに彼女が音もなく乱入してくる。いつの間にか真横に現れていた玲奈に、灰島は内心で悪態をついた。気配がない。何度経験しても、この忍者の末裔のステルス性能には慣れそうにない。


「……おはよう、玲奈さん。君の心肺機能は、オリンピック選手を超えているな」


「それ、褒めてます? というか灰島さん、最近『JKの神』になったらしいですよ」


「神……? どの宗教団体だ。背後関係は? 新手のカルトなら、公安の管轄だが」


 息一つ切らさず、本気でそう口にする灰島に、玲奈は呆れた視線を送る。


「違いますよ、カルトじゃなくて、TikTok。ほら」


 走りながら器用に差し出されたスマホの画面には、カウンターで真剣な表情でコーヒーを淹れる灰島の姿が映っていた。絶妙なアングルと照明、そしてスローモーション編集が施され、まるでドキュメンタリー番組の一場面のようだ。


 コメント欄には、『指の動きが芸術』『この無機質な瞳に射抜かれたい』『顔がよく見えない! 実物拝みに行きます』といった熱狂的な声が並んでいる。


「……完全な肖像権の侵害だ。情報開示請求から、発信者の特定、そして損害賠償請求まで、3時間もあれば完了できる」


「またまたぁ。カメラのレンズフレアまで計算して、奇跡の角度で顔を隠してるくせに。プロの犯行ですよ、それ」


 図星を突かれ、灰島は「……気のせいだろう」とだけ呟いた。 玲奈はニヤリと笑うと、とどめを刺すように尋ねた。


「で、もしJKに『付き合ってください!』って告白されたら、どうするんですか? 神として」


「まず、対象(女子高生)の身辺調査を行う」


 灰島は、まるで任務のブリーフィングのように、淡々と答えた。


「背後に敵対組織がいないか。家族構成、交友関係、SNSの裏アカウントまで全て洗う。ハニートラップである可能性を32%と仮定し、接近の真意を分析。次に、青少年保護育成条例、ストーカー規制法、各都道府県の迷惑防止条例に抵触しないか、過去の判例をAIで検索し、リスクを算出する。以上の脅威アセスメントをクリアした場合、初めて『お付き合い』という選択肢を考慮するフェーズに入るが――」


 長々と続く非人道的なリスク管理の説明を、玲奈は心底うんざりした顔で遮った。


「……それって、遠回しに付き合わないって言ってますよね?」


「当然だ。価値も意味も見いだせん」


「つまんなーい」


 玲奈がそう言った瞬間、近くの金属加工工場から甲高い金切り声が聞こえてきた。


「お前ら、それでも人間の仕事か! もっと手を動かせ、このグズ!」


 声の主は、おそらく工場の年配の経営者だろう。そして、罵声を浴びせられているのは、最近働き始めたらしい数人の東南アジア系の若者たちだった。彼らはやつれた顔で俯き、ただ黙々と作業を続けている。


「……またやってる」


  玲奈が、顔をしかめて小さく呟いた。


「あそこの工場、技能実習生を安くこき使ってるって、近所でも評判が悪いの。でも、人手不足だからって24時間体制で働かせてて、あの人たち、いつ休んでるんだろう?」


 灰島は、走りながら黙ってその光景を見ていた。


 搾取の構造。


 世界中どこにでもある、ありふれた悲劇の一つだ。今の自分が首を突っ込むべき問題ではない。彼はそう判断し、意識的に視線を逸らした。


 いつものように店の前を掃除し、開店の準備をする。


「しかし、灰島君、玲奈と同じペースで走れるなんて、オリンピック目指したらいい線いきそうですね」


「……それ、玲奈さんに言ってあげてください」


 年齢的にも、彼女なら可能だろう。なのにマスターは「いやいや」と首を振る。


「あの子はちょっとかっとなる性格でしてね。そういうのに出ちゃうと、相手を殺しかねないですから」


 ほっほっほっ、と笑うマスターだが、恐らく冗談ではないのだろう。


 店を開くと、常連客がモーニングを食べにやってくる。チェーン店のような安さで提供はできないが、コーヒーとトーストの質はこちらの方が上だろう。だからこそ、常連客は値段に関わらず『セグレト』へやってくる。


 お昼のランチにやってくるのは、近くのビルで働いている事務員や営業。駅に近いこともあって、一見客も珍しくない。


 昼を過ぎると、ティータイムだ。歩き疲れた営業が涼みに来ることもあれば、最近は学校を終えた高校生や大学生もやってくる。


「君のおかげで商売繁盛ですね」


「コーヒーの味で来ていただけるよう、精進します」


 灰島がそう言うと、マスターは「もう十分ですよ」と笑顔で彼の背中を叩いた。




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